風の石空の夢   作:さびる

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『野風』41~50
三面打、院生試験、アキラ新初段戦、森下先生研究会
(主な登場人物…ヒカル、佐為、導師、術師、白川、岸本、正夫、篠田、和谷、桑原、フク、帝、伊角、アキラ、座間、森下、冴木)


野風43

ヒカルが帰り術師も去った後、二人きりになると、しばらく沈黙が支配した。

導師はしばらくして尋ねたものだった。

「佐為。何を考えておる。」

「導師が言っておられたことを思い起こしておりましたよ。」

「わしの?」

「導師が何ゆえ、術師に余り近づくなと言われたのか。」

「今頃、何を言うかと思えば。」

「術師は何にも執着しないというが、実はそれこそがもっとも危険なことの気がいたしました。術師は執着しているではありませぬか。 」

「そうだ。わしは最近、術師ほど、率直でない男はおらぬと思い始めている。あの男は自分の才に人一倍執着している。へりくだって見せるがそれは、本心ではない。 自分が最も優れていると思っている。だから心にもなくへりくだってみせるのだ。唯我独尊とはあの男のことをいう言葉だな。この御世の人間の感情は簡単に推し量れると術師は高をくくっている。危ういことだ。人というのはもっと複雑なものであるのに、あの男は自分以外は皆単純であると見くびっておる。もしもあの男が傷つけられたと勝手に感じたらどのようなことをすると思うか?

佐為。気をつけよ。わしは今とても後悔しておる。ヒカル殿を術師に会わせたのは良かったのだろうかとな。」

 

心配する導師に佐為は言った。

「ヒカルはこの御世の人間ではございませぬ。心配は要りませぬ。大体、時の石について知る術師を無視して、ヒカルといることはできないことではありませんか。

それに何よりもヒカルは――。 私は思うのですが、ヒカルは術師の尊大さをやり過ごす強さを秘めております。そういう子です。」

 

 

二日後、ヒカルは佐為の元へやってきた。佐為はヒカルの様子がどことなく常とは違うことに気が付いた。

「ヒカル。今日は随分と大人しいな。どうしたのか?」

もしや、導師と話したことが的中したのだろうか?術師が何かヒカルに力を及ぼしたのだろうか?

いや、ヒカルは弱い人間ではない。私はヒカルを信じている。

 

ヒカルは上の空だった。佐為の問とは全く別のことを聞いてきた。

「佐為。塔矢と打ったよね。あいつ強いよね。」

佐為はヒカルが何故そんなことをいきなり言いだしたのか、訳がわからなかった。

「塔矢アキラか?確かに強い。」

「俺、追いつくことができるかな。塔矢に。あいつに追いつきたいんだ。」

ヒカルは真剣そのものの表情で言った。

「あいつ、プロ試験に受かったんだって。今度の4月からプロになるんだって。俺、塔矢に追いつきたい。 俺もプロになりたいんだ。」

佐為はその言葉とヒカルの表情に驚いたが、同時に、ほっとしたように表情を緩めた。

ヒカルから今までと違った感じを受けたのはこの決意のせいか。ヒカルは目標を見つけたのだ。碁を打つことの。

「ヒカル。そなたと塔矢アキラでは力の差があまりにも大きい。経験の差もだ。 それを埋めていくには相当の覚悟が必要だぞ。」

「そんなこと、分かってるさ。でも俺はやるっきゃないんだ。どうしても。」

 

佐為は負けん気に溢れたヒカルの顔を見つめながら言った。

「今のヒカルには絶対に追いつくぞという気持が溢れて出ている。ならば無理とは言えぬ。

塔矢アキラに追いつくのに、まだ遅いということはない。厳しい道だが。それでもヒカルに覚悟があるのであれば。 ならば追いつく可能性は十分にある。」

佐為のその言葉にヒカルは顔を輝かせた。

「うん。俺、絶対やり抜いて見せる。佐為。手伝ってくれるよね。俺がプロになるのを。」

 

佐為は口の端に笑みを浮かべた。

「もちろんだ。私は今とても嬉しい。ヒカルがその気になったことに。 一心に碁を極めたいと思い始めていることに。」

ヒカルは今、私と同じところを見ている。碁の高みを。私の願っていたことが今起きているのだ。

だが、なぜヒカルは急にそのようなことを思いついたのか?

佐為は尋ねた。

「ヒカルはなぜ、塔矢アキラに追いつきたいと思ったのか。 聞かせてくれぬか。」

 

ヒカルは術師のことは話さなかった。

白川の教室で阿古田に勝ったところから話を始めた。

「ヒカルはその対局でどんな手を打ったのか?」

「ほんとにさ。ギャラリー背負って立つって初めての経験でさ。もう焦っちゃってさ、それで失敗しちゃったんだよ。」

ヒカルは、そう言いながら、その一局を並べて見せた。

 

佐為はそれを見て、目を細めた。

これは素晴らしい閃きだ。ここからの劣勢をヒカルの腕でよく取り戻したことだ。 この一局でヒカルは、また力をつけてきたな。

 

ヒカルはそれから、岸本に出会ったことを話した。

「その、海王の大将はすごく強くてさ。 分かってたさ。大会で三谷と打ってたもの。元院生だったんだよ。そいつが勝手に俺と打ちたいって言ったんだぜ。なのにさ、『この程度の腕じゃね』なんて言うんだぜ。 むかつくだろ。だから俺、決めたんだ。絶対に塔矢に追いつく。海王の大将を見返してやるって。 そう思ったんだ。だから俺、今度の院生試験を受けるよ。」

 

