佐為とヒカルが出会い、中学囲碁大会に出るまで
(主な登場人物…佐為・ヒカル・導師・あかり・白川先生・塔矢アキラ・磯部秀樹・筒井・加賀)
ヒカルがその子に声をかけようとした時、サロンのドアがぱっと開いた。また子どもだった。
「いらっしゃい。」
受付の人が言ったが、その子はそれを無視して、ずかずかとサロンに入り込んで辺りを見回した。
「塔矢アキラっている?」
「アキラ君?いるわよ。」
そういって受付の人は隅の方をチラッと見た。
ヒカルがあっけに取られていると、その子はヒカルを通り越し、石を並べている男の子にずかずかと近寄った。
「お前と打ちに来たんだ。」
その子は挑戦的な口調で言った。
「いいよ。打つよ。」
アキラは振り返って、笑顔を見せた。
それを見てヒカルはアキラって奴は中々良さそうな奴じゃん。そう思った。
「棋力はどれくらいなの?」
「子ども名人戦優勝。」
「ほんと、すごい!」
「そんなこと全然思ってないくせに。なにがすごいもんか。お前が出てないのに。」
図星を指されたアキラは困ったように黙っていた。
「お前。自分が出ると、ほかの子がやる気をなくすからって言ってるそうだな。本当にやな奴だ。陰でこそこそ威張っててさ。だからボクはお前に勝ちに来たんだ。」
そう言ってその子はアキラの向かいに座った。
「みんなにボクを認めさせるにはお前に勝たないと。ボクは磯部秀樹。ボクが勝ったら、お前、磯部秀樹に負けたってちゃんと言えよ。」
「うん。分かった。磯部秀樹君ね。覚えたよ。握りは僕でいい?」
「お願いします。」
二人は頭を下げた。
ヒカルは二人の様子を興味深く見つめていた。
磯部秀樹は、ひどく腹を立てていた。 プロになるとかは考えていなかったが、自分は碁が強いという自負は相当なものだった。
折角の子ども名人戦で優勝できたのに。こいつのお陰で台無しだった。 俺を無視して小学生の中で一番強いのはこいつだと皆が噂している。どんな強そうな子かと思えば、こんなにへらへらしている奴だったんだ。 院生でもなく、プロでもなく、自分の父親の碁会所でちやほやされてる奴。
こんな奴、絶対叩きのめしてやる。
ヒカルは磯部秀樹の様子から何となく終わったんだなだと感じた。その通りに間もなく対局は終わった。磯部秀樹は「負けました」って 下を向いたまま小さな声で言った。
傍らでその対局を見ていた若い男がその磯部秀樹に言った。
「キミの地に拘るような発想はアキラには通用しないよ。まあ、どのみち、これは白模様にどかんと打ち込んでシノギ勝負に持っていくしかなかったようだね。」
そういうと、笑って彼の肩をぽんと叩いた。
「いやあ、キミは充分強いよ。ただ相手が悪かったねぇ。」
その子は下を向いたまま、「ありがとうございました」と言った。アキラも「ありがとうございました」と頭を下げた。 磯部秀樹は、その言葉も耳に入らないように、そそくさと碁サロンを出て行った。
解説を加えた若い男が聞いた。
「ところでアキラ?今の子、誰だい?」
「えっ?誰だっけ。忘れちゃった。」
アキラは名前を忘れたことをちっとも悪びれていなかった。
いい奴だと思ったけど、この塔矢アキラって奴も…。
ヒカルはそれから出口の方へ向かい、受付の人に言った。
「面白かったよ。また見学に来てもいい?」
「あら、見学ね。ま、いいわよ。みんなの邪魔しなければね。」
帰りの道々、ヒカルはブツブツと呟いた。
それにしても、碁をやる奴って、どうしてこう高飛車なのが多いんだろうな。
あの磯部秀樹って子、あいつ、自信満々だったけどな。感じ悪かった 。負けて打ちのめされている姿は流石に少しばかりかわいそうな気もした。でも、もし、あいつが勝ってたら、どんなに威張りちらしたことだろう。
だけどなぁ、アキラって奴も、そういう態度を見せないだけで、自分より弱い奴は全く眼中にないんだな。 名前を忘れても平気だったしな。
なんだかなあ。自信がある奴って、みんな、どっか佐為に似てないか。
碁ってそういう奴が強いのか?そうするとトンでもないものなんだな、碁っていうのは。
それでも、ヒカルは思った。
でもあれは面白かったよ。絶対。夢の中であの二人が打った碁は。
ヒカルは二人の指先が、碁盤に飛び交う様を、また頭の中で追っていた。
翌週、碁の講習会が終わると、ヒカルはまた囲碁サロンに出向いた。
その日はアキラは居なかった。
「こんにちは。また見てもいい?」
