プロ試験からヒカル新初段戦まで。行洋vs佐為、緒方vs佐為。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、行洋、明子、緒方、アキラ、越智、伊角、本田、和谷、森下、座間、白川、篠田、正夫、美津子、タマ子先生、河合、道玄坂マスター、天野)
行洋のその日は普段と変わりなく始まった。
いつものようにアキラと朝の一局を打った。そのアキラは朝食が済むとすぐに出かけた。
仕事がオフの日の常としては、行洋は碁盤に向っていた。
その碁盤には石は置かれていなかった。だが行洋は盤面に石の並びをずっと見ていた。
頭に浮かぶそれを。一昨日の碁サロンでの一局。
あの男は約束どおり来るだろうか。
いや来ないという事はない。絶対に来る。
何故なら、彼は私の碁をよく研究していたから。
「何子がよろしいですかな。」
「出来れば互戦で。コミは5目半で。」
行洋にはその時のやり取りが思い出された。
私と互角で自分の腕を試したいというアマはたまにではあるが、居るには居る。
あの男は違った。
腕試しなどではない。当然の申し出だったのだ。
あの時は小一時間にも満たない対局だった。
結果は…。その先、あの男が間違わなければ当然私の負けだった。
そしてあの男は間違わない。私にはそれが分かっていた。
「私の負けですな。今日は時間がないので、改めてゆっくりあなたと打ち合いたい。」
「喜んで。」
あの者は心底悦ばしげに私の申し出に応じたのだ。
私が今日を指定すると、軽く頷いた。
「場所はここでよろしいのでしょうか。」
碁サロンでは私は好き勝手に長時間ゆっくりとは打てない。そこで私は自宅の場所を伝えた。
あの男の名前も聞かなかった。
この次勝ったあかつきに、名前はもちろん、彼のことをすべて聞こう。そう思ったからだ。
つまり今日、私は彼の名前を知ることになるわけだ。私が勝って名前と素性を聞く。
思いにふけっている行洋の耳に玄関からの話し声が聞こえた。
来たな。名前を知るべき相手が。
間もなく、佐為が明子に案内されて現れた。
「早く着き過ぎたでしょうか。電車の時刻表が分からなかったので少し早めに出たものですから。」
「いえ、構いませんよ。よく来られた。」
佐為は嬉しそうに答えた。
「一日寝過ごして間違えたらどうしようかと思いました。今日はとても楽しみです。」
この男は全く気負いがないのか、緊張している様子がない。
そう思いながら、行洋は言った。
「私も楽しみにしていた。今日も前回と同じ条件で。今日は半日空けてありますから、ゆっくり打てますな。」
佐為は通された座敷がひどく気に入った。
この者が真摯に打ち続ける碁の匂いがする。
そう、あの幽玄の間で感じた空気と同じものだ。
この者からは何とも言えない気が流れ出ていて、それがこの部屋を満たしているのだ。
この者は普段でもそれをまとっているのだろうか。常に人に隙を見せない。
邸の中ですらそうなのか。
先日の対局は、お互いに小手調べの感のあるものだったが。
私は対等な相手と、これから思う存分打ち合うのだ。
そう思うと、身を震わすような喜びが佐為の全身を覆っていった。
時の旅の意味が今、この碁盤に示されるのだ。
二人の間に流れる空気は静かだが、気迫に満ちたものだった。
明子は時計を見た。
もう1時を過ぎているけれど、お昼を出さなくても良いものかしら。
夫は放って置いてくれと言った。
夫は食事など取らないに違いないから良いけれど、相手はどうなのだろう。
9時前に来てそれっきり二人は座敷に篭ったままだ。
ポットに入れたお茶は置いておいたけれど。
今朝、アキラが出かけた後、夫は突然に言ったのだ。
「これから人が尋ねてくる。来たら座敷に通してくれ。お前はいなくてもいいから。」
突然の来客があるのはこの家では珍しいことではないが。
「何と仰る方?」
「名前?名前は聞かないで構わない。」
その言葉だけではない。
普段どおりに見える夫の振る舞いの中に何か常と異なるものを感じた。
そんなことは滅多にないのに、ピリピリした雰囲気がしたのだ。
一体どんな人が何の用事で訪ねてくるのか、名前も聞かないでいいなんてと、明子は少々心配した。
玄関に現れたのは物柔らかで優しげな若い男だった。
明子にはすぐにぴんと来た。
夫と碁を打ちにきたのだ。長年プロ棋士の傍にいると感じることのできる、碁を打つ人間特有の匂いがした。
門下生たちとは全く違うけれど、明子はその男になんとはなしの親しみのようなものを感じた。
どこかで会ったことがあるような。
しばらくして思い当たった。
そうだわ。夫だわ。見た目は全く違うけれどなぜかそっくりな感じがするわ。
3時近くになった頃、明子は決心して、お茶と簡単に食べられるものを用意し、そっとふすまを開けた。
空気が緩んでいる。
夫の相手をしていた男は、お茶を出されると、微笑んで軽く会釈した。
夫からは、今朝のぎこちなさが消え失せていた。
お茶を置く明子を見て、行洋は軽く頷いた。
何かとてもいい雰囲気だと感じながら明子はほっとした気持で部屋を出た。
