三面打、院生試験、アキラ新初段戦、森下先生研究会
(主な登場人物…ヒカル、佐為、導師、術師、白川、岸本、正夫、篠田、和谷、桑原、フク、帝、伊角、アキラ、座間、森下、冴木)
「甘いな。俺がここ、受けると思ったか。塔矢門下の若いのなら手拍子で受けるだろうが。今君の前に座っているのを誰だと思ってるんだい?」
王座の言葉に、アキラはくっと唇をかんだ。
今僕が打っているのが誰かなど、そうじゃないんっだ。それでも。
それでも僕は前に進むんだ。それでも。もっともっと踏み込んで打つんだ。
アキラが投了を余儀なくされた時、一瞬、座間の顔は勝ち誇ったように見えた。だがその表情は硬かった。
たかが新初段に、王座の俺がこんな形で勝った。そのことへの屈辱感が座間をひどく不機嫌にさせた。
アキラには、その後のことはたいして記憶にない。アキラにとって、それはもう終わった対局だった。検討があって、頑張ったという声が聞かれた。週刊碁の編集部の人が何か盛んに言っていたけれど、それも遠い出来事のようだった。口数の少ないアキラを芦原が手慣れた態度でフォローした。
帰りの電車の中で、一人になって、アキラは初めて考えることができた。
今日は本当に芦原さんがいてくれて助かった。負けたことは悔しいと思ってはいない。ただ一つ確かなのは、今日の対局を僕は後悔なんかしてないということ。これは僕の決意の証だから。
アキラには今日の碁よりもあの時のことが思い出された。
僕は何であの時あんなにムキになったんだろう。おそらく進藤は。…彼は僕に謝りたかっただけなんだ。僕が必死でsaiを探していた時に冷たくしたことを。それだけだったんだ。
彼は僕がプロになったことも知らない筈だ。中学の部活のノリで僕に追いつくなんて言ったんだ。碁を分かってないから。初心者相手に腹なんか立てて、僕は本当にバカみたいだった。
棋士の高みを目指して、僕は小さい頃から毎日毎日何時間も碁を打ってきた。どんなに苦しくても。その努力を人にひけらかすつもりはないけど。それでも僕にもプライドはある。
僕は今日の対局で知った。プロの真剣勝負の厳しさというのを。もちろん今までだってずっと見てきたんだ。父の傍らで。そういう厳しさをずっと。だけれど、それを自分の身として感じたのは今日が初めて。
あの時僕が負けた二局。…あの人は強いとは思う。確かに強かった。でも本当にもういいんだ。あの人はプロではないから。僕には無用の人なんだ。
そう決意したものの、アキラには、心のどこかで、もし進藤に言いさえすれば、またあの人と打てるんだという気持があった。アキラは首を横に振った。魅惑的な碁を頭の中から追い払った。もう考えまいとした。
この次王座と対局する時は今日とは違う。僕には今日掴んだものがある。僕は進む。僕には今日の厳しさを受け止めて プロ棋士として進むのが道なんだ。
ヒカルは、帰る道でも、帰ってからも、その日一日、しびれたようにアキラの対局を思い返していた。眠る時も、頭の中にアキラの真っ直ぐなひるむことのない指先が 石をぴしっと置くのが見えた。
翌日、ヒカルが学校から帰ると、部屋の中に佐為が狩衣姿のまま碁盤を前にして座っていた。
「れっ?佐為。来てたの?」
「今しがた、来たところですよ。ヒカルが、どうしているかと思いましてね。」
「どうしてるかって。俺、一昨日佐為んとこ、行ったばっかじゃないか。」
ヒカルはふてたように言った。
佐為はそれには答えず、別のことを聞いた。
「ヒカルは、私の所へ来る以外はどう過ごしているんですか。」
「どうって、学校へ行って、あと院生手合いに行って…」
「それは分かっています。それ以外です。他の院生はどのように過ごしているのでしょうね。」
「そりゃ、誰か、先生についたりとかいろいろだろ。」
「一人でいる時はどうしているのでしょう。ヒカルは?」
「今まで打った棋譜、俺が佐為と打った棋譜を並べ直して、検討してるんだ。」
佐為は思案気に頷いた。なぜかあまり賛成ではない風にみえた。
「昨日は院生手合いでしたね。」
「あ、うん。また負けた。もっとも最後の一局は勝てたことは勝てたよ。けどさ…。」
佐為は後を引き継ぐように言った。
「内容が悪いのですね。」
ヒカルは頷いた。ヒカルはいつものように棋譜を並べることはせずにしばらく黙っていた。
佐為は、せかすことはせず、じっと待っていた。
「あの幽玄の間でさ。新初段戦があったんだ。」
ヒカルは、やっと口を開いた。
「幽玄の間で?」
その言葉に、佐為の胸は高まった。懐かしくも厳しい空気の満ちていたその場所を思い浮かべた。
「うん、塔矢と座間王座の対局だったんだ。」
ヒカルは、新初段戦の棋譜を並べ始めた。
「王座ってのはタイトルの一つなんだって。新初段はハンデをもらえるんだ。先手で5目半。」
佐為は盤面をじっと見つめた。
ヒカルは石を置きながら言った。
「塔矢ってすごいよ。俺、胸が熱くなっちゃった。」
佐為はアキラの対局図を見ながらヒカルの言葉に頷いた。
塔矢アキラか。あの子は何に向かって宣言しているのだろう。
名人という父親に向かってか?あるいは誰か競うべきライバルがいるのか?
