三面打、院生試験、アキラ新初段戦、森下先生研究会
(主な登場人物…ヒカル、佐為、導師、術師、白川、岸本、正夫、篠田、和谷、桑原、フク、帝、伊角、アキラ、座間、森下、冴木)
佐為は帝から碁の相手をせよとの呼び出しを受けた。
帝は清涼殿が改築中ということで、中宮の父である左大臣家の別邸に滞在されている。
左大臣家の別邸は帝のために贅を尽くしてしつらえたものだった。
佐為は、のびのびとした様子で石を置く帝を前にして微笑を禁じ得なかった。
帝の日々の務めはもちろん別邸でも同じように続けられている。それでもこのお邸では帝は実に楽しげに碁を打たれることだ。帝にも息抜きは必要なことなのだ。 ここではそれが叶うのだろう。
「佐為。楽しそうだな。」
自分が言いたいことを逆に言われて、佐為は少々驚いた。
「主上(おかみ) のお相手を致しますのは、私には常に喜びにございますが、今そのように私が見えるというのは、それは…おそらく…主上のお心持が私に乗り移っているからでございます。」
帝は意外そうに聞き返した。
「私の心持が?私の生活は全く変わらぬぞ。毎日政務は多い。裁可すべき中身を吟味するのも面倒に思うことがある。 あるいは周りは存外、吟味してほしくないと願って、山のような仕事を用意しているのかもしれぬ。 そう思えてしまうことよ。そちが羨ましいことだ。」
「恐れ多いお言葉を。まことに主上のお力により、私どもはありがたく日々を安穏と過ごしております。 主上はご多忙とはいえ、こちらでは幾ばくかでも、ゆるりとおできになるところもお有りなのでは。」
帝は嘆息しつつ言った。
「何と言うべきかな。ある意味では楽は楽か知れぬが。でもな、それはそれで面白くないぞ。」
「面白くないと申しますと?」
帝は声を潜めた。
「ここでは余計な気を遣わなくても済む。そちの言うとおりだ。が、望む相手に会うのも限られてしまう。どちらが良いかは分からぬ。」
佐為は首を傾げた。帝は一体どなたにお会いになりたいのか。
そんな佐為の様子にお構いなく帝は話を続けた。
「そちを呼ぶことは全く問題がなくてな。」
佐為は確かに権力の駆け引きとは無縁の存在だった。帝は佐為をじっと見た。
「私は碁は大好きだ。が他のこともしたいのだ。」
「蹴鞠とかでございますか?」
佐為のその言葉に帝は呆れたような声を出した。
「佐為。私を幾つと思っている?あれは私がほんの子どもの頃の話だ。 大体何でいつまでもあの事を覚えておるのだ?」
帝はそれから、話を切り替えるように尋ねた。
「ところで佐為は、紅内侍に代わるものは誰かおらぬのか?」
いきなり話が切り替わり佐為は少しうろたえた。
「残念ながら今は誰も。」
私が一時通い詰めた女房の話を何故に今頃帝は。先ほどの蹴鞠の話の意趣返しというわけではないだろうが。
佐為には『私は結局碁の次の存在なのね』という紅内侍の声が聞こえてきそうだった。紅内侍もたいそうな碁上手であった。だから碁のことにかまけても許してもらえると思ったのが間違いだったかあるいは佐為の碁への情熱が度を越していたか。とにかく紅内侍が佐為を見捨てた時は佐為はかなり、かっかしたものだった。まさかそんなことが起きるとは思ってもみなかった。
「では何をしておる?もしや前に話していた才のある子でも探し当てたか。言っていたな。才のある子を育てて自分の相手にしたいと。」
佐為の思いを破るように帝は尋ねた。
佐為は少々ためらった後、答えた。
「才のある者はそこそこにおります。が、結局のところ才だけでは行き詰ります。」
「だからそなたが育てるのであろう?」
「もちろん技術的なことは教えられますが、それ以上は、その者の気持一つです。」
「気持?精進ではないのか?」
「もちろん才も精進も必要欠くべからざるもの。ただ、才だけで突っ走れば必ず壁に当たります。迷いが出るのです。その迷いを吹っ切って、進めるかどうかが碁上手になるかどうかの分かれ目かと考えております。」
帝は頷いた。
「なるほどな。どこの世界も同じようなものなのだな。私はそなたと遊んでいた昔に戻りたいと思うことがある。」
「皆年を重ねて大人となれば、思うようにいかぬことが多いものでございますが。人は昔に戻れませぬゆえに。主上は皆の上に立たれる方。ご苦労も一層に。」
帝は何とも言えない顔で佐為を見た。
「そちは珍しき者よ。私に近いのか遠いのか分からぬところがだ。
だからかもしれぬが私はそちといると心休まる。そちは私が気が置けぬと感じる一番の者だ。
実はな、私は昔に戻る方法を見つけたのだよ。だが、なかなかうまくいかないものだ。」
佐為はぎょっとした。もしかして帝も時の旅を?
