風の石空の夢   作:さびる

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『野風』41~50
三面打、院生試験、アキラ新初段戦、森下先生研究会
(主な登場人物…ヒカル、佐為、導師、術師、白川、岸本、正夫、篠田、和谷、桑原、フク、帝、伊角、アキラ、座間、森下、冴木)


野風42

ヒカルは自分の部屋に戻ると、術師の言った言葉を取りあえずメモした。

それにしても術師って…。

ヒカルは腹立たしげに声に出した。

「何かいやな感じの奴。やたらにぺこぺこしているかと思えば、やたら偉そうにしたり。」

 

あいつ、本当に癪に障る。

俺が着替えている時に、服を珍しそうに見てたのは構わなかったけどさ。

導師さんや佐為が見ていない時の俺に対する態度って。一体何なんだよな。

俺が子どもだからって見くびってる?

ああ、それにしても癪に障ること言いやがったよな。何だよ。

 

「未来、千年先といっても、結局人間は進歩などしないものなのだ。」

術師の奴、俺を見ながらそう言いやがったんだ。まあ確かに俺、そんなに成績良くないけどさ。だからなんだって言うんだよ。その上、と…。

 

ヒカルはすぐに頭を横に振った。

ああ、やめやめ。忘れよう。もっと楽しいこと考えようっと。

ヒカルは佐為と歩いて導師の邸に向かった時のことを思い起こした。

また馬に乗せてもらえるんだ。楽しみだな。

 

ヒカルが、術師に害された気分をすっかり払拭できたのは、その二日後のことだった。

 

「楽しかったな。」

姉と約束してるからというあかりと駅前で別れて、ヒカルは気分良く通りを歩いていた。

その日の昼過ぎに、ヒカルは白川の囲碁教室に行って、阿古田と対局したのだ。

 

ヒカルが教室に入ると、教室の皆から懐かしがられて、とても歓迎された。

それは、ヒカルのせいだけではなく、今通っているあかりの人柄が反映されているせいもあった。

「久しぶりねえ。ヒカル君、すっかり中学生じゃないの。学校はどう。楽しい?」

初めて通い始めた時にいろいろ世話を焼いてくれたおばさんは、そういって懐かしがってくれた。

そして、阿古田さんとの対局をみんなが見守っていた。

 

ギャラリー背負って立つって、なかなかどきどきするもんだな。 嬉しいけどさ。

よし、皆にいいところを見せるぞ。

阿古田さんに勝ちたいと、気負ってしまった。そういう気持がから回りして、ヒカルは前半、随分拙い手を打ってしまった。失敗したと思った。

だがその後から、ヒカルは気持ちを切替え、ひたすら盤面に集中した。 ヒカルには、もうただ盤上の石の動きしか見えなかった。ギャラリーも何も消えていた。

白川が声をかけても聞こえなかった。

その集中力に白川は舌を巻いた。そしてヒカルが前半のミスを挽回し、勝利を手にした時、つくづく思ったものだった。

進藤君の進歩は本当にすごい。碁を覚えてからまだ一年にも満たないのに。囲碁部の顧問の先生がよっぽど熱心なのだろうか。こういう生徒がいてくれると、この教室もやりがいが増える。本当にまた私のところにも来てくれると嬉しいけれど。

 

 

いえーい。阿古田さんに勝てたぜ。やっぱり、俺は強くなったんだ。

ヒカルは佐為があの時言った言葉を思い出した。アキラとネットで打った後。

「強くなったのは私の方です。」と言ったけど。

俺には今、佐為が言った言葉の意味が分かるぜ。ああ言った時の佐為の気持が。

術師の奴が何といおうと、俺と佐為は特別な繋がりがあるのさ。だから互いに時の旅ができるのさ。

ヒカルは満足そうに呟いてから、急に立ち止まった。

 

そうだ。フワフワ、いやフラフラだっけ。術師が言ってたことを少し調べてやるか。

ヒカルは気分良く本屋に入った。

 

いつもの漫画コーナーには行かず、ヒカルは奥まった硬そうな本の前に立ち止まった。

フランス、じゃない。フランソワでもない。なんだっけ?うーん、とにかくふのつく本だよな。あるかな。なんか漢字ばっか だぜ。カタカナなんてないな。やっぱ、これは佐為に任せるか。

「やあ、君は。君がこんな本に興味があるとは、人は見かけによらないのかな。」

そう声を掛けられて、ヒカルが振り返ると、背の高い少年が立っていた。

あれ、こいつって、見たことがある。えっと、確か「海王の大将?」

「ああ、岸本だよ。覚えてくれていたとは光栄だね。で、何を探してるの?」

「え、あの、そう、題名忘れちゃったけど…。あのさ。えっと、昔の人が物は土と水と火からできてるとか言っていたとかさ、そういうことが書いてある本だよ。」

ヒカルは何とか覚えていたことだけ口にした。

「へえ。ギリシャ哲学か。君がそんなことに興味があるなんてますます驚きだね。君、中一だろう。」

「うん。」そう言ったヒカルは、ギリシャ哲学という言葉を心にとどめるのに集中した。だから岸本の言葉の中に少々見下した感があるのを気にも留めなかった。

「本屋にあるか、見といてって頼まれたんだけどさ。」

「ああいう本は、この本屋にはないよ。もっと大きなところに行かないとね。ところで僕は別のことで、ちょっと君に興味がある んだけど。」

ヒカルは不思議そうに聞いた。

「俺に?何ですか。」

 

