三面打、院生試験、アキラ新初段戦、森下先生研究会
(主な登場人物…ヒカル、佐為、導師、術師、白川、岸本、正夫、篠田、和谷、桑原、フク、帝、伊角、アキラ、座間、森下、冴木)
ヒカルと佐為は導師の邸に向かっていた。
「佐為とこんな風に歩くなんて久しぶりだね。」
ヒカルのうれしそうな顔を見て、佐為は言った。
「まだ時間がある。どうだろう。少し回り道をしてみようではないか。」
二人は脇道に入り、竹林を抜ける道へと向かった。
竹林に入ると、さやさやと葉のすれる音が響いてきた。
ヒカルは辺りを見回し、気持ち良さそうに言った。
「いいなあ。なんか、気分いいな。」
佐為は楽しげに言った。
「竹林は、雑木林とはまた異なる。不可思議な場所だ。仙人が好むのも頷ける気がする。
竹林で打つと、碁がいつもとは違った趣になるものだ。」
「本当?どんな風に?」
佐為は、ヒカルの問いにただ笑って答えた。
「どのようであるかは…そうだな。そのうち、ヒカルとここで打ってみよう。自分で打てば分かる。 どのようであるかは。そうだな。ヒカルが私と同じに感じるか、私にはそれも楽しみだ。」
どんな感じなんだろう。でもどんな感じであっても、絶対。俺は絶対、佐為と同じ風に感じるさ。絶対同じだよ。 俺と佐為なんだから。
ヒカルは声には出さなかったが、そう思った。その代わりに言った。
「ねえ、佐為。前に一緒に馬に乗ったよね。あの時もすっごく楽しかったな。」
佐為はちらとヒカルを見て、微笑んだ。ヒカルは私と外に出るのが、そんなに楽しいのか。
「しばらくはヒカルがここに来てくれるわけだから、時間も取れるだろう。 碁だけではなく、たまには、また遠乗りするのもよいであろうな。」
ヒカルは嬉しそうに頷いた。
俺と佐為とは特別な繋がりがあるんだから。
ヒカルは、二人の繋がり、絆を損なうような話はしたくなかった。
アキラのことなんて、今話す必要ないさ。話すんだったら、もっと別の時でいいさ。
そこでアキラが佐為のことを尋ねてきたことを話すのはやめて、別のことを話した。
「俺、今度白川先生の囲碁教室に遊びに行くことにした。あかりがそこで習っててさ。
白川先生があかりに言ったんだって。俺がどのくらい強くなったか楽しみだ。今度一緒に来なさいってさ。俺、阿古田さんと打ってみたいんだ。 今度は勝てるかなあ。」
「阿古田さんというのは、ヒカルがどうしても勝てなかった人だったな。私もその結果は楽しみにしている。」
「うん、俺もう今からわくわくしてるんだ。」
佐為はそういうヒカルを見て思った。
その者がどれほどの腕前かは分からぬが。勝ち負けはともかく、その手合わせで、ヒカルは自分がどの程度、力を 伸ばしてきたのかを理解するだろう。そういうことも必要だ。自分の力を実感することも。本当に良い機会に恵まれているな。ヒカルは。
ヒカルも佐為も楽しそうに話していたので、自分達の後をずっと付け、様子を伺っている男には気付かなかった。その男は林を抜け、見晴らしの良いところに出る頃、そっとヒカル達から離れて 、別の道へ向かった。
導師の邸に着いた時、ちょうど雨が降り始めた。導師はほっとしたように言った。
「雨に濡れなかったのは何より。」
「そうだ。傘、ないんだよね。」
ヒカルの言葉に佐為が答えた。
「いや、あるにはある。だが、私たちは濡れることをそれほど厭わないのだ。ヒカルたちほどは。」
それから、導師に問うた。
「それで、術師は?」
「まだ、来ておらぬ。 わしが考えるに、あの男は先に来て待つというようなことはそもそもすまいな。そういう男だよ。」
ヒカルは導師の言葉の意味が分からなかった。が、とりわけては聞かなかった。 どっちみちもうすぐ会えるのだ。時の石を持ってきた人と。
導師の邸は、佐為のところと違って、変わったものがいろいろある。
