アキラと生身の佐為の初顔合わせ、ネット碁
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、筒井、三谷の姉、市川、和谷、フク、アキラ、緒方、sai、zelda)
佐為は熱心にテーブルを回っていたので、男の子が一人、店に入ってくるのに気づかなかった。
その子は奥の隅に腰を下ろした。
出口に戻ろうとした佐為は、お茶を運んできた市川と接触してしまった。お茶がこぼれ、ズボンをぬらした。
「すみません。今お拭きしますね。」
市川は急いでタオルを取りに戻ろうとした。
「いえ。私がうろうろしていたものですからいけないのです。大丈夫ですから。」
佐為はそう言って、ポケットからくしゃくしゃのハンカチを出してズボンを拭いた。
「すぐ乾くと思います。今日はこれで失礼して、改めてまた参りますから。」
「でも、その格好で外には、ちょっと…。」
そういいながら市川は思っていた。
普段はこんなことは無いんだけど、この長髪の黒髪のせいよ。きっと。アキラ君もこうしたら意外と似合うかもね。
その時、アキラが言った。
「市川さん。この人は誰かと打つの?」
市川の代わりに佐為が答えた。
「私、まだ受付を済ませてませんよ。」
アキラは頷いて市川に言った。
「じゃあ、僕が相手をするよ。いいよね。市川さん。」
「ええ。アキラ君。そうしてくれたら助かるわ。でもいいの?」
「うん。今日は時間あるし。」
アキラ? この少年があの塔矢アキラなのか。滅多にない機会かも知れぬ。
佐為は、即座に決めた。
「では、お言葉に甘えて。ズボンが少し乾くまで、ちょと、お相手をお願いします。」
「棋力はどのくらいですか?」
アキラは佐為に訊ねた。
「ああ、正確なところはわかりませんが、そこそこ強いですよ。」
アキラはくすりとした。
そこそこって。この人、どういう人なんだろう。碁会所に行ったことないのかな?
それにこんな長髪で、服装もちょと碁会所で碁を打つ感じのタイプじゃないみたいな。
「棋力測ったこと無いんですか。」
「ええ、でも碁は小さい頃から打ってましたから。外の人ともたまには打ってみた くて、ちょっとこちらを覗いてみました。」
小さい頃から?っていうとお父さんとか、おじいさんとかとが打ってたのかな。
この人、もしかして僕が子どもだと思って安心してる?
アキラは石を握った。
「あなたが黒ですね。」
「よろしくお願いします。」
石を置く手つきをみて、アキラは慣れてる人だなと感じた。
やっぱり、子どもの頃から打っていたというだけあるかも。この碁って定石どおりかな。少し古い定石っぽいけど。 この人のおじいさんが教えたのかな。
佐為は帝と打つ時のように、碁盤に載せるようにすっと石を置いた。それは柔らかにしなう葦のようで、どんなに打ち込まれてもいつの間にかすっと立っているという風情だった。
僕の打ち込みにも動じない。それよりも軽やかにかわしていって。
局面をいつもこの人はリードしている。
その時アキラは佐為がすっと置いた黒石をみつめた。
古い定石で始まったようにみえたけど…。これは…。最善の一手でも、最強の一手でもない。
僕の力量を図っているんだ。恭しく下座から石を置いているけれど。でもはるかなる高みから僕を眺めている。
アキラは気が遠くなりそうな感じがした。
「ありません。」 一度目はすぐに終わった。
市川は、受付から、ちらりと、二人の様子を眺めた。
アキラは背を向けていたが、佐為の楽しそうな表情は見えた。
「良かった。アキラ君が居てくれて。あの人、あんなに楽しそうで。アキラ君、上手くやってくれてるんだわ。」
アキラは佐為に言った。
「もう一度、打ってくれませんか。」
「ええ、いいですよ。」
「今度は僕が黒でいいですか。」
「はい。お願いします。」
アキラは、じっと考えた。この人は序盤は古い定石で始める癖があるのか?
ならばそこに付け入る隙がある。さっきは油断してずいぶん甘い手を打ったけど、今度は大丈夫。いけるかも。
佐為はこの場を心の底から楽しんでいた。
塔矢アキラとヒカル、負けん気だけはどちらも引けをとらない。しかし、やはり、子どもの頃から切磋琢磨していただけのことはある。
いや、それだけではない。この子はただの子どもではない。未熟ながら輝くような手を放ってくる。この子の成長が楽しみだ。将来は獅子に化けるか龍に化けるか。
それから考え込んでいるアキラの顔を見て嬉しそうな顔をした。
この子は今私に牙を剥いている。受けてたちましょう。この対局、楽しみですよ。
私は今、やっとヒカルの時代へやってきた意味をもらった気がする。久々の心躍る碁ですよ。
アキラが気を入れて打った碁もやがて決着がついた。
また負けた。完敗した。
アキラはじっと、下を向いていた。
「検討をしましょうか。」
相手が負けてがっくりと来ることに慣れている佐為は、物柔らかにそう言った。
しかし、その時ふと気づいた。随分時間がたってしまった気がする。
「今、何時でしょうか。」
そして、ぐるっと見回し、壁にかかっている時計に目をやった。4時45分?
「しまった。もうすぐ5時です。私は失礼しなくては。いつか、また。」
佐為は、そういうと慌てて立ち上がり、すばやく出口に向かい、受付の女性に軽く会釈して、碁会所を後にした。
あっという間の出来事でアキラは呆然とその後を見送った。
なにもかも眩暈がする気分だった。
お父さんの弟子の人たちには負けることはよくある。今日打った人より、若い人 の時だって。
でも今日の碁はそういう碁とは違うんだ。
あの人はいくつぐらいなんだろう?20代だと思えるけど。緒方さんぐらいかな?
プロじゃないことは確かだ。たぶん…でも。
彼は東京にやっと慣れたとか言っていたけど。
なまりが少しあった?京都の方かな?
いや、あの丁寧な口調は、もしかして外国から来たのかな。
それよりも僕はあの人の碁に何か覚えがある気がする。それが思い出せないけど。 いつどこで?あの人に会うのは初めてだ。だとしたらどこで見たんだろう?
「市川さん。今の人、なんていう名前?」
アキラは市川に声をかけた。
「それが、受付をする前だったのよ。分からないわ。」
分からない?
アキラは窓から通りを眺め下ろした。佐為はもう通りには見当たらなかった。
アキラは、ふともう会えないのではと思った。
また、いつか。 あの人はそう言ったけど、また来るのだろうか、ここへ。
何で名前を聞いておかなかったのだろう。
その時、佐為の座っていた椅子にハンカチが忘れられているのに気づいた。
ズボンを拭いてから、そこに置いたままだったのだ。
慌てて帰ったから忘れちゃったんだ。
何か大切な約束があったのかな。あの慌てようは。
ここはそれまでの時間つぶしだった?
アキラは、そのくしゃくしゃのハンカチを手に取った。
何の変哲もない白のハンカチだったが、彼が残した唯一の手がかりだった。
アキラはそれを広げてみた。
ハンカチの端にマジックペンでしっかり名前が書かれていた。
葉瀬中一年 進藤ヒカル