三面打、院生試験、アキラ新初段戦、森下先生研究会
(主な登場人物…ヒカル、佐為、導師、術師、白川、岸本、正夫、篠田、和谷、桑原、フク、帝、伊角、アキラ、座間、森下、冴木)
「そこが、幽玄の間です。タイトル戦のような対局の時に使用する部屋です。ゆっくりご覧になって結構ですよ。では、私はこれで。」
そういって案内された対局場に佐為は立ち尽くした。
「ヒカル…。ここは。」
「ん?どうしたの。佐為。」
ヒカルは佐為の厳しい表情に気付いた。しかしそこには喜びが流れているようだった。
佐為みたいな雰囲気の部屋だな。初めて出会った時の佐為みたいな。
ヒカルもその空気の中に気持ちを沈めた。その部屋に漂う厳しさが体に染み込む気がした。
「そろそろ行きましょうか。」
しばらくしてから、佐為はやっと幽玄の間を後にした。
階段を下りながら佐為は言った。
「ヒカル。感じましたか?」
「何を?」
「あの部屋です。幽玄の間。」
「うん、なんだか気合が入りそうな部屋だった。」
「あの空気は。」
佐為は言葉を区切った。
「ピリピリして痛いほどでした。私は嬉しい。私の知る碁は健在でした。あの場で打たれた碁。それをあの部屋は伝えてくれましたよ。 私の望んでいた世界です。」
ヒカルには佐為のいう意味が分かった。
果てしない碁の高み…前に佐為が言ったことがある。それが伝わってくるんだ。俺もその中に加わりたい。 それが俺の望みだ。
「俺、いつか。いつかあそこで打てるかな。」
「タイトル戦のことですね。」
「うん。」
「精進すればいつかはきっと。トッププロに。ヒカルには是非あの場で打ってもらいたい。私はそう願っています。」
それからヒカルの方を振り向き言い足した。
「でもその前にあなたにはやることがある。」
「うん、分かってるさ。まずはプロ試験に受からなきゃだろ。」
「ええ、でも、その前にまずは院生手合いを頑張らねば。あそこでは大勢の若者が真剣に囲碁に取り組んでいました。素晴らしい眺めでしたよ。ヒカルもあの空気の中で揉まれたら伸びます。」
「やるさ。」
ヒカルはきっぱり言った。
ヒカルと佐為は階段を下り、角を曲がって出口に向かった。
その時ちょうど老人が入ってきたのには気づかなかった。
エレベーターに向かった老人は、じっとヒカルを見つめた。
「ほう、これは面白い。」
そして、ヒカルの後から現れた佐為にも目をやった。
「二人もか。あの子は院生かな。それにしても興味深いことだ。わしは運がいい。」
佐為もヒカルも老人に見られていることに気付かず、棋院を後にした。
「桑原先生。どうなさったのです?」
ちょうど事務室から出てきた篠田は、エレベータにも乗らず、出入り口を見つめている桑原に声をかけた。
「おう、篠田君か。いや、何ね、少々昔の夢をみとったよ。いや、そうではなく未来の夢というべきかな。」
「桑原先生の未来の夢ですか。それはまた素晴らしいことですね。未来の夢と言えば、私は今日は院生試験 の日でしたよ。」
「おお、そうか。で?有望なのがおったかな。」
「有望というか興味深い子が入りましたよ。倉田五段を思わせるような子が一人。 私は期待したいですがどうなりますか。」
「それも夢じゃな。だが、倉田などという若造程度で喜んどったら、駄目じゃよ。わしの夢の方が当たっているかもしれんぞ。」 言ってみれば、新しい波とでもいうべきものかもしれん。
桑原は最後の言葉は声には出さなかった。
「その夢とはどんな夢です。気になりますね。」
「まあ、そのうち分かることよ。いや近々かもしれん。」
ヒカルと佐為が家に戻ると留守だった。
「お父上もお母上もまだのようですね。」
「助かったぜ。でも疲れた。腹減ったし。」
「ヒカルがお茶も飲まないというからですよ。」
佐為は駅前のコーヒー店がまだ心残りだったので、ヒカルに文句を言った。
コーヒーという飲み物はすこぶる美味です。インスタントも嫌いじゃないですけど、お店で飲みたかった。せっかくのチャンスだったのに、ヒカルときたらケチで…。
ヒカルは言った。
「金がもったいないじゃん。そうだ。俺、おやつ取ってくるから。 佐為にはインスタントコーヒー入れてきてやるよ。今日のお礼にな。」
そういって、ヒカルは階段を駆け下りた。
佐為は苦笑した。
ヒカルには、もう少し礼儀を仕込まねば。
それから窓の外を見やりながら、考え込んだ。
院生試験自体はどうということはなかった。
プロ棋士というあの試験官はヒカルの腕前を正当に評価していた。ヒカルの可能性に期待を抱いてくれたのが 私には分かった。
だがヒカルもよく頑張って、あそこまで挽回したものだ。最初は緊張をしてミスも多かったが、最後にはヒカルは今持てる力をよく出し切ったと思う。
ヒカルが院生になれたことのほかに、私は今日、二つの喜びを得た。
あの研修室の子どもたちの真剣な眼差し。囲碁にかける情熱。
検討をしていた若者たち。彼らの囲碁にかける真摯な思いに触れることができた。
囲碁に対する情熱はずっと、続いていたのだ。図らずも今日それをこの目ではっきり確かめることができた。
そしてあの幽玄の間。私は打てるだろうか。幽玄の間のあの古豪たちの息吹を感じる場所で古豪たちのような腕の打ち手と。
いや、幽玄の間でとは言わぬ。あのような雰囲気で、かつて虎次郎と打ったような強者と、打ち合うことは可能だろうか。
私は選ばれた者だろうか。
もし選ばれた者なら、私はきっとその機会を得るに違いない。
私は術師と知り合い、時の石を手にし、さらにそれを使うことができた。
使った結果は有意義なことだった。
虎次郎の下で、素晴らしい碁打ちと手合いをした。
それは虎次郎の時、ただ一度切りのことと思ったが、そうではなかった。
石は戻ってきた。
ヒカルと出会い、輝きを失うかに見えた石は今再び輝いている。
佐為は自分の石にそっと手を触れた。
石は私を幽玄の間に導いたのだ。だから私は確信している。
私は打つ。私と相並ぶ対等な打ち手と、至高の碁を。
そして、それだけではない。
佐為はふっと笑った。
私は打ち手を育てるという仕事も手に入れた。ヒカルは間違いなく逸材だ。
でも彼が碁が打てぬと言った時から、私はヒカルが気に入っていたのだ。今ならよく分かる。
神は私を選んだのだ。ヒカルを選び取って私に託したのだ。共に夢を果たすために。
ドアが開いて、ヒカルがお茶とお菓子を運んできた。
「さ、食ったら、また打つぞ。」
「そうですね。来月、院生手合いが始まるまでにまた力を蓄えねばなりませんね。競争は厳しいですよ。ヒカル。」
「分かってる。まずは目指せ一組だよな。すぐに一組になってやる。あいつらと打つさ。」
ヒカルは今日話をした院生たちの顔を思い浮かべた。
「それから、推薦してくれた先生に報告を忘れずに。」
「うん。もちろん。」
そう言ったが、ヒカルは完全に忘れていた。
白川先生のことなんて、忘れてたぜ。
でも佐為ってなんでそういうことにすぐ気付くんだろう?