風の石空の夢   作:さびる

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『千早』51~60
ヒカル…秀策について知る。若獅子戦でアキラと対戦。プロ試験へ。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、和谷、伊角、フク、平八、平八妻、筒井、本田、村上、アキラ、導師、門脇、桑原、道玄坂碁会所マスター、河合、市川、緒方、岸本、尹先生、洪秀英のおじさん)


千早58

エアコンが恋しいことだ。

そう思った時、佐為は苦笑した。

邸は南北に風が抜けるよう建てられている。

風通しはいいが、それでも今の佐為の体調には少々こたえた。

 

ヒカルは今頃、プロ試験の対局中だな。

佐為はヒカルが打っている様子を思い浮かべた。

院生研修とは別の建物と聞いたが、同じような雰囲気だろう。

いや、それ以上に厳しい雰囲気の戦いに違いない。

自分たちの未来がかかっているのだから。

 

ヒカルは二連勝中だった。

この二局でヒカルは何と力を伸ばしたことか。

ヒカルは私と二子置きで打っているが、こうなってくると、互先になるのもそう遠いことではないように思える。

ヒカルが私に追いつく?

ふふ、先が楽しみなことだ。本当に心躍ることだ。

 

このひと月、あまりにも面白いことを経験してきた。

ヒカルの成長のことだけではない。

なのにこんなことになるとは。

体調不良はもしや、ヒカルの時代の食べ物が私に合わなかったとか?

それはないと思うが、結構毛色の変わったものも食べたな。

あのアイスクリームというものは美味だった。

いや、食べ物のことなど、さておき、それよりも。

ヒカルの時代に行き続けていたら、私はもっと面白い経験をもてるのに。

 

先日、帝からのお呼び出しがあって、佐為は囲碁のお相手をしてきた。

「佐為。」

帝はそういうと少し間を置いた。

「そちに折り入って頼みがある。要件は追って伝えるが、よいか。断らんでほしい。」

「私に勤まるようなことでございますか?」

帝は当然という顔をした。

「もちろん。佐為だからこそできることだ。」

帝は一体私に何を頼みたいのか?

私だからこそできること?ならば当然囲碁に関することか?

 

その御所からの帰路、佐為は心の臓に異変を感じ、ふっと倒れたのだ。

気がつくと佐為は邸内に寝かされていた。

導師が心配気に傍らにいた。

 

「佐為。そなたは時の旅で、体に負担をかけているのだ。」

「そのようなことはありませぬ。」

佐為は手鏡を引き寄せ、耳につけた石の輝きを確かめた。

「石はほら輝いておりますよ。」

「いや、違う。石は何ともなくとも、そなたの体に負担がかかっておる。

それ以外に佐為がこのように倒れる理由はないではないか。」

 

導師の言葉に佐為は不満げに呟いた。

「でもヒカルは何とも無いのに、なぜ私だけが。」

「わしには分からぬが、もしや過去に来るのと、未来へ行くのとでは、意味が違うのではないか。

最近そなたは連日のようにヒカル殿の時代に行っていたではないか。

よいか。絶対に時の旅に出てはならぬぞ。」

導師は厳しく申し渡した。それから辛そうに呟いた。

「わしは、碁のためだろうと何だろうと、そなたを失うのはごめんだぞ。」

 

その日、ヒカルがやってきたのは、佐為が少し、気分が良くなり、体を起こして、庭を眺めている時だった。

ヒカルも佐為の体調を心配したが、時の旅とは繋げなかった。

「佐為、無理しちゃだめだよ。疲れたのかもしれないよ。毎日出歩いてたものね。

プロ試験が済むまでは俺が毎日佐為のところに来るから。

試験はまだ二ヶ月あるんだ。二ヶ月もしたら、佐為も元気になるよ。その頃には少し涼しくなるだろうしさ。

とにかく石はなんともないんだから。元気になったらまた俺の時代へ来れるさ。」

 

佐為はその時のことをぼんやり思い起こした。

私も導師には強がっては見せたが、自分の体調が悪いのは身に染みて感じている。

どこが悪いというわけでもないが、ただ力が入らないのだ。

暑気あたりかもしれぬ。時の旅のせい云々ではないと思う。

ヒカルの言うとおり、またしばらく休めば、元に戻るだろう。

どのみち、今はヒカルと打てるだけ打ち続けるのが大切だ。

それには時間の経過からいっても、ヒカルがここに来るのが一番いいことだ。

導師もヒカルが来ることには反対していないし。

二か月は静かに暮らそう。

 

そう心に決めたものの佐為はまた未練がましく思いにふけった。

残念だ。

秀策の全集を見て、棋院であの面白い一局を打ってからのひと月、本当に面白い経験をした。

 

あの碁会所でヒカルたちの団体戦を見た後、佐為はヒカルと、またあの碁会所を覗いたのだ。

素直で明るい性格が幸いして、ヒカルは席亭に気に入られ、いろいろな便宜とアドバイスを受けていた。

ヒカルは一週間その碁会所に通い詰めた。

 

