ヒカル…秀策について知る。若獅子戦でアキラと対戦。プロ試験へ。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、和谷、伊角、フク、平八、平八妻、筒井、本田、村上、アキラ、導師、門脇、桑原、道玄坂碁会所マスター、河合、市川、緒方、岸本、尹先生、洪秀英のおじさん)
ヒカルと佐為は灯りの下で盤面を見ていた。
「塔矢って本当に強いよ。一局目で打った二段の人も強いことは強かったけどな。
でも塔矢ってそういうんじゃないんだ。別格の強さなんだよ。
俺は塔矢が俺の前に座った時、やっと並べたんだって、そう思ったのに。
もちろん俺はプロじゃないし、力の差はあるって 分かってたさ。
でもここまで強いなんて。
俺、塔矢に追いつくなんてとんでもないことなんだってやっと分かったよ。」
ヒカルはふっと息をついた。
それはため息とも憧憬ともつかないものだった。
佐為はそんなヒカルを黙って見つめていた。
確かに圧倒的な力と強さを見せつけて、塔矢アキラは勝った。
この対局を見ていた周りの者も、きっと院生とプロの違い、あるいは塔矢アキラの別格の強さを思い知ったことだろう。今のヒカルみたいに。
ただ、塔矢アキラ本人は、どう思っているのだろう。
彼の力ならもう少しじっくりと攻めることもできただろうに。
何かこの対局図は新初段戦の時の棋譜を髣髴とさせるものがある。実に面白い。
この碁は塔矢アキラの碁の本質を表しているのだろうが、彼は普段はどういう碁を打っているのか。
この戦い方は相手がヒカルだから勝てた。
もし王座のような力ある棋士が相手なら、きわめて危ない賭けだ。
ここまで踏み込まずとも、勝てる碁を打てたであろうに。
ヒカルの力を侮ってそうしたとは思えないが。何を思っていたのであろう。
塔矢アキラはヒカルに何を言おうとしたのか。
今は気付いてないかもしれないが、塔矢アキラがなぜこういう碁を打ったのか、ヒカルには分かるのではないか。
とにかく塔矢アキラは、ヒカルが考えている以上にヒカルのことを気にしているのは確かだ。
ただ彼がヒカルの本当の力を理解しているのかどうかは分からない。
しかし何より私は、この一局、塔矢アキラの強さよりも、ヒカルがここまで真っ直ぐ塔矢の打つ碁を受け止めたことに驚嘆 している。
ヒカルは本当に成長したな。
しかしヒカルはすぐ図に乗る子だから、手放しで褒めるのは良くない。
佐為は言葉を選び話した。
「もちろん、ヒカルはまだ塔矢には遠く及ばない。
ヒカルはそのことをこの対局で思い知ったわけだ。
しかし、恐れずに正面から塔矢に立ち向かった。私はそれを評価したい。
それでヒカル。
そなたはこの若獅子戦を経験して何かほかのことも感じたのではないか。」
ヒカルは佐為の言葉に力強く頷いた。
「うん。俺この二局ですごく力が付いた気がした。
こんな碁をもっともっと打ちたいと思った。そうしたら俺もっと強くなれると思う。」
「その通りだ。こんな碁を打つ機会が増せば、ヒカルはもっと力を伸ばせよう。
ヒカルに必要なものだ。」
「でもそんな機会があるかな?
若獅子戦には負けちゃってもう出れないんだもん。」
「ヒカルは言っていたではないか。
まもなくプロ試験とやらが始まるのであろう。
それを勝ち抜けば、プロになれるのであろう。
さすれば、またその二段の棋士や他の棋士、塔矢アキラとも打てるのであろう。
そのようにして場数をこなせば、いずれは塔矢アキラの横に並べよう。」
「先の話かぁ。」
「先の話も何も、今はまずプロになるのに力を尽くすことを考えるべきであろう。」
その時、玄関で声がした。佐為とヒカルは顔を見合わせた。
「こんな時分に訪ねてくるのはひとりしかおらぬが。」
間もなく導師が現れた。佐為は導師を見上げて尋ねた。
「やはり導師でしたか。こんな夜更けに何か急を要することがおきましたか?」
「いや。特に用事があるわけではないよ。
最近ヒカル殿は来るのが遅いと聞いている。この時間なら会えるかと思ってきてみた。」
そういうと導師はヒカルを見て、にっこりして言った。
「やっと会えましたな。ヒカル殿。随分久しぶりの気がする。だいぶ逞しくなりましたな。」
佐為は盤面の石を片付けながら言った。
「ヒカルと一局手合わせしてはいかがです。碁も逞しくなりましたから。」
「そうなのか。それを楽しみにしてきたのだよ。いつも佐為からヒカル殿が強くなったと聞いているので。」
導師は嬉しそうに言った。
佐為は言った。
「ヒカルの進歩は目覚しいですよ。置石は必要ないかと。導師とはもう互戦で打てる筈。」
導師はそれを聞いて目を丸くした。
この前打ったのはいつだったか。まだ余り日が経っていない気がするが。
ヒカルは置石なしと聞いて張り切った。
導師との一局は院生対局とはまた違う楽しみを与えてくれた。
それがどういう類のものかは分からなかったが、碁を楽しむために打つ、それを思い起こさせてくれた。
どちらかというとじいちゃんと打つ碁みたいかな。
それともこれが平安の碁?