お茶を口に運びながら行洋は、不思議の感に打たれていた。
私はいやしくもプロで、名人で、四冠だ。
国際棋戦でも他の国の強豪と競って決して引けを取らないと自負している。
その私が僅差とはいえ負けたのだ。今まで一度として噂を聞いたこともない若者と対局して。
それも2回も。
もっと驚いてもいいのに、なぜ、私は驚かないのだろうか。
いやそれより、私は今、とても心が弾んでいる。
行洋はその思いのまま、自然に口にしていた。
「私には自負がありましたよ。
現状では確かに日本は他国に押されてはいるが、それでも私はプロだと。
日本で四冠を抱くプロだと。」
佐為は対等の対局相手というだけではなく、行洋の率直な人となりにひどく好感を抱いた。
「当然です。塔矢先生。あなたはすばらしい方だ。まさに四冠にふさわしい。力だけでなくお人柄もですよ。そう思います。
たまたま私は今回あなたに勝てましたが、あなたと対局をするという、すばらしい経験が出来てとても嬉しく感じています。」
行洋は聞きたいと思っていたこととは別のことを聞いていた。
「あなたは、一昨日碁サロンへいらしたが、前にもいらしたことがあるのですか。」
「はい。かなり前ですが一度だけ。幸運に恵まれて、あなたにお会いできればとそう思って覗いたことがあります。そのときはたまたまいらしたご子息のアキラさんにお相手していただきました。」
アキラはそのことを口にしたことがない。勝敗は自明だが、この男はアキラ相手にどのような碁を打ったのだろう。アキラはどう思ったのだろう。
「アキラと、息子とまた打ちたいと願っておられますか?」
佐為はその問いに少し間をおいて答えた。
「あの時、対局して噂にたがわず、すばらしい力を持つ方だと思いました。対局していてとても楽しかった。
アキラさんはすばらしい打ち手になると思いましたよ。
もちろん今でもすばらしいですが、さらに飛躍していく方だと。
ですから、アキラさんが私と打って下さるというなら喜んで、お相手させていただきますが。
ただ私はいつか、あなたと打てたらとずっと願っておりました。
一昨日、私のその願いが叶ったのです。これほど嬉しいことはありません。」
それから佐為は付け加えた。
「アキラさんには、アキラさんと打ちたいと願う相手がいると思います。
互いを切磋琢磨できる。共に磨きあっていける、そういう相手です。」
行洋は言った。
「アキラにそのような切磋琢磨し合えるような相手が居れば一番望ましいことだ。
あなたのいうことは、国際大会に出るというようなことを意味しているのですかな。
今の日本には残念だがそういう意味でアキラの相手になるものはいない。そう思っている。
もっともこの先も現れないと断言することは出来ないが。だが、私はアキラは特別だと思っているのです。」
佐為は少し微笑んだ。
「私もアキラさんは特別だと感じました。
私は他のプロの方々がどのくらいの力を持っているのかなどは存じませんし。
あなたがそう仰るなら、現状はそうなのでしょう。
そうするとアキラさんには少々面白くない状況ですね。
でも今あなたはこの先のことは断言できないと仰った。
ですから申し上げるのですが。
私は一人の優れた才能を知っています。その才能にも偶然に出会えたのです。
今のところ彼は技術も経験もアキラさんには、はるかに劣るでしょう。
ただし今はです。彼はすぐにアキラさんに追いつくと思います。
彼は今ひたすら励んでますよ。そして恐るべきスピードで成長しています。
アキラさんを目標に、彼に追いつくことを目指して。
私は二人が良いライバルになることを願っています。
アキラさんはもしかしたら彼の足音が背後から聞こえてくるのを感じているのではと思っていますが、どうでしょうか。」
行洋は少し驚いて言った。
「そのような者がいると?疑うわけではない。
あなたもプロではないが素晴らしい腕前の持ち主だ。
私は一昨日初めてあなたを知ったのだから、あなたが言われるような者がいてもおかしくないと今は思いますが。
それで、その者とは?あなたはアキラが感じているといったが、その者とアキラは、打ったことがあるのですかな。」
佐為は頷いた。
「名前は、進藤ヒカル。アキラさんと同い年で、院生です。今プロ試験を戦っています。」
それから楽しそうに付け加えた。
「実は、この前の若獅子戦でアキラさんと対局して無残な敗北を喫しました。」
行洋は不思議そうに聞いた。
「あなたは今無残な敗北と言ったが、その言葉を実に楽しげに口にした。何かわけでも?」
「それはアキラさんがヒカルのことを意識していた結果だと考えるからです。
そしてその対局はヒカルを発奮させました。
ヒカルが、彼がその本領を発揮するようになれば、本当に楽しみです。
そして私は信じています。自分の腕と同じように進藤ヒカルの成長を。」
「私も期待したい。」
そう言ってから、行洋はじっと考えこんだ。
今の話、信じがたい気もするが、アキラの性格からすると、あり得ない事ではない。
そこまでアキラをその気にさせたというその院生に会ってみたいものだ。
