三面打、院生試験、アキラ新初段戦、森下先生研究会
(主な登場人物…ヒカル、佐為、導師、術師、白川、岸本、正夫、篠田、和谷、桑原、フク、帝、伊角、アキラ、座間、森下、冴木)
「ここが棋院ですか。」
佐為は興味深げに建物を見回した。
ヒカルの院生試験に立ち会えるなんて、本当に運がいいことだ。
ヒカルを鍛える間、しばらく時の旅に出ずにいたのが良かったのか、佐為には自分の石が再び輝きを取り戻してきたように思えたのだ。
石が力を宿している。またヒカルのところへ行けそうだ。そう思うと矢も盾もたまらず、石の力を試したくなった。
思い切って時の旅に出ると、ちょうど院生試験の日の朝だった。
しかも父親と顔を合わせたのだ。
「本当にいい時に来て下さった。あなたは私の幸運のしるしのような人だ。
私はどうも親父とのトラウマがあって囲碁のことは苦手で。
あなたはヒカルの先生だし、私よりぴったりの方ですよ。よろしくお願いします。
そうそう小春日和とはいえ12月ですからね。この上着をお貸ししますよ。マフラーもどうぞ。」
付き添いを渋っていた父親はいそいそと、佐為に、ヒカルの院生試験の付き添いを押し付けた。
本当に助かったという風情で、正夫はアルバイト料も渡した。
佐為が慌てて断ろうとすると、「ラッキーッ!」。ヒカルはそう言って、佐為の代わりにさっさと父親からお金を受け取った。
苦笑した正夫は佐為と顔を見合わせたものだった。
私こそ、本当に願ったり、叶ったりです。お父上こそ、私の幸運のしるしです。
佐為は思った。
受付に向かう廊下を歩いている時に、口数が少ないヒカルに佐為は声をかけた。
「ヒカル。緊張してますか?」
「そりゃ、まあ。」
ヒカルは当然という風に答えた。
「大丈夫ですよ。今のヒカルは二ヶ月前のヒカルとは全く違いますからね。」
佐為は自信ありげに言った。
佐為じゃなくて俺が受けるんだから。佐為が自信があってもしかたないんだよな。
そんなヒカルにお構いなく佐為は嬉しそうな声を上げた。
「あ、ヒカル。見て見て。」
「なんだよ。」
「お魚ですよ。こういうの前に別のとこでも見ましたよね。これが偽物なんですよねぇ。どうみても本物みたいなのに。 あっ、この魚。ほら、何となくヒカルに似てませんか。いや、そっくりですよ。ふふふ。」
ヒカルはむっとした。
俺がこんなに緊張してるってのに佐為の奴ったら何なんだよ。
受付に着くと、すぐ職員がやって来た。
「進藤君だったね。今案内するから。」
エレベーターで上の階に向かった。
廊下を通って、突き当りの試験場へ向かう途中に、大広間があった。
ぱちぱちっと石を置く音がする。部屋の扉は少し開いている。
佐為とヒカルはそこからそっと部屋を覗いた。
何組もの子どもたちが碁盤を並べて対局をしている。緊張した雰囲気に満ちていた。
その様子を見て、佐為は胸を熱くする感覚に襲われた。
平安の御世にはこのようなところはない。
虎次郎の時もこういった形では見なかった。
ヒカルの時代は囲碁が廃れてきたのかと思うこともあったが、違うではないか。
こんなに大勢の子が緊張を持って対局をしている。
塔矢アキラだけではない。囲碁を愛し精進を続ける子どもたちがこんなにいるではないか。
その時、試験が終わったらしく、突き当りの部屋から女の子と母親が出てきた。
「まあ、もう少し力をつけてからおいで。」
母と子がお辞儀をして去っていくのをヒカルはじっと見つめた。
「先生。最後の子が来ておりますが。」
「あ。はいはい。どうぞ。」
ヒカルと佐為は部屋に入った。
畳の部屋に碁盤が置かれているだけの部屋だった。ヒカルはひどく緊張していた。
前の子が失敗したのを見たためかもしれなかった。
碁盤を前に対座すると院生師範の篠田は言った。
「志願書と棋譜を見せて下さい。」
ヒカルは棋譜と志願書を差し出した。
篠田はそれをそのまま、脇に置くと事もなげに言った。
「まずは一局打ってみようか。」
「置石は?」
ヒカルは尋ねた。
「3つで。」
ヒカルの相手をしながら、篠田は思っていた。これで三人目。
今日の志願者たちは皆棋力が今一つだった。
この子はどうかな。この子が駄目なら今期は新入りがいないということになる。まあ、それも致し方ないことだが。
おや、この子は、あがっているのかな。先ほどの手は思いっきり悪い手だったが。だがそのことを分かっているみたい でもある。
「進藤君、緊張しなくていいからね。」
篠田はそう声をかけた。だが、ヒカルには全く聞こえていなかった。
ヒカルは正座を止め、いつも佐為と打つ時のように足を組み、じっと盤面に集中していた。
ほう、この子は自分だけの世界にいる。大した集中力だ。
私は今はこの石でしか、この子と語れないようだ。 だが、残念だが対話ももう終わりかな。