ヒカルは、そこに若獅子戦でのアキラとの張り詰めた対局の余韻を和らげてくれる不思議な感覚を覚えた。
ゆったりとした感覚の中で、ヒカルは中押し勝を決めた。
「なるほど。ヒカル殿の碁は変わってきた。佐為の薫陶の賜物か。」
「さあ。ヒカルはそんなことこれっぽっちも考えてませんよ。」
「佐為はまだひねくれておるのか?ヒカル殿は唯一無二の弟子であろうに。」
導師の言葉に佐為は満更でもなさそうに答えた。
「私も力を少々貸しましたが、ヒカルは自分の能力に磨きをかけることが少し出来るようになったということですよ。」
「佐為にしてはしおらしい返事だ。
しかし少しということは、ヒカル殿はまだまだ磨きをかける余地がたくさん残されてるのか。」
導師は唸った。
「私は同等の相手をやっと見つけたと思ったのに、もしや、この次ヒカル殿と打つ時は、私が置石を置くことになるのか。」
佐為はその言葉にちょっと笑った。
ヒカルは今日導師に追いついた。
次には導師に置石3つで勝つ日が来る。
そしてその日はそう遠くない。
「これから先はどう訓練すれば良いか、少し考えてみなければなりません。
ヒカルの足りない部分を補う効果的な方法を。」
「佐為と打つだけでは駄目なのか。」
「さあ、どうでしょうか。それだけで良いかどうか、私にも今のところ思いつかないことですから。」
俺に足りない部分って、佐為は何を考えてるんだろう。
夜も更けていたが、酒が運ばれてきた。
「導師は今日はこちらにお泊まりください。」
「わしもそう思っていた。」
導師と佐為は楽しそうに酒を酌み交わした。
ヒカルは少し疲れていたので言った。
「俺、今日はこれで帰る。また来るよ。」
ヒカルが帰った後、佐為と導師は話をした。
「清涼殿の修繕が思いのほか早く終わったそうだ。」
「はい。この前、別邸に伺った時に、ここで打つのはこれで最後だと、帝はそう仰っておられました。」
「帝は嬉しがっておいでか?」
「碁を打つことですか?」
「違う。清涼殿へ戻られることだ。」
「さあ。特には何も。」
「佐為は知らないのであろうな。噂を。」
「噂?」
「中宮様と帝の確執だ。」
「確執?私は気がつきませんでした。
お二人は仲睦まじくあらせられると思うておりました。
仮にお二人に何かあってもそれが今更問題になりますか?」
「中宮は皇子を二人設けておられる。お一人は既に東宮だ。
中宮のお子が天皇になられる。それは間違いないこと。それは何も問題がない。
まあ言ってみれば単にお二人の間の問題であろうな。
中宮は帝よりお年が上。
こういう問題を切り抜ける知恵は帝よりおありであろう。」
佐為は頷いた。
「それにしても一体何がおありになったのです。」
「馬鹿馬鹿しいと思えば馬鹿馬鹿しいことだが。
楓の大納言のことは知っておるだろう。」
「はい。」
「子沢山なのだが、末の娘が幼いながら中宮のお目に止まっていたらしいのだ。
もう少し年が行ったら、自分の元に仕えさせようと思っていたらしい。
それが、斎院のお目にも留まってな、即お仕えするよう言われて、困った大納言が帝にお伺いを立てたらしい。
斎院のご母堂は帝の大伯母に当たるので、帝も中宮の思惑は知らずに構わないと返答されたらしい。
それで、中宮がご立腹なのだそうだ。」
つまらぬことでと、佐為はため息をついた。
「それで?
なぜに楓の大納言の娘はそのように人気があるのですか。」
「決して美人だとか言うものではないそうだ。それにまだ子どもだ。
しかし飛びぬけた才があるらしい。その機智に皆が感心しているとか。」
飛びぬけた才?碁にも才を示しているのだろうか。
佐為はそんなことを考えた。
「で帝はお困りで?」
「さあ。わしは噂しか知らぬ。ただ斎院の集まりがあろう。」
「ええ、知っております。
最近編まれた和歌集は大変にすばらしいものと伺っておりますよ。」
「あそこに帝もたびたびお出ましになられていてな。
目当ては楓の大納言の娘だと、もっぱらの噂だ。
となると帝は斎院でも中宮でもなく自分の元に置きたいと思われるかも知れぬな。」
佐為はふと思い出した。
しばらく前の帝とのお手合わせから帰る途中、確か楓の大納言の手の者が左大臣邸にいた。
もしやあれは中宮と斎院の問題を話し合うためか。
あの時帝は確か何とかと言われたな。
そうだった。
佐為は導師に話した。
導師は佐為の話に頷きながら言った。
「そうか。帝はそう申されたのか。
昔の気持に戻れる者か。
それは、もしかしたら楓の大納言の娘かもしれぬな。
結局帝より楓の大納言の考え次第なのかもしれぬ。
今回のことを解決できるのは。どうなるのであろうな。」
「大納言も困ってるのではないでしょうか。」
「それこそ頭の使いどころだな。
京の雅には疎いかも知れぬが、大納言はとりわけ頭脳明晰だ。
だから 分限者(財産家)にもなった、さらに一層疎まれもするし、陰口もたたかれる。」