風の石空の夢   作:さびる

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『千早』51~60
ヒカル…秀策について知る。若獅子戦でアキラと対戦。プロ試験へ。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、和谷、伊角、フク、平八、平八妻、筒井、本田、村上、アキラ、導師、門脇、桑原、道玄坂碁会所マスター、河合、市川、緒方、岸本、尹先生、洪秀英のおじさん)


千早60

アキラは盤面に新しく石を置いた。

佐為と、この碁会所で向かいあって打った碁だった。

 

僕はいつかこの碁も越える。越えてみせる。

ひたすら打つ。ただひたすら。僕は後ろを振り返らない。ただ前を見据えるのみ。

進藤がもしプロになれたとしても…。

進藤いいか。それでも、僕はトッププロを、碁の遥かなる高みを目指しているんだ。

たとえ君がプロになっても、プロという言葉だけで並んだと思わないで欲しい。

僕には僕の目指す至高の碁があるのだから。

 

そう思いながらもアキラはまた黙って窓の外を見た。

なんで今日だったのだろう。

 

アキラは盤面を払い、新たに石を置いた。

尹先生が、この棋譜を教えてくれるまで、僕は進藤のことは忘れていた。そう思っていた。

あの若獅子戦で、進藤に見せつけてから、もうこれで僕は先に立つ人だけを見るのだと決めて。

でも、今僕は…。僕は。

 

「塔矢君。プロとして忙しいのは知っているけれど、もし時間が少しでもあったら、囲碁部で少し指導してくれないかな。次の大会に向けて少し活を入れたい。前の大会では海王は全勝で優勝は出来なかった。副将が負けた。大将だった岸本君も今年はもう高等部だ。」

 

尹先生のその頼みをアキラは断り続けていた。

その日もアキラは教室にひとり座って思っていた。

海王は大丈夫ですよ。だって副将が負けたという進藤は今は院生になっているのだから。

もう大会に出てくることはない。だったら何も恐れるものはないでしょう。

 

アキラはそう考えた自分に愕然とした。

僕はいつの間にか進藤を評価しかけている?

いやそれはもちろん限りなく低いレベルでの評価だ。中学の小さな地区予選大会というレベル。

それでも…。

 

そう思った時、なぜかアキラは囲碁部に足を運んでいた。

ただの中学の部活。その小さな地域の大会。

そこで無様な初心者の碁を打っていた中学生。

彼が院生になった。そのことが僕をその気にさせたのだろうか。

アキラが囲碁部を覗くのは二度目だった。

一度目はヒカルの居場所を尹先生に聞くため。

だが結局教えてもらえなかった。

 

尹は岸本と話をしていた。

そういえば、あの時も、僕が進藤の住所を聞きに行った時も、岸本さんが居た。

囲碁部は中高合同で練習しているから居るのだろう。

「いや、色々に事情があるだろう。仕方がないよ。」

尹先生のそういう声が聞こえた。

僕は院生だったことがあるという岸本さんの顔を見た。

プロになるのを諦めた人。

そのクールで知的な表情は、進藤とは全く重ならなかった。

 

岸本さんは院生の時はどんな顔をしていたのだろう。

今と同じような顔つきかな。

僕はそんなおかしなことを考えた。

 

尹はアキラを嬉しそうに見た。

「塔矢君。来てくれたんだね。ありがとう。

でも今日は指導碁よりも何よりも、君に見せたいものがあるよ。

来てくれてよかった。君に連絡を取ろうかと思ってたんだよ。」

そういって尹は、傍にあった碁盤の前に座ると、石を並べ始めた。

アキラは何事かというようにそれを覗きこんだ。

 

「夏休みに、私の行きつけの碁会所にね。

韓国棋院の研究生が親戚を訪ねて来ていたんだ。

その研究生が打った一局だよ。ぜひ見てほしいんだ。」

韓国か。

 

アキラは興味深く見つめた。その一局はかなり高レベルのものだった。

僕の知る院生とは全然レベルが違うような気がするが。

研究生のどのくらいに居る人だろう。

魅力的な碁だった。

 

尹先生と言うのは相当な打ち手なんだ。僕は先生と打ったことも一度もなかったが。

こんな指導者に恵まれているから、海王は強いのか。

「黒が、研究生だよ。」

「白が尹先生?勝ったのですね。」

アキラの言葉に尹は笑った。

「私?いや違うよ。私は見ていただけだよ。」

 