しかし帝は続けた。
「昔の気持に戻れる者に出会えたのよ。だが、ややこしいことになってな。本当にままならぬことばかりよ。」
帝は今度こそ本当に嘆息した。
帝の元を辞して、馬で戻る道々、佐為は先ほどの帝との話を思い返していた。
昔の気持に戻れる者か。人はそうやって昔の気持を思い返すことができるのかもしれない。
では、未来はどうだろう。考えてみれば私以外は誰も未来を知らぬのだ。
虎次郎は時を隔てて過去に来て私を知った。それはヒカルも同じ。人は実に様々な定めの下に生まれる。
佐為はしばし目をつぶった。馬の背から伝わる振動が心地よい。手綱を持つ伴の者が振り返り佐為を見上げた。佐為はすぐに目を開け、大丈夫というように頷いた。
が、先の方に人影を認めてすぐに声をかけた。
「少し待て。」
伴の者は馬を木陰に止めた。左大臣の本邸が近くにある場所だった。
佐為は目を凝らした。
あれは確か楓の大納言に仕えている者ではなかったか。いつぞや術師の家の近くで見かけた。
もしや左大臣邸に用があるのか? いや、楓の大納言が左大臣邸に何用がある? 貢物? なぜに。今は任官の季節には程遠い時期では。
佐為は少々首を傾げた。
楓の大納言といえば、途方もない分限者(大金持)として知られているが謎も多いと言われている。身分は高くなかったものの、大納言まで昇進できたのは、 ひとえにその財力のためだと言われている。白河のほとりの立派な屋敷の立ち並ぶ界隈に、ひときわ大きく瀟洒な屋敷を新築した。
門を入るとすぐに楓の大木があるので、楓の大納言と呼ばれている。
私にはとくに悪い人物には見えぬが、興味をそそられる人物だ。いろいろに噂を立てる者も多い。
以前術師の家で見かけたが、もし術師と何かで組んでいるなら噂も存外あっているのかもしれぬ。左大臣とも何か繋がりがあるのか?
術師なら左大臣に秘かに呼ばれてもおかしくないかもしれない。
おおっぴらにはできまいが。何しろ術師は陰陽師家には、ひどく疎まれている。 術師が生業としていることが、陰陽師のそれと重なるからだろう。しかも術師の方がその手のことでは力が勝っているという評判だ。術師の呪術が強力だとの噂があ るため、誰も術師に手出しをせぬ。 噂だけで彼が呪詛を行ったという実際の話は一度もきいたことがない。そもそも術師はそのような力を本当に有しているのだろうか。術師の性格に問題があるのは確かだが。
楓の大納言の従者の姿はどんどん遠くなりやがて次の通りの角に消えた。
佐為は伴の者に声をかけた。
「もうよい。行くぞ。」
邸に戻ると、佐為は、すぐに石の輝きを確かめた。それはこのところの佐為の日課のようになっていた。
大丈夫だ。あの院生試験の後、ずっとヒカルの時代へは行っていない。石もまたその分、力を蓄えているに違いない。院生試験か。
佐為は思いにふけった。
あの時院生試験に同席できたのは誠に幸運。たまたまなのだろうが決められていた運命のような気もする。幽玄の間に導かれるための定め。
導師にはひどく叱られたが、石は輝きを失いはしなかった。
石の方は問題がないが、時の旅をすると、時間の感覚が少しずれてくるように思える。それは時間の感覚ではなく、もっと別のものかもしれない。 もしかしたら時代の空気に染まなくなる。そういうことかもしれぬ。導師が恐れているのは、そのことなのかも。
「ヒカル殿が来るのは構わぬが、そなたはなるべく行くでない。そうせぬと、この平安の御世に生きられぬことになりはしまいか。」
「私はこの平安の御世の人間です。この時代を愛しております。」
いくらそう言っても導師は首を横に振る。
「それでもそなたはここで生きられぬようになる。ここで生きることが辛くなる。」
導師はそう言われたが、私は今はまだ、戻れないことがあるなどとは思わない。
何故ならここが、この平安の京が私の居場所だと感じているから。
私はあの時言った。
「導師がおられるここで生きるのが辛いなどということがありますでしょうか。」
「わしはそなたよりかなり年上だ。順当にいけばわしはそなたより早く逝くであろう。」
導師がいなくなったら?
人は生まれた以上、死別は避けて通れぬ。数年前にも、流行病に襲われ、子だくさんの男が、家族をすべて失って一人になったことがあった。 それでもかの男は生き続けている。
導師がいなくても私もこの平安の御世に生きていくであろう。
導師は私には心許せる者が平安のこの御世にはいないと思っているのだ。
だが、もし私が時の旅から戻れず、ヒカルの時代に生き続けることになったら?
順当にいけば私がヒカルより先に死ぬ。それでも、もし私がヒカルの時代に一人生き残ったら、どうなる?
「そなたは自分の思う碁が打てたらどの世界にいようと気にしないのではないかと。」一度導師にそう言われたが。私はそうは思えない。あそこはヒカルあっての時代。江戸も虎次郎あっての江戸だったではないか。
佐為はそのことを考えるのは止めた。囲碁指南中に、帝が言ったことを思い出した。
「才のある子でも探し当てたか。」
帝は勘が鋭い方だ。私が才のある子を見つけたと感じたに違いない。
才だけで突っ走れば必ず壁に当たるか。私はあの時、帝にヒカルのことを話していた。
ヒカルはすでに院生手合いを十局以上終えている。しかし結果は思わしくない。ヒカルが劣っているわけではない。それでも連敗から抜け出 せないのだ。
ヒカルは気が付くだろうか。今のヒカルに一番に欠けているものを。
この先を考えたなら、ヒカルはそれを自分で悟らねばならない。たとえ私が口で教えても、ヒカルの助けにはならない。
だれもヒカルを手助けはできぬ。どんなに時間がかかろうとも 一人で乗り越えねばならない。
これはヒカルの本当の意味での最初の試練かもしれない。
自分が壁に突き当たっている理由を理解し、その迷いを吹っ切ってすすめるかどうか。