「あら、君。進藤君ね。本当に来たのね。折角だから、誰かと打ってみる?」
「ううん。いいよ。だって俺。まだ、全然打てないよ。」
その時、アキラがサロンに入ってきた。
「市河さん。こんにちは。」
「あら、アキラ君。いらっしゃい。」
「どうしたの?」
アキラはそう言って、ヒカルを見た。
「ええ、見学ですって。碁を始めてまだ2週間なのよね。」
「へえ。それで一人で碁会所に?」
不思議そうにアキラが言った。
「だって、碁の教室は週一回だし、打つ友だちも誰もいないしさ。全然進まないから。 ちょっとここに刺激を受けにきたんだ。」
「ボクが相手しようか?」
アキラはこの日、気分がよかった。父が自分の碁を褒めてくれたのだ。そんなことは滅多にない。
それに父相手にもうすぐ2子置きになるという。
アキラにとっては、父が期待していてくれるというのは一番の喜びだった。
ボクは自分の力を自覚して真っ直ぐプロの道を歩いていこう。そういう気持で碁会所にやってきたのだった。
「超初心者の相手をお前が?」
「うん。いいよ。」
ボクはプロになるんだから。囲碁界の上に立ち、後のものを引っ張っていくのだから。
それにここでのいつもの指導碁も、超初心者の相手も、ボクにとっては大して違わないよ。
ヒカルは、慌ててポケットを探った。
「じゃあ、お金払わなきゃ。」
「あ、今日は特別ね、サービスでいいわ。」
受付の女の人は笑って言った。
ヒカルは、アキラと向かい合った。
「お願いします。」
アキラがいうのを聞いて、ヒカルも慌てて言った。
「お願いします。」
アキラとの“対局”はヒカルには結構面白かった。
でもしばらく打つと、ヒカルはアキラに言った。
「もういいよ。こんな相手させて悪かったな。」
アキラは、内心ほっとした。ヒカルがあまりに下手でやってられなかったからだ。というより、まだ碁になってないし…。
「別にいいよ。たまには、こうやって遊ぶのも。」
アキラはそう言った。ヒカルは石を片付けながらアキラに聞いた。
「この前、一人で石を並べてただろ。あれは何してたの?」
「棋譜並べのことかい?自分が打ったものや上手な人の対局を覚えていて、並べてみるんだよ。勉強になるからね。」
その時、声がかかった。
「アキラ先生、指導碁をお願いできますか?」
年配の男の人だった。アキラはその男のテーブルに行ってしまった。
一人になったヒカルは石を手にした。
棋譜並べか。そういうのがあるのか。そういやあ、祖父ちゃんも、いつも一人で石を並べてたよな。
そう思いながら、盤に石を三つ置いた。そのまま、頭にあった佐為と導師の一局をヒカルは盤に並べ始めた。するとあの時の興奮が蘇ってきた。
石をすっかり並べ終わった時、ヒカルは盤上を見ながら、何故か深い満足感を覚えていた。
「俺、いつかこういう碁を打ってみたい。」
初心者とは思えない言葉がヒカルの口から漏れた。
しばらくその盤面を眺めた後、ヒカルが石を片付けようとした時、アキラの声がした。驚きを隠した声だった。
「これ、キミが並べたの?」
「うん。俺さ。ついこの間、たまたまこの対局を見たんだよ。それから急に碁を打って見たくなったんだ。 いきなり碁を始めたのはそういうわけ。」
ヒカルはあっさり言った。どうせこいつは俺のことをすぐに忘れる。あの磯部秀樹でさえ、忘れちゃったんだから。
ヒカルは、石を片付け終えると、出口に向かった。
「進藤君。このチラシをもって行くといいわ。子ども囲碁大会があるのよ。」
受付の女の人が渡してくれた。
「へえ。ありがとう。それってもしかして、この間の子が勝った奴と違うの?」
「あれとはまた違うのよ。子どもの大会もいろいろあるのよ。」
そうなのか。子どもの大会っていろいろあるんだ。
ヒカルがチラシを眺めながら碁サロンを出ていくと、アキラは尋ねた。
「ねえ、市河さん。あの子は一体誰なの?」
「進藤ヒカル君よ。なんでも2週間前から、碁を始めたんですって。近くの保健センターの囲碁教室に通ってるらしいわ。」
「本当に?」
半分疑わしげにアキラは言った。
「ええ、まだ石取りゲームからちょっとしか進んでないって言ってたわね。先週も来て、アキラ君が子ども名人と打ってるのを見てたわよ。」
先週ヒカルを見た記憶はアキラには全くなかった。磯部秀樹と打ったことすら殆ど忘れかけていた。
「進藤ヒカルね。ふーん。」
アキラはそう呟くと、ヒカルが出て行った戸口をじっと見つめた。