ヒカル…秀策について知る。若獅子戦でアキラと対戦。プロ試験へ。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、和谷、伊角、フク、平八、平八妻、筒井、本田、村上、アキラ、導師、門脇、桑原、道玄坂碁会所マスター、河合、市川、緒方、岸本、尹先生、洪秀英のおじさん)
****************
「洪さん。秀英君は頑張ってるようですね。」
「ええ、おかげさまで元気になりました。先日電話が来ましたよ。張り切っています。」
「それは楽しみなことですね。ところで、あの若い人は最近来ませね。」
ヒカルと洪秀英の対局があった翌日から、その碁会所に不思議な男が来店した。
今風の若者に見えるけれど、言葉遣いはとても丁寧だった。
彼は誰とでも打ったが、常に余裕で勝ち、楽しげな微笑を浮かべるのだった。
「私はプロにはならなかったが、囲碁の指導員をしている腕前だ。
でも何度対局しても、彼はこの私に指導碁を打ってるという気がした。
そこで私は一度彼に聞いた。
本気で私と打つなら何子置くかを。」
「それで?」
少し沈黙があった。
「あなたが望むだけどうぞと言われた。」
傍にいた男が言った。
「私は見てたよ。あの時。望むだけと言われてもな。こっちにもプライドはあるよな。
それでもこいつは四子置いたんだ。あの男が必死になるのを見たくて。」
「それで?」
「それでもあの男はいつもと変わらない様子で、三目差で勝った。」
「彼はこの中の誰にも負けたことはないんだ。」
「彼はどういう人なのだろう。プロではない。だが桁外れに強い。あの強さは尋常ではないよ。」
「ああ、なのに誰も彼のことを知らないとは。」
「もしかして、彼が去年騒がれた…。」
「いや、さあ、どうだろう。」
「今度来たら、直接聞いてみればいい。そうなのかどうか。」
その男は一週間ほどで、ぴたっと来なくなった。その後二度とあらわれなかったのだ。
彼はその微笑とともに、その碁会所の中だけで語り継がれる伝説になった。
横で対局しながら、その話を聞いていた一人が呟くように言った。
「その人も強くて、謎で、魅力的な人です。
でも私には進藤君の方に興味がわく。
私は進藤君のほんのしばらく前を知っているから。
あの彼がそれほどの進歩を遂げたということに、そのことに心惹かれる。
塔矢君はだから彼を気にしていたのだろうか。
見抜いていたのだろうか。もしかして進藤君の成長振りを。」
****************
アキラは心の中で呟いていた。
なぜ尹先生は僕と進藤を結びつけるんだ。岸本さんも。
それより、なぜ僕は囲碁部を覗くつもりになったのか。
僕は恐れている?いや、そうじゃない。でも僕は一体何をしているのだろう。
アキラは碁サロンのいつもの場所に落ち着いた。
棋士としての仕事が特にない時はいつもここへ来る。
市川さんがいて、常連の人たちの顔が見える。
いつもの場所、いつもの日常。何も変わりない。
「市ちゃん。若先生来てるね。今日は、指導碁お願いできるかい。」
常連の言葉に市川は首を横に振った。
「でも今日は後で緒方先生がいらっしゃるそうよ。お願いできるわよ。」
「へえ、緒方先生がか。」
市川は物思いにふけるアキラを見た。
あの人のことが気になるのかしら?本当に名前を聞いておけば良かった。
でもなぜアキラ君はあの人のことを気にするのかしら。
そりゃ感じのいい、礼儀正しい人だったけれど…。
アキラは色々振り捨てるように、頭を振り、石を並べ始めた。
緒方が碁サロンを覗いたのはちょうど、そんな時だった。
緒方はアキラがいつもの席にいつものように一人座っているのを見た。
プロになったとはいえ、まだ時間があるのだな。
だがもう間もなく、それほどの時間は取れなくなるだろう。アキラ君の腕ならば。
緒方はテーブルに近づき、アキラが並べている棋譜を見た。
「ネットでsaiと打った棋譜だな。また置いているのかい。それを。」
アキラは顔を上げて緒方を見た。
「確かにsaiは魅力的な打ち手だが。いつまでも捉われていてどうする。
君の周りにはもっと目を向けるべき相手が居ると思うが?