「薬師の仕事をしていると、色々面白いものを見せてもらえる。この前は鉄でできた植木を見せてもらったぞ。」
「鉄でできた植木でございますか。それは竹取の話に出てくる蓬莱の木の枝のようなものですか。 私には想像がつきかねますが。」
「これを見よ。実物は無理だが、絵を貰ってきておる。」
導師は畳んある絵を開きながら、ヒカルに言った。
「ヒカル殿の時代では珍しくはないものか。驚きはせぬだろうな。」
絵に描いてあるものは美術館で見ることもあるオブジェのようなもので、現代的な趣きも感じさせるものだった。
ヒカルは率直に驚いたと言った。
「蓬莱の木の枝とかは分からないけど。こういう感じのもの、俺の時代にもよくあると思う。飾ってあるのを見たことがある しね。でもさ。この世界に、千年前にこんなものがあったなんて、俺、全然考えもしなかった。すごいんだね。」
導師は満足そうに頷いた。
「ヒカル殿の時代も、この御世もこういうものを愛でる気持ちは同じなのか。嬉しいことだ。」
その日は、術師と会うのが目的ということもあり、碁盤を前にしながら、 取り立てて熱心に打つというわけでもなく、佐為と導師は酒をたしなみ、ヒカルは菓子をぱくつき、たわいもない話をのんびりとし、笑いあった。
術師が来たのはしばらくしてからだった。
導師は言った。
「術師よ。今日は忙しかったのか。随分と遅かったな。」
「申し訳ございませぬ。少々雨宿りをしておりまして、遅くなりました。」
全く申し訳なさそうには思えぬ様子で、術師は言った。
佐為がヒカルを紹介した。
「術師よ。これがヒカルだ。私と時の旅を同じくする相手だ。」
術師は、伺うように、ヒカルの方を見た。ヒカルの方は真っ直ぐ術師を見て思った。
俺の思っていた感じの人とはだいぶ違う。この人は何で普通にこっちを見ないんだろう。
そのことが何故かひどくヒカルをいらいらさせた。
癖はあるが、佐為も導師も率直な人物だった。平安人だって俺達と変わんない。今までそう思ってきたヒカルだった。
身分をわきまえることを強いられて育った人間というものは術師のように振舞うこともある。そう教えるものは、いなかった。更に言えば、現代だって術師のように振舞う、そういう人はいる ものだとは。
導師は、ヒカルの戸惑いに気付き、さりげなく術師を促した。
「今日は、そなたがどのように振る舞おうと、気にするような相手はおらぬ。大陸にいた時の様に存分にくつろいで過ご すとよい。」
導師はそう言って酒を勧めた。が、術師は断った。術師は導師の言葉には頷いたものの、へりくだった様子で、下座にかしこまったままだった。
そこで導師は言った。
「ヒカル殿がいるのだ。何か直接に聞きたいことでも遠慮なく話すが良い。」
術師は、煮え切らない様子で座ったままだった。
「ヒカルは確かにまだ子どもだが、それでも術師が聞きたいことには、きちんと答えよう。知っているか知らぬかを含めて。」
佐為はそう言うと、ヒカルの方を向き、信頼の微笑を見せた。
ヒカルも、そういう佐為を見て、にっこり笑って見せた。
「うん。俺の時代のことで、俺の知ってることなら何でも話すよ。でもさあ、前に佐為や導師さんに聞いたけど、ふ わふわじゃなくて、ええとふら何とかとかいうのは分かんないかも。でもちゃんと教えてくれれば、誰かに聞くことはできると思うよ。それがどうなったかをさ。」
術師は能面のように表情を崩さずに言った。
「お聞きしたいことはいろいろですが。ともかくヒカル様は虎次郎様とは全く違うということが分かりました。」
「何が違う?」
導師が問うた。
「ヒカル様は特別なのでしょうか。それともヒカル様の時代の方は皆そのような態度でお話しをされるので?」
ヒカルは何といっていいか分からなかった。俺のような態度って、どんな態度?