岸本はヒカルを近くにある碁会所へ誘った。

「君の腕前を知りたいんだ。」

それを聞いてヒカルはドキドキした。

海王の大将が俺の腕前を見たいなんて。

よし、阿古田さんに勝てたんだから。見せてやるぜ。

ヒカルは張り切って碁盤を前にした。

 

岸本は石を置きながら言った。

「塔矢が何故、君に関心を持っているのか知りたいんだ。」

ヒカルは、その言葉にげっとなった。

あいつ、佐為を探すために俺のこと調べまわったのか。ほんと、塔矢の奴に関わるとろくなことないな。

ヒカルはとぼけたように答えた。

「俺に?塔矢が?まさか。あいつは碁が強い奴しか眼中にないもん。俺のことなんて気にする訳ないよ。」

岸本はもっともというように頷いた。それも何となくヒカルの気に障った。

「そうだ。だからだよ。それで不思議だったんだ。君は確かに葉瀬中では強い方らしい。僕のところの副将に勝 てたしね。 今打っていても、まあ中学生としてひどく悪いというわけではないよ。でも、この程度の腕じゃねえ。全く塔矢の気を引くレベルじゃない し。」

ヒカルは、その言い方にむっとした。

何なんだ。塔矢だけじゃないぜ。海王の奴らって、ひどくむかつかねえか。 こいつ。一体何なんだよ。

 

それから盤外戦という言葉を思い出した。

まさかな、だってそういう対局じゃないもん。

それに、確かに全然レベルが違うよ。阿古田さんとも、加賀よりもずっと強い。

 

岸本はヒカルの様子など気にも留めなかった。

「塔矢はこの間、君を探していた。囲碁部の顧問にしつこく君の事を聞いていたよ。あの塔矢が碁のこと以外で人のことを尋ねるなどありえない。 一体なぜ君を選んだんだか。君の碁のどこに塔矢が気にかけるものがあるのだろうかと知りたくなってね。」

 

ヒカルはぶすっと答えた。

「そんなこと知らないよ。塔矢の勝手だろ。塔矢が、何をどう思おうと俺には関係ないもん。」

「まあ、確かに。塔矢が何を思ってるかは塔矢自身に聞かないと分からないわけか。それはもっともだ。じゃあ君にとって、塔矢はどういう存在なんだ?」

岸本が聞いた。

「俺にとって、塔矢が?」

考えもしなかった問いかけだった。でも、ヒカルはいつの間にか答えていた。

「いつか、追いつく。塔矢にだっていつかは勝ってみせるさ。」

阿古田さんにだって勝てたんだ。いつか、塔矢にだって勝って見せるさ。追いついてみせる。

 

ヒカルの言葉を岸本は鼻であしらった。

「塔矢はプロになるよ。今度の四月からね。」

ヒカルはその言葉に戸惑った。

「ええっ?プロって?だってアイツはまだ子どもで…。」

「碁の棋士は12、3歳でプロになる。そうでないと遅いんだ。」

ヒカルは混乱したように聞いた。

「プロってどうやってなるの?」

喫茶店のオーナーが言った。

「プロ試験に受かることだね。まあ、普通は院生になって、それからだけど。」

「院生になるのだって試験があるのだよ。簡単にはなれない。そうそうそろそろ12月の院生試験の受付がある頃じゃないの。日本棋院にきいてみればいい。」

「あ、でも院生試験だって大変だよ。」

岸本は石を置くとダメダシをするように言った。

「君の今の腕じゃ、これじゃ、院生試験なんて無理だと思うよ。仮に院生になってもそこからプロへ行くのは至難の技だ しね。」

ヒカルが投了した盤面を見ながら、岸本は更に言った。

「君は本当に塔矢に追いつくと? そのために何か特訓でもしてるのかい。僕が思うに、君はこの前の団体戦の時からたいして進歩してるとは思えない。本当に 塔矢に勝つつもりでいるのか。本当に不思議だ。塔矢は何で君の事を聞いて回っていたんだろう。」

「塔矢は、俺の潜在能力を買ってるからだ。」

ヒカルはやっと言い返した。

「君に潜在能力が?あるとはとても思えないね。 せめて意気込みでもあればまだしもだが。残念なことに君には覇気も何も感じられないよ。僕には。」

岸本は立ち上がりながら言った。

 

一人になったヒカルはショックを受けていた。阿古田に勝てたことももはやどうでもいいことになっていた。 中学生でもプロになれる?いや、そうじゃなきゃ遅いって?碁って何なんだ。

ああ、それより何より俺にとっての塔矢ってなんなんだ。

あの時、俺に佐為の事を聞いてきたアキラの目。佐為と同じに高みを目指している目。

俺には、あれがない。

岸本に指摘されたのはそのことだと、ヒカルには分かっていた。

 

その時、ヒカルの脳裏に、あの術師の声が響いてきた。

「それにしてもなぜ、こんな子どもが。虎次郎様とは大違いだ。虎次郎様なら私も納得できた。時の旅は人を選ぶ のではないのか。佐為様のようなお方が、共に旅をするにふさわしいお方を選ぶのだと。虎次郎様は碁の腕も佐為様 に引けを取らず、万人が納得する何よりも弁えた方だった。」

 

俺は佐為と時の旅を共にするのに相応しくないのか?

いや。そんなことはない。俺は佐為と出会えたのだ。佐為と俺は碁で繋がっているんだ。神の一手を目指す佐為と俺は繋がっている。 ならば俺の目指すのも神の一手。

もしも塔矢が佐為を追っているのなら。ならば、俺はまず、塔矢に追いついてみせる。

術師や海王の大将がどういおうと、俺は、自分で証明して見せるさ。

 

俺もプロになる。塔矢に追いついてみせる。

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