アキラは訝しげに尹を見た。

「すばらしいよ。洪君は。ああ、研究生の名前だよ。

洪君は研究生ではトップクラスらしいが。

でもその洪君の先を行ったんだ。何と進歩が早いのかと思ったよ。

副将戦の時と比べて、びっくりだよ。」

 

アキラは尹の言った言葉の意味を理解できなかった。

そんなアキラをひたと見据えて岸本が説明した。

「白は進藤ヒカルだよ。君が気にしていた。」

尹はアキラに聞いた。

「葉瀬中の進藤君が院生になったのは知ってたかい。」

「ええ、知っています。」

アキラはクールに答えた。

「そうか。知ってたのか。」

「ええ、院生とプロの大会があるので、その時、進藤に会いました。」

 

アキラは何の感情も見せずに答えた。

ただし、自分がヒカルと対局したことは、なぜか言わなかった。

煩わしかった。

尹は自分の思いを、ただ口にしていた。

 

「私は進藤君がうちの副将と打っていたのは、記憶にあるけれどね。

うちの副将もなかなかの打ち手だからね。その彼に勝ったので印象が深い。

それでもあれは中学の大会だ。そのレベルだ。

でもあの時、中学の囲碁部に居た進藤君が今こんな碁を打っている。

ついこの間のことだよ。

人というのは何と成長するのだろうかと、今、私は驚きでいっぱいだ。

塔矢君は進藤君のことを気にかけていたようだけれど、やはり彼のこういう素質を感じていたのかな。

それにしてもどんなに素質があろうと、ここまで打てるようになるにはどれほどの努力があったのかと。

私はそれに思いを致して、本当に頭が下がる思いがしたよ。

進藤君はおそらくそれを苦労に思わないでひたすら頑張って居るのだろうね。

そんな気がする。」

 

碁サロンで、緒方に出会ってから三日後に、研究会があった。

アキラは緒方に会うのを億劫に感じていた。

研究会は何も変わらず、いつもどおりに進んでいた。

アキラはほっとした。

僕は何をいらいらしているのだ。

 

その時だった。緒方がアキラを見た。

アキラは緒方の痛烈な視線を感じたが、顔に何も出さないようにした。

緒方さんはなぜ僕をほっておいてくれないのだろう。

 

そんなアキラにお構いなく、緒方は言った。

「プロというのは腕の差はたいしてない。気迫が物を言う。アキラ君はこのところ物足りない。」

芦原が緒方の言葉に対し言った。

「でもアキラ君は連勝ですよ。ほとんど。

この間倉田に負けたのは惜しかったけど。でも今年はきっと新人賞も連勝記録も取れますよ。

すごい勢いじゃないですか。」

 

緒方はふふんと言う顔をした。

「アキラ君はそんなもの、ちっとも欲しくないんじゃないか。」

アキラは表情を変えなかった。

「僕は、一歩づつ歩むだけです。」

アキラは優等生の答えをした。

それは本心ではあったけれど、今のアキラにはひどく遠い言葉の気がした。

 

「塔矢先生もお感じではないのですか。」

緒方のその言葉に行洋は特に何も答えなかった。

研究会が終わった後、アキラは芦原の誘いを断り、まっすぐ家に戻った。

 

緒方さんはまだ僕がsaiのことだけを気にかけていると思っている。

それはそれで構わないけれど。

確かに、あの人のことは気になるから。

あの人はプロでないのにプロ以上に強く、魅惑的な碁を打つ人で、謎だ。

でもわかることもある。

あの人は、きっと僕のように碁を小さい頃からやっていて、その目指す先は同じなんだ。

僕と同類の人だと思う。

 

アキラはパソコンを立ち上げながら思った。

でも進藤は違う。

彼は何を目指して碁を打っているんだろう。

棋院のホームページには、プロ試験の結果が出ていた。

 

進藤は六連勝している。

ここまで。27戦のうちの6勝に過ぎないが、それでも、まだ負けていないのだ。

例えこれまでの相手がさほど強くなかったとしても。

今、進藤はこの棋譜からどのくらい進んだところにいるのだろうか。

アキラはヒカルのスピードを計りかねて、戸惑ったようぬ眉根を寄せた。

知りたい。

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