あの席亭はプロではないが、見る目は確かだ。

「目算は苦手かい。」

そう言って、ヒカルの弱点が目算にあるとみたオーナーが提案した訓練法。

「持碁にしてご覧。今度の対局。きっちり引き分けにするんだ。」

ヒカルは不思議そうな顔をしていた。

「中盤までは形を作ってヨセで正確に計算し始めるんだよ。

でもそれが大変なんだ。相手の打つ手によって状況は変わるから、常に計算は怠れない。

一目のミスも許されないよ。

それに言っておくが、ただ持碁にすればいいというもんじゃない。

いつもどおりの速さで打つんだよ。

下手な打ち方をして帳尻を合わせようなんてのもだめ。

相手にばれないくらいちゃんと打つこと。

やってごらん。いい勉強になるよ。」

 

ヒカルは面白そうだというように頷いた。

ヒカルが打ち始めると、席亭は言った。

「それが出来たら次は二面打ちだ。」

 

ヒカルは驚いたような声を出した。

「二面両方を持碁に?」

席亭は笑った。

「二面が出来たら三面にも挑戦してみるかい。」

ヒカルは調子に乗って言った。

「それが出来たら四面?」

「ははは。」

そこまでは誰も思っても見なかったことだ。ヒカルですら。

二面が出来たら上々という気持だろう。

 

間もなく佐為もギャラリーに加わった。

あれは何とも楽しいものだった。

ヒカルが一人目をうまくクリアした時、周りから拍手が起きた。

「へへー、やろうと思えば出来るもんなんだな。」

一人成功させて気をよくしているヒカルに席亭は少し厳しく言った。

「一対一の置き碁で引き分けにするくらい、プロなら100回やって100回成功させるよ。」

その言葉にヒカルの中で闘志がわいているのが佐為には見て取れた。

ヒカルは持ち前の集中力を発揮し始めた。

 

その様子を見て、私は三人はいけると思った。それが、まさか四人とは、私は驚くと同時にわくわくした。

ヒカルがここまで力を伸ばすとは。

本当はこんな面白いこと私がヒカルに代わりたかったが、それは出来ない。

でもいつか平安ででもこれをやってみよう。楽しみだ。

ヒカルが何とか四人目をクリアした時、私は即、五人目に名乗り出た。

ヒカルのあの時の不機嫌な顔。今思い出しても可笑しい。

 

佐為はそれを思い出してクックと笑った。

帰りの電車の中で、ヒカルは腹立たしそうに言った。

「佐為じゃなければちゃんと五人いけたんだぞ。佐為、お前、全然手加減しなかったじゃないか。」

「そんなことないですよ。ちゃんと普段どおりにヒカルと手合わせしてましたよ。

でも楽しかった。本当に、出来れば私がヒカルと代わりたかった。あんな面白いこと。」

「佐為は必要ないじゃん。佐為の腕だったら十人でも二十人でも何人でも出来るだろ。」

「そんなことはないと思いますよ。私だって限りはある筈。

一体何人まで可能かを試してみたかった。あの場でね。

私にどのくらい限りというものがあるのか。」

佐為は遠くを見つめるようにして言った。

 

ヒカルは怒ってたけれど、私はあの時の席亭の言葉に深く同意した。

「人が成長するのを初めて目の当たりにしたよ。シビレないか?」

ええ、私も痺れましたよ。ヒカルの潜在能力は分かっていたつもりでしたけれどね。

ヒカルの目算の力はあの日一日でどれほど確かなものになったことか。

ヒカルは今プロ試験の本戦を戦っている。

その真剣勝負がヒカルをさらに伸ばしていく。

その一局一局の経験がヒカルをまた成長させるのだ。

ヒカルは着実に目標に向かっている。

 

では、私は?

私だっていろいろ経験を積んで、ヒカルの時代の碁に精通したのだ。

だのに、私は、また時の旅に出るのを控える羽目になった。

2ヶ月?

ああ、でも私は早く行きたい。

ヒカルが試験前に最後に行った碁会所。あの碁会所にも、もう一度行きたい。

 

その碁会所でヒカルは同年齢ぐらいの韓国棋院の研究生、洪秀英と、成り行きから対局をした。

実に面白い拮抗した戦いだった。

目算をきちっとすることを会得したヒカルにとって、あれはまたとない修練の場となった。

ヒカルは自分で行く道を開拓し、一人で突き進む強さをはっきり示した。

予選が終わった時にヒカルの覚悟を心配したのが嘘のようだった。

 

佐為は思い起こすと、また口元をほころばせた。

それにヒカルの対局だけではない。

あの碁会所に、私は一人でしばらく通ったのだ。お金が続く限りだが。

彼らはみな、我々は強いと豪語していたが、あそこは覇気があって、ネット碁のような楽しさがあった。

 

佐為はつと碁盤を引き寄せ、石を置き始めた。

私は韓国や中国で打たれている碁もだが、一番にあの者の碁を研究した。

それはヒカルを鍛えるにもいい刺激となったが、何よりも私自身が刺激を受け実践力をつけた筈だ。

だからこそ、私は一刻も早くあの者と対局したい。私の腕を試したい。

一度でもあの者と打てれば。

その機会は来るのだろうか。

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