行洋が黙って考え込んでいる間、佐為は食事をぱくついていた。
行洋殿の奥方は料理の腕が立つ。ヒカルのお母上も料理上手だ。
そうなると、虎次郎の奥方の料理が食べられなかったのは返す返すも残念だった。
そんなことを考えながら。
行洋はおいしそうに食事をしている佐為を眺めた。
率直で真っ直ぐな良い人間のように思えた。
だが佐為のことをどう考えていいのか正直戸惑っていた。
目の前にいる人間の存在がまず現実とは思えないのだ。
この者はプロでないのに私と対等な腕前の持ち主だ。
それだけの棋力を持ちながら、今まで誰の口にも上らなかったのだ。
その上、この男は、アキラのライバルになれるような子どもがいるというのだ。
佐為が箸を置くのを見ながら、行洋は言った。
「アキラのことはひとまずおいておいて。
私は、碁会所のようなところで出会う人に負けるなどとは考えたことはなかった。
あなたは初めから私に勝てると思われていたのか。」
佐為は首を横に振った。
「いえ、ただ私はきっとあなたと互角には渡り合えるのではと、そう在りたいと願っておりました。
あなたの対局譜を随分と研究させていただきました。
準備怠りなくしていた時に、お会いできたのはまたとない幸運でした。」
「あなたとはもう一度雪辱を期したい、またお相手を願えますか。いや、一度とはいわない、この先もあなたとは何局も打ち合えたらと願ってますよ。私は今回本当に久々に心が躍る対局ができた。」
「ありがとうございます。あなたのその言葉ほど嬉しいものは私にはありません。」
佐為は胸を弾ませて答えた。
行洋は佐為にどのように勉強したのか、何故プロにならなかったのか、そう尋ねたかったが、そうしなかった。
私にも意地がある。いや、この者となら、意地を張り合う必要もないかもしれないが。
この者は何でも答えてくれよう。何も隠している風がない。
それでも次の機会にしよう。次はもっと準備怠りなく打ち合う。
この男が私の碁を研究してきたと言うなら、私もまた、その程度の準備をしておきたい。
「普段は、あなたはどこで碁を打たれるのですか。」
「はい。ヒカルと打つ以外でしたら、碁会所で。それとネット碁です。
もっともパソコンを持ってないので、いつでもというわけにはいかないのですが。」
それから付け加えた。
「少々前の話ですが、アキラさんとネット碁でも対局したことがありますよ。」
そうか。この男がアキラが負けたという…。
「ではsaiと言うのはあなたのことですか?」
「ご存知でしたか。私は佐為と言う名前なので、ネット碁でもそれをそのまま使っています。」
そうか、この男の名前はサイというのか。崔と書くのかな?まあ、それは良いとして。
「ところでサイさん、次ですが実は私は近々タイトル戦を控えている。あなたと対局するのはそれが終わった後、 少々先になってしまいますが、よろしいですか?」
「それはもちろんです。あなたは四冠でいらっしゃる。とてもお忙しい方だと伺っています。
あなたのご都合のつく時で結構です。
私はあなたと打てさえすればそれだけでいいのです。何も条件はありません。
それに私も。あとひと月もすれば、ヒカルのプロ試験の結果も分かると思いますし。気持が落ち着きます。」
行洋は尋ねた。
「サイさん。あなたに伺いたいことは山ほどありますが、この次にでもじっくりお話したい。」
「私が答えられることでしたら何なりとお話しましょう。」
「あなたはそのヒカル君を指導されているのですな。」
「はい。囲碁に関しては、私はヒカルの師匠のつもりでいます。
ヒカルに初めて会ったのは、あなたとこうして巡り会えたように偶然ですが。いえ、あなたと巡り会えたように必然と言うべきかも知れません。運命かも。」
佐為は微笑を浮かべ話した。
「彼は私がたまたま知り合いと打っていた碁を隣で見ていただけで即座に並べなおすことが出来たのです。
まだ碁について殆ど何も知らない時にですよ。石取りゲームすらしていなかった時に。
それを知って私は決めたのです。彼の天分を開かせたいと。
それは私に課せられたもう一つの使命であると。」
行洋は聞いた。
「もう一つと言うからには、あなたには、ほかにも使命があるのですな?」
佐為はにっこりとした。
「はい。私の使命は神の一手に近づくことです。碁を極めたい。私の命が続く限り。
そのために定めを貰っているのです。私は。
そしてその使命を果たすべく、私はあなたとこうして対局しているのです。」
その言葉は行洋の胸にこだました。
間もなく佐為は帰っていった。
佐為が去った後、行洋はまだ碁盤の前を動かずにいた。
彼は不思議な人物だ。だが、私には分かる。彼は私と同じ種類の人間なのだ。
行洋の心には佐為の言葉が繰り返し響いていた。
神の一手に近づくこと。碁を極めたい。命が続く限り。それが定め。
その彼が私と対局する定めにあると言っているのだ。
次の対局、私は出来うる限りの準備をして望もう。
神の一手に近づくというその定めに対し、失礼のないように。
とにかく次の対局が待ち遠しいと、行洋は子どもの様に楽しそうな表情を浮かべた。