アキラと生身の佐為の初顔合わせ、ネット碁
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、筒井、三谷の姉、市川、和谷、フク、アキラ、緒方、sai、zelda)
外は雨だった。
アキラは、国際アマ棋戦の日から毎夜、ネット碁を覗いていた。
saiという登録名は目にできなかった。
やっとsaiというのを目にしたのは4日も経った朝だった。
saiの石は、画面上の碁盤を軽やかに舞っていた。アキラにはそのように見えた。
この強さはあの人の気がするけれど。
そう、確かに強い。でもこれはこの人の腕に見合う相手じゃない。僕が打てばあの人かどうか分かるのに。
アキラは対局が終わる度、何度か対局を申し込もうとしたけれど、なかなかあたらなかった。
saiに申し込む人が多いのだ
そしてsaiは夕方5時になると画面から消えた。
今日からプロ試験本戦というその日、アキラは起きるとすぐパソコンを開いてみた。
いつもの父との日課の早朝の一局は今日はなかった。行洋が棋戦のため、留守をしていたからだ。
まさか、こんな夜明けにsaiが居るとは思えないけれど。
アキラは苦笑しながら、画面を見つめ、はっとした。
そこにはsaiがいたのだ。 盤面にはすでに模様が広がっていた。
こんなに朝早くから? いや、ここまで打つには夜明け前から打ってる筈だ?
時差? もしかしてあの人は日本に居ないのかな?
そんなことを思いながら、アキラはじっと、その対局を眺めた。見応えのある対局だった。
まだ終わりそうもないな。そう思いながら、アキラは次の対局者になるためリストに名前を連ねた。
それにしてもと、アキラは思った。
朝からこんなに申込があるなんて、僕が対局できるわけもないけど。
その対局が終わり、一瞬、時間が途切れた気がした。
えっ?次の対局者は僕?
対局者に指名され、アキラは胸の高鳴りを感じた。
もしかしてsaiは僕のことを分かってて、指名してきたんじゃないだろうか。
そんな気がしたのだ。
いや、まさか。 仮にあの人がsaiだったとしても僕の名前を知っているだろうか。
ああ、そんなことはどうでもいい。とにかく二度とない機会だ。
アキラは深呼吸をした。そして、真っ直ぐに座りなおすと、画面と向き合った。
アキラは碁会所であった佐為の風貌を思い浮かべた。
あの人は今どんな顔をして画面に向かっているのだろう。
先手はアキラだった。
僕が黒。今度は負けない。あれからまだひと月しか経たないけど。研究したんだ。あの人の手の内は分かっている。今度は勝利 をつかみたい。
ヒカルは画面を見つめていた。
すごい。何か迫力が画面からわきだしてくるようだ。佐為は静かに画面を見てマウスで指示を出していた。
今回はヒカルは一言も口を挟まなかった。
昨日のAkiraは、塔矢じゃなかった。でもこのakiraはおそらく塔矢だ。巡り合ったのだ。
ヒカルには塔矢の真剣な顔が目に浮かんだ。
いつもはそれがやがて失望に変わるのだ。自分が臨む対局相手じゃなかったと。
でも今日は違う。塔矢にとっても佐為にとっても最高の時間が流れているのだ。
どのくらい経っただろう。
あっ。投了してきた。でもヒカルは声を上げなかった。
佐為はただ感慨にふけるようにじっと画面を見つめていたままだった。
しばらくしてやっと、ヒカルは聞いた。
「どうだった。こいつ。塔矢だった?」
「おそらく間違いないでしょう。」
佐為は上の空で答えた。ヒカルは不審そうに佐為をみた。
「佐為。感想は?」
佐為は我に返ったように少し微笑を浮かべた。
「あっ。ええ、そうですね。彼は力強い碁でした。…勝負勘はさすがにいい…怖いところでしっかり考えてきましたし…」
「塔矢の奴、強くなってた? ねえ、佐為?」
佐為はその声に現実に引き戻されたように答えた。
「強く?そうですね。強くなったのは私の方です。」
それはたった今、ほんの一月前に打った相手との対局で確かめられた事実だった。確かな棋力の持ち主との対局。
佐為は、自分の発したその言葉に気がつき身震いした。熱い思いが、たぎってきた。
私がまだ強くなれるとは。ああ、私はもっと打ちたい。限りなく神の一手に近づくため。私は今この時代に来た訳を実感している。
神の一手を目指すため。全てはそのためにある。
「このひと月半、いろいろな棋力の持ち主と打ち合いました。 ヒカルの時代の碁を。それが私を磨いたのだ。」
それから、ヒカルの方をにっこりと見た。
「そしてヒカル。あなたも強くなった筈です。あなたは、ここしばらく打ってないけれど、この私の打つ碁を見続けてきたのですから。」
佐為の言葉がヒカルの中でこだました。
強く?俺も強くなったって?
「今日は少し部屋を片付けて早く帰らなきゃ。石も持って帰るよ。今度来る時はここに現れるなよ。」
「石のあるところへ行くのですから、大丈夫ですよ。それにしても、もう終わりなのですね。本当に残念だ。 とても手強い相手もいましたから。名残惜しいことです。」
「俺、そのうちパソコン買ってもらうからさ。高校生になったら。そうしたらいくらでも打てるよ。
まあ、金さえ出せばネット碁を打つ場所はあるんだけどね。」
その時、佐為が部屋を眺め渡して、何気なく言った。
「ここも見納めですね。二、三度湯殿を借用しましたが、とても気持ちが良かった。何といっても水もですが、お湯がすぐ出るのがヒカルの時代のすごいところですよ。 ボディシャンプーとやらもいい香りがして…」
それを聞いたヒカルは、風呂場へ飛んでいった。
母さん、もちろん家中掃除すると思うけど…。
「今度は俺が佐為んとこへ行くよ。本当に強くなったか試したいし。俺、導師さんに勝てるかな。」
佐為は楽しそうに笑った。
「実践ですね。導師はヒカルと打ったらさぞ、驚かれることだろうな。強くなったと。焦るかもしれないですよ。」
「ああ、わくわくするな。 でも宿題が終わってからだけど。」
「ヒカル、家に戻ってから宿題をやらなかったんですか。何をしてたんです?」
ヒカルはそっぽを向いて答えなかった。
アキラはじっとしていた。
saiの名前はアキラとの対戦が終わると同時に消えた。
チャットを交わす暇はなかった。
でもチャットを交わしたところで、何といえばいい?saiは間違いなくあの人だ。だけれども、この強さはあの時とまるで違う。たったひと月前なのに。もしかしてこの前は僕に合わせて、力をセーブしてたのか?名人の父と互い戦で打っている僕に?
アキラの耳に窓の外の雨音が響いた。
そうだった。プロ試験の日だったんだ。
試験はもうとっくに始まっている時刻だった。
その頃、アキラの対局を面白そうに見ていた人物が居た。緒方だ。
「saiか。この男、いつも夜明け前に現れているが、時差があるのか?JPNも怪しいものだな。 いや、まあ海外在住日本人ということもあるが。」
それからまた呟いた。
「それにしてもあの塔矢アキラがここまで手玉に取られるとはな。俺とて勝てるかどうかわからん。 みんなが騒ぐのも無理はない。
アマとは信じられんが…。こんなところにプロがうろうろしているというのも変だ。」
緒方は立ち上がると、熱帯魚の水槽の前に行き、餌を手に取った。
「saiの打ち方は。そう。saiの練達さは長久の歳月を思わせる。どんな爺さんだというのか。」