いや、そうではなく、これはプロ棋士として進む自分への決意表明というものかもしれない。 若い熱い思いが溢れている対局だ。彼は本当に真っ直ぐな子だ。
佐為はアキラの碁についての検討をしなかった。その代りに言った。
「ヒカルの昨日の院生対局を並べて下さい。」
ヒカルは渋々自分の対局譜を並べ始めた。
佐為は言った。
「それで、ヒカル。あなたは自分に何が欠けているか分かりましたか?」
ヒカルは首を横に振った。
佐為は静かに言った。
「ヒカルは今塔矢アキラの碁に感激していたでしょう。あなたは院生になる時、塔矢アキラの横に並びたいと、彼を追うことを決意した筈です。ヒカルは今のところ、力は塔矢アキラに及ばない。まだまだだ。でも一つだけ彼と並ぶことができるものがある。」
「俺が塔矢と並べるもの?そんなものがあるって?」
佐為は頷いた。
「少なくも、塔矢アキラのようにまっすぐ進むことはできるでしょう。新初段戦で見せた塔矢アキラの気概ですよ。」
ヒカルは佐為を見つめた。
それが俺が今塔矢と並べるもの。
「ヒカルは以前は真っ直ぐに打っていました。あなたの性格そのものです。恐れを知らず、まっすぐ思うとおりに。 今見せてもらった塔矢アキラのような無謀にも思える手。
人というのは学び、知恵をつける。だから人は伸びていけるのだが。
そう、ヒカル、あなたも知恵をつけた。 私と打って多くのことを学んだ。
今のヒカルは相手の手を考え恐れ、自分の手を控えてしまう。
相手の手を考えるのは悪いことではない。当然のことですよ。でもそれで自分を失ってはダメなのです。
ヒカル。心が熱くなるような碁を打ちなさい。今のあなたに一番必要なものです。勝ち負けはその後です。」
ヒカルは佐為の言葉に頷いた。
それ以上は言わず、佐為は早くに平安へと戻った。
その後も何も特には変わりはなかった。ヒカルは今まで通り佐為の元に通った。
真っ直ぐに進めと、そう言われたけれど、そう思ってもヒカルはなかなか満足いく形で打てなかった。
佐為は今までと変わりなく俺と打ってくれてる。いや、そんなことはない。今まで以上に手加減なしで鋭い感じがするぞ。畜生。負けないぞ。俺は それでもまっすぐ打ってやる。
そうは思っても、それが結果として盤面に現れるというものではなかった。
土日の院生対局も、以前より勝てるようにはなってきたが、内容は今一つ満足のいくものではなかった。
「ヒカル真っ直ぐに進みなさい。勝ちを手にするのは大切ですが、でも負けを恐れてはいけません。今のヒカルは負けを恐れ結局負けている。」 いつも佐為の声が響いていた。
俺は負けることなんか恐れない。
ヒカルがもがきながらも、何とか様になる形で、打てたと感じられるようになったのは2月も終わる頃だった。
今日のこの一局、自分でも満足のいく納得の碁だ。
その日の院生対局の終わりにヒカルは晴れ晴れとした顔をして、対局部屋を見回した。
今までとは違う。ここは俺が堂々といられる場所に思える。
その夜、ヒカルは佐為の元に行き、誇らしげにその対局譜を並べた。
それを見て佐為は一言、言った。
「やっとヒカルらしい碁になった。」