私だったら目の前に居る相手に全力を注ぐよ。」
アキラは返事をせずに、黙って盤面を見つめていた。
アキラはサロンの窓から緒方が駐車場へ向かっていくのを眺めていた。
あの後緒方さんは僕に特に言葉をかけてこなかった。ほっとした。
緒方さんは僕の何を分かっているというのだろう。
今僕がここで棋譜を並べている意味を。
アキラには今二つの影が見えていた。
子どもの頃から考えていたプロの世界。父親の背中を見て育った。
棋士の世界は理解していると思っていた。囲碁を打つ人たちの世界。
それを否定するような人だった。
プロでなくてもプロ以上の碁が打てる?
年齢などどうでも。魅了してやまない碁を打つ不思議な人。
そして、何よりアキラをイライラさせる要因。
それはその人に繋がる進藤。 いや進藤がその人に繋がっていることなのだ。
アキラは思った。
碁のことだけを考えれば、進藤など置いて、あの人を追うべきなのだ。
進藤は弱い、本当に弱い。
一年半前彼と出会った時は碁ではなく、石取りゲームをした。
何故なら、彼はまだ碁を打つところまで行ってなかったからだ。
なのに、何故、棋譜並べが出来る?
そのことにいら立った?
そうじゃない。その時進藤が並べた棋譜が僕の心に引っ掛かった。
その後間もなく彼が大会に出てるのを見て、やはり碁が打てるのかと思った。
けれど、期待に反し、いや思った通りの余りに稚拙な碁だった。初心者のそれ。
僕を振り回し、稚拙な碁を打っていたのに、その彼に追いつくからと言われた。
僕はとても不愉快になった。
碁を知らないからそう言えたのだと思えば、無視すれば済むこと。
僕は今までずっとそうやってきたのに。
何故進藤だけは無視できなかったのだろう。
進藤があの人を知っているから?
いや、今ははっきりわかる。
碁を知らない進藤があの人の碁に魅せられていたからだ。
僕は碁のことだけを考えることにしたのだ。
それは進藤を忘れること、無視することだった。
あの人だけを求めることにしたのだ。
だからその後進藤がどうしていたかなど、ずっと気にならなかった。
若獅子戦の対戦表を見るまでは。
僕はそこに出ているのは、あの進藤ヒカルの筈はないと思い、一方では彼だ、彼に決まっている、彼しか居ないじゃないかと思った。
進藤は僕を真剣に追いかけているのか?
それにしてもあの進藤が院生?
当日、会場でたしかに進藤を見た。しかし僕とあたることはないと思った。
進藤が僕とあたるには村上プロに勝たなければならない。
進藤が村上プロに勝てるとは思えない。
プロ試験を受けた時に院生の実力は大体分かっている。
だが、僕の心には、ぼくは進藤と対戦しなければならないというものがあった。
進藤、君と対局できないとは残念だよ。
僕はどうしても進藤と対戦する必要があるのに。
何故って、それは進藤に直接伝える必要があるからだ。しっかりと。
進藤に君が院生になろうと、僕と並べるわけではないのだと知らしめるためだ。
僕は、自分の対局が終わると、進藤と村上プロの対局を見た。
その碁は、進藤が確かに院生上位に居るという証だった。でも、ただそれだけだった。
進藤が僕の前に座り僕をまっすぐ見た時、何ともいえない気持に襲われた。
僕が彼に腹を立てる理由は何もない。
進藤は僕の頼みを断ったが、断ってはいけないということはないのだから。
それに彼はそのことを後で謝罪したのだ。
そして言った。
僕に追いつき並ぶと。
僕は目の前に座った進藤の顔をじっと見た。
進藤は僕と並べたと、そういう顔をして、目の前にいる、そういうように思えた。
僕は、僕は、ずっと碁の高みを目指して生きてきた。ひたすら。
その僕の人生。
進藤が、ちょこっと碁をやって、この僕に追いつき並ぶ?
僕の横に立つ?
何かとても辛い。僕は嫌だ。
僕は思っていたことをやるだけだった。
彼がどう思おうと勝手だが。僕は僕の考えを伝えるだけだった。
彼程度の腕では、到底僕の傍らに居ることはできない。
そのことをはっきり示すため、僕は格の違いというものをつきつけるしかなかった。
僕は僕のやりきれない感情の全てを石に託した。進藤の謎。あの人の謎。
とにかく僕のプライドにかけて、進藤に僕に追いつくなど簡単にはできないのだと示そうと。
僕は進藤にあらん限りの力でそれを示した。
若獅子戦は終わってみればアキラが優勝した。
そしてそれはそれだけのことだった。