プロ試験からヒカル新初段戦まで。行洋vs佐為、緒方vs佐為。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、行洋、明子、緒方、アキラ、越智、伊角、本田、和谷、森下、座間、白川、篠田、正夫、美津子、タマ子先生、河合、道玄坂マスター、天野)
ヒカルのプロ試験は三分の一近く過ぎていた。
この間(かん)、ヒカルは可能な限り佐為のもとに通い、打てるだけ打ち続けた。
一人で居る時も、ヒカルは使えるだけの時間を使って、棋譜を並べ続けているという。
ヒカルはそれを努力だとか苦痛だとか思わず、ひたすら塔矢アキラを目標に励んでいる。
そうして、ヒカルは進化し続けている。
それを目の当たりにして、佐為も気持が鼓舞していた。
だから私は早くヒカルの時代へ行きたいという、はやる心を抑え切れなかった。
それで今日ヒカルの時代へ行った。
何故今日だったのか、それは運命だったに違いない。
佐為はそう思って、今日の経験を反芻するように目を閉じた。
朝方、目覚めると、佐為はいつになく体が軽かったのだ。
熱っぽさも全くなく、気分がすこぶる良かった。
そこで佐為は試してみることにしたのだ。
変わりのない時の旅だった。
ヒカルの部屋も何も変わりがなかった。
見慣れたカーテン、ベッド、机、それに碁盤。私の服もそのまま。
引き出しには、きちんと小遣いが貯められ、鍵も置いてあった。
佐為は早速着替え、支度を整えると、外出した。
どこへ行く?
あの強者の多かった碁会所へ?それとも棋院へ?
いや、今日は歩ける範囲で。
そう決めると、佐為の足は自然と碁サロンへと向っていた。
体が軽いと気持も明るくなる。
もしかしたら私と打ちたいという塔矢アキラとまた会えるかもしれない。そう思えた。
いや居なくても、約束を取り付けることは出来よう。
佐為は碁サロンのドアを押して入った。
中は明るかったが、がらんとしていた。
「ここは今日は午前中は休みですよ。」
空調をチェックしていた男が言った。
佐為はひどくがっかりして外に出ようとした。
窓際で二人の男が書類に目を通していた。
その内の一人が顔を上げ、佐為が、がっかりした様子で出て行くのを目に留め、その背に声をかけた。
「折角来て下さったのだ。よろしければ、一局お相手しよう。」
その声に佐為は、はっとして振り向いた。
目の先に、塔矢行洋がいた。
佐為は胸を弾ませた。
「お願いいたします。」
そう頭を下げつつ、佐為は自分の幸運を噛み締めた。
石が私を導いてくれたのか?それとも、私の勘がここへ導いたのか。
どちらにしても時の旅の定めだ。運は私に味方している。
行洋は佐為を奥の席に案内して、慣れた様子で尋ねた。
「何子がよろしいですかな。」
「出来れば互戦で。コミは5目半でお願いします。」
佐為は当然の条件を申し出ただけだった。
あなたと私が打つならこれしかないではありませんか。
そう言った私をあの者は値踏みするようにじっと見た。
やがて私が冗談を言っているのではないと理解すると一言、言った。
「お望みどおりに。」
それ以上、あの者は余計な口はたたかなかった。
あの者が握り、私の先手で対局は始まった。
私は念願の相手を前に第一手を置いたのだ。
右上スミ小目に。
そこまで思い起こして佐為は深いため息をついた。
この得がたい運命を、体験を誰にも話さないでいるなどできない。
何時まで我慢できるというのか。
だが導師に言えば、次はない。私が時の旅に出ぬようにと、四六時中見張るに違いない。
ヒカルしかいない。ああ、今日の私のすばらしい体験を早くヒカルに聞かせたいものだ。
そのヒカルはいつもの時刻に佐為の前に現れた。
しかし常になく深刻な面持ちをしていた。
佐為は自分が話したいのをやっとのことで抑えて、ヒカルに尋ねた。
「何かあったのか?」
ヒカルはこっくりとしたが、なかなか口を開かなかった。
ヒカルは負けただけなら、こうはならない筈だが。
不審に思いながらも、佐為は辛抱強く待った。
やっと決心がついたらしく、ヒカルは重い口を開いた。
「俺、昨日は伊角さんとの対局だったんだ。」
そうだった。ヒカルはプロ試験前の院生対局では、伊角さんに負けたのでプロ試験では絶対に雪辱を果たすと張り切っていた。
ヒカルは、とつとつと対局譜を並べ始めた。
あるところで石を置くヒカルの指が止まった。
佐為はそれを見て考えた。
ここまででは相手の方が優勢だ。ヒカルは劣勢。もう負けを覚悟していた?