佐為はヒカルの対局をじっと横で見守っていた。
残念だがもう三子置きの貯金は底をついてしまった。
ヒカルの腕では、もはや挽回の余地はない。私が代われれば。いやこれはヒカルの試練。
ヒカルに足りないのはこういう必死の対局か。だからこそ、ぜひ院生になって、あの子たちに交じって打てるようになってもらいたい。あの緊張感のある場で毎週打てたら、ヒカルの腕はさらに伸びるだろうから。
今日のヒカルはいつもの力も出せずに、いいところも少ない。
もう勝つことは無理だがぜめて、少しでも挽回の余地を示せればいいのに。
おや? ヒカル、その手は。
ヒカルは自分の力の無さを痛感していた。
ああ、もうダメだ。もう勝てない。 踏み込みすぎると、この人には潰されてしまう。かといってこのままではじりじりと差が開いていくばかりだ。ならば、こうするしか…。
ヒカルは差が開くのを抑えるために踏ん張った。
篠田は少し可笑しそうにヒカルを見た。
この子は私に勝つつもりで打っているのか。いや、もちろんそうでないと困るが。
しかし、こんなに夢中で…。おや、この手はなかなかいいところを突いてきている。少し持ち直せるかな。 これでどうかな。もう少し続けてみよう。この子の打つ手はなかなか楽しい。
「硬くならなくていいから。負けたから不合格という訳ではないからね。」
篠田はヒカルにそう声をかけた。
その一言に、ヒカルもだが、佐為もほっとした。
そうですよね。考えたら、これはプロ試験を受けるための院生になる試験。
先生はプロの棋士。三子置きとはいえ、いきなり勝てるわけもありませんね。
この者はプロの中でどの程度の腕前なのだろう。
手練の者だ。私も楽しく打てそうな相手だ。
先日、ヒカルは三子置きで導師に勝てた。
その時導師は言った。「もはや、二子でもわしはヒカル殿に負けるであろうよ。」
でも今ヒカルは導師と互先で打つ力を持ちましたよ。この場で。
佐為の思考の中に篠田の声が響いた。
「これくらいにしておこうか。」
篠田は、畳においていた志願書と棋譜と推薦書をじっと読み始めた。
ええと、棋譜は日付順だね。これが一番最近の棋譜か。相手は白川君か。三子置だね。
とすると、今日のこの一局はやはり上がっていたからか?まあ場数をこなせば、そういうことは克服できるが。
それよりも、一週間で、この子の碁は随分と違っている。大した進歩じゃないか。素質は多分にありそうだ。 特にもう挽回が無理と思えた時のあの手はなかなか興味深かった。
それから篠田は白川の推薦書とヒカルの志願書を眺めた。
「君は、白川先生のところにずっと通っていたわけじゃないのかい。」
「あ、はい。小学校の時だけで。中学で囲碁部に入ってからは。」
「囲碁部ね。」
顧問の先生がしっかりした人なのかな。とにかく囲碁を始めてからまだ一年とちょっとか。
稀に化ける子はいるけれど、この子はそうなのかな。囲碁経験は短くても院生になるレベルには充分達している…。
でも何より、私は少し様子を見たい。この子がこれからどうなるのか。久々にドキドキさせてもらった。
「いいでしょう。来月から来なさい。月末に組み合わせ表や予定表を送りますから。」
ヒカルは目を輝かせて佐為を振り返った。
篠田は佐為に言った。
「研修部屋は覗かれましたか。少し見学されるといい。後で対局部屋も見て行かれますか。今日は幽玄の間を見学できますから。トッププロが打つ場ですよ。進藤君の刺激になるといいですね。」
ヒカルと佐為は、研修部屋を覗いた。
手合いはもう終わっているらしく片づけている子、帰りかけている子様々だった。
なかに、碁盤を囲んで検討をしている一団があった。
ヒカルはそっと近づき、碁盤を覗きこんだ。
碁盤に向かい合っている一人が、いきなりヒカルの方を振り向いて言った。
「受かった?」
ヒカルは少し驚いて、答えた。
「あ、うん。」
向かいの少年が言った。
「和谷、知り合いか?」
「ううん。さっき部屋に入るのを見かけただけさ。」
「今回は三人だけだっけ?受かったのは君だけ?」
もう一人が尋ねた。
「え、さあ、分からないけど。」
「来月からだね。」
「ま、当分は2組だろ。1組にあがらないと俺たちとは打てないぜ。」
「和谷、厳しいな。ま、でもその通りだけどね。」
佐為は少し離れたところで、みんなの様子を見ていた。
確か、海王の大将は、『碁の棋士は12、3歳でプロになる。そうでないと遅いんだ』と言っていたとか。しかしここには結構年上の子もいる。さっきの 師範の説明では18まではいられるとか。
海王の大将は結局ここを辞めたのですよね。ここにいてもどこにいてもプロになるのは三人だけ。そこから先はさらに厳しい 世界が待っている。虎次郎の頃となんら変わらない世界です。ヒカルには分かっているだろうか。そのことが。