佐為がその言葉に答えた。
「ヒカルはヒカルの時代の普通の子どもだ。そこでは大人も言葉や振る舞いはもう少々丁寧かもしれぬが、同じだ。 そして、この平安でもそれは同じことと私は考えているが。もちろんヒカルの言葉は私たちが話すものとは少々違う趣はあろうが。それでもその姿勢は、その心根は率直で、私や導師が付き合う この御世の諸々の人々と変わらないと思うが。」
術師は少し皮肉な口調で言った。
「確かにさようでございましょうとも。それでヒカル様の時代にも身分というものはございましょうな。」
「私の少々の時の旅の経験では、その本質は今も昔も変わらないのではないか。 お目にかかれるような存在ではないが帝もおいでになられるということだ。ただ…。」
ヒカルの時代でも帝の前ではさすがに、礼儀をわきまえようが、それは恐れ によるものではあるまい。私がヒカルの時代で出会った人々は…。
佐為は考えた。
術師は何故そのようにヒカルの様子に関心を抱くのであろうか。ヒカルの何が気になるのであろうか。確かにこの平安の御世にあっては ヒカルの振る舞いは率直過ぎて変わってみえようが、それでもヒカルは私や導師にとって、まったく気の置けない率直な人間 だ。むしろ術師こそ…。
佐為はそこで初めて、今まで気にしなかったことに気付いた。導師が術師に抱く危惧に。
この御世では恐れは必要なものなだ。私も導師も身分というものを敬い従っている。
術師は、見た目は恐れひれ伏すような態度を示しはするが、恐れてはおらぬ。敬うことをしないものだ。それはヒカルが礼儀に疎いということとは別物だ。
術師に用心せよという導師の言葉は正しい。
佐為の思考とは別に、術師はじっとヒカルを見つめた。
「それにしても私は知りたい。何故時の旅ができる 人間とそうでない人間がいるのかを。そこにどんな違いがあるのか。 」
ヒカルは術師を見つめた。
この人は時の旅を自分でしたかったのか。もしかして俺が時の旅ができるわけが知りたいとか?そんなこと俺は知らない。
術師はやっと話を始めた。いつぞや導師にした“ふあるさわ”の話だった。 三人もの聞き手に自らの奥義といえるものを説明する機会に恵まれたからか、あるいは別の動機があるのか。
術師は次第に陶酔したようにとうとうと話を続けた。
その術師を眺めながら、佐為は自分の考えにふけった。
術師は言っていた。
自分は、地位も欲しくない。財産にも必要以上には執着はないと。だが、このように執着するものがある。もしこの学を習得したなら、術師はどうしたいのだろうか。いや、もしこれほどまでに執着するものを阻むものが現れたら、術師はどうするだろうか。
術師の話が一段落した時、ヒカルは申し訳なさそうに言った。
「正直良くわかんなかった。でもその言葉は覚えとくよ。“ふあるさわ”って言う言葉。戻ったら調べてみるよ。」
佐為も付け足した。
「私もヒカルの時代へ行った折に、調べてみよう。ヒカルが調べるよりは少々実りが多いかも知れぬ。 だが、ヒカルはそろそろ自分の時代へ戻った方が良いと思うが。」
導師も頷いた。
「ヒカル殿の衣服は運ばせてある。雨もまだ止まぬから、ここから帰られると良い。」
ヒカルが着替えのために小部屋に移とうとすると、術師が言った。
「申し訳ございませぬが、その、ヒカル様の時代の衣服を少々拝見させて頂けぬでしょうか。」
ヒカルは頷きながら、導師の顔を見た。
「虎次郎殿の時も、確かそうしていたようだったしな。構わないのではないか。」