いや、ヒカルのことだ。きっとこの後の逆転の手を考えていたに違いない。それが失敗したのか?
しかしヒカルの言葉は意外だった。
「本当は…」
そう言ってヒカルは言葉をとぎらせた。
「この一手は本当は。ここに置いた筈なんだよ。伊角さん。右じゃなくて左に。」
佐為はヒカルの言っている意味が飲み込めなかった。
何故左に?左に置くことに何の意味が?
「アテ間違えたんだよ。」
ぶっきら棒にヒカルは言い放った。
「それでさ、ハガシをしてここに打ち直したんだよ。」
「確かですか?」
ヒカルは下を向いたままだった。
「もしかしたら指は離れてなかったのかもしれない。そうも思ったよ。
でも俺は祈ったんだ。伊角さんはアテ間違えをして、ハガシの反則をした。
俺がそれを指摘すれば伊角さんは反則負け、俺の勝だって。」
「そうはならなかった?」
佐為の問いかけに答えるのではなく、ヒカルはただ続けた。
「どうしても勝ちたかった。ここまで全勝できたんだ。越智も和谷も伊角さんだって全勝してるんだよ。伊角さんとのこの一局は俺にとって、すごく大切なものだったから。だから伊角さんに言おうと思った。今のハガシだよねって。俺の勝だって。」
「ヒカル?」
「だけど俺が言う寸前で、伊角さんは投了した…。」
佐為は惨めに俯いているヒカルをじっと見つめていた。
「俺、何てやつなんだろうって…。白星が欲しくて。ただ勝てばいいって考えてた。俺、このことが頭を離れなくて、ずっと…」
佐為は静かに尋ねた。
「それで、ヒカル。相手が反則を犯したかどうかはともかく。
それはこの対局ではそもそも相手の問題です。
ヒカルもそう思っている。それは自分が指摘する問題ではないと。
ヒカルはその前の時点ではもう、当然こう置かれると思っていた筈。
では、この手から先をどう打つつもりだったのか?あなたは当然対策を考えていたと思うが。」
ヒカルは頷いた。
「伊角さんは当然ここに置くと思っていたよ。だから逆転の手をずっと考えていたんだ。もしかしたら逆転できたかもしれない。でももしかしたらうまくいかないかもしれない…。だから俺…。反則勝ちにしがみついたんだ。」
佐為は軽く笑みを浮かべた。
大丈夫、ヒカルは立ち直る余地は充分にある。
「ヒカル。この一局打ち切ってみましょう。あなたの考えていた手がどれくらい有効かどうか。そうして先に進むのです。」
佐為とヒカルはその一局を打ち切った。
「俺、間違えさえしなければ勝てたんだ。」
ヒカルはほっとしたように言った。
「あなたの逆転の一手は斬新です。筋はここですけどね、それでは劣勢は覆せない。負けます。」
ヒカルは晴れ晴れとした顔をした。
「俺、自分を信じられなくて、反則勝ちにしがみついたんだ。そのことばっかりが頭に浮かんで、自分がやになった。
伊角さんは結局潔く投了したって言うのに。あれほど嫌な白星はなかったんだ。
ああ、でも今日逆転の手を試してみて嬉しい白星になった。」
それからヒカルはさらっと言った。
「今日負けちゃったんだ。集中できなくて。俺、本当に馬鹿だ。勝負には相手がどうかじゃなくて自分がどうかってことしかないのにさ。」
ヒカルはもう大丈夫だ。でもヒカルはまだ精神的に弱い部分がある。
私もかつては弱かった。虎次郎との時の旅で鍛えられるまでは。
自分に落ち度がないのに責め立てられると、それだけで気持が落ち込んでしまって。
何もかも嫌になってしまうことがあった。
ヒカルも随分と強くはなったが。
少なくもプロ試験が終わるまでは、私の経験を話すのはよそう。
たとえすばらしいことでも、ヒカルの集中を乱すのはまずい。
ヒカルがあとでこの話を聞いたら、どう思うでしょう。
それを考えるのも楽しみですよ。
そう思うと口の端に自ずと笑みが浮かんだ。
ヒカルは佐為の微妙な変化を見逃さなかった。
「佐為、どうかした?」
「いえ、今日は朝から体調がずっと良いんですよ。それにヒカルが立ち直ったのも嬉しい。」
佐為はそう言った。それは事実だったから。
ヒカルはそれを聞いて、嬉し気に笑った。
「俺思ってたよ。佐為はちょっと休んでればすぐ良くなるってさ。」