岸本とヒカルの一局を見ながら、佐為は考えた。

この海王の大将というのは腕はなかなかのものだ。 相手の力をきちんと判断している。ヒカルの腕を決して見くびりはしていない筈だ。むしろヒヤッとさせられた手もあったであろう。 海王の大将はただヒカルを見下したのではあるまい。 何か含みがあるのかもしれぬ。それはともかくとして、彼には感謝せねばなるまい。ヒカルを碁の高みへと向かわせるべく、 見事に、たきつけてくれたのだから。

元院生の腕がこれということは。ヒカルが院生になるには少なくもこの少年よりは力をつけねばいけないわけか。

 

「ヒカル。それで院生試験とやらは、いつのことか。」

「うん。1か月先だよ。俺、すぐに棋院へ行ってみたんだ。そしたらね。『12月の受付は今週で終わりですよ』って言われて、慌てて申し込みをしたんだ。本当に面倒くさいんだよ。試験受けるだけなのに、いろんな人に頼まなくちゃいけなくてさ、超面倒なんだぜ。 」

「何か困ったことでもあったのか。」

「棋譜が3枚とお金と推薦書がいるって言われた。その上、試験には保護者が付き添うんだってさ。」

「棋譜なら導師と私と打ったのを出せばよいではないか。」

ヒカルは、ぎょっとした。

えっと、それってまずくないか。じいちゃんと打つかなんかした方がいいような。

「あのさあ、棋譜のことはなんとでもなるよ。そうそう、あとは、推薦してくれる先生が必要なんだってさ。 」

「推薦してくれる先生?」

「俺に碁を教えてくれた人だよ。」

「当然私だな。」

佐為は自信満々に答えた。

これを聞いたら佐為はきっと自分のことを書けとかいうと思ったけど、やっぱりだぜ。まったくなあ。

ヒカルは佐為のその言葉を無視した。

「それで、俺、白川先生の名前書いちゃったんだ。ちょうど先生に会ったばかりだったしさ。それで、先生のところに推薦書を書いてもらいに行かなくちゃならなくってさ。超面倒だろ。 」

佐為はヒカルを諭すように言った。

「ヒカル。それはたいして面倒なことではない。もしこの時代で同じようなことをするとすれば、もっと面倒な手順がたくさんあるぞ。虎次郎の時代も手順というものには大変やかましかった。 あいさつの順を一つ間違えただけで、何もかもダメになることすらある。

ヒカルは推薦書をお願いするだけであろう。その程度のことで不平を言っていたら、何も出来ぬぞ。」

「わかってるよ。でもなあ。」

 

佐為は思いついたように付け足した。

「それと。そうだ。ヒカル。何か頼み事があるときにはそれ相応のものを贈るというのは大切なことだ。その先生にもお礼をせねばならぬぞ。ご両親に頼む時に、そのことを きちんと話すことを忘れぬようにな。」

「わー。マジで?いいよ。そんなこと。それこそ超めんどっちい。」

佐為が渋い顔をしたのでヒカルは慌てて言った。

「分かったよ。ちゃんとやるよ。佐為が言った通りにさ。」

 

「では後はヒカルの特訓だな。これが一番大変なことだ。ほかのことは単に手順を踏めばよいことだから。」

そういうと佐為は何やら考え込んで算段を始めた。

「ヒカル、そなた、ここから自分の時代へ戻った時、大体どのくらい時間が経っている?」

佐為が尋ねた。

「前から殆ど変わらないぜ。丸一日ここにいたとしても、30分も経ってないよ。」

 

「そうか。良かった。私はヒカルのところに行くと、ここの時間と同じだけを過ごしているのだ。ヒカルが私のところで鍛錬すれば時間の節約にもなるな。 ならば間に合いそうだ。」

 

ヒカルはそれを聞いて、思い切って佐為に尋ねた。

虎次郎のことは何故かいつも聞きにくいんだよな。

「ねえ。俺。前から気になってたんだけどさ。」

「何のことか?」

「虎次郎は20年以上も佐為と時の旅をしていたんだろ。佐為にとっては、それはどのくらいの時間だったの?」

 

「私と虎次郎の時の旅か。」

佐為は遠くをいとおしむような目つきになった。

「そうだな。虎次郎との時間は早かった。虎次郎がまだ子どものころはヒカルと同じように彼はここへ旅してきたが。私が虎次郎の世界へ 行けるようになってからは、虎次郎自身は、ほとんど平安へは来なくなったのだ。前にも話した気がするが、私は意識だけが虎次郎の元へ旅し た。江戸から戻ってきた時は時間が全く経っていないようであった。 私は虎次郎とは本当に長い夢を一瞬にしてみたような時を過ごしたのだ。それはとても深いもの ではあったが。現実であったと同時に夢でもあったのだ。」

そう言って佐為は思いに沈んだ。

 

とても深いもの?現実であり夢であるって?それって、どんなものなんだろう。時の旅といっても俺の時とは全く違う んだ。

佐為は言葉を継いだ。

「今、ヒカルと私は同等に旅ができる。それぞれの時代をともに現実のものとして経験している。 それは夢ではない。稀なことだ。私とヒカルとで、ただ一つ違うのは、私とヒカルの中で流れている時の早さだ。 もしかしたらそれは、過去に行くことと未来に行くことは同じことではないということなのかもしれぬな。」

 

佐為の言葉がヒカルの胸にこだました。

…ヒカルと私は同等に旅ができる…

ヒカルは嬉しかった。

夢ではなく確固とした現実である時の旅の意味。佐為との絆。俺は絶対それを証明してみせる。俺はそのために強くなりたい。

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