風の石空の夢   作:さびる

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『春霞』61~70
プロ試験からヒカル新初段戦まで。行洋vs佐為、緒方vs佐為。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、行洋、明子、緒方、アキラ、越智、伊角、本田、和谷、森下、座間、白川、篠田、正夫、美津子、タマ子先生、河合、道玄坂マスター、天野)



春霞 63

パソコンを立ち上げるたび、ネット碁のサイトに立ち寄り、saiの名前を探すのは、緒方には、ほぼ習慣のようになっていた。

もうsaiの名前を見ることがなくなってから、随分立つ。

最後の相手はアキラ君か…。

アキラには、興味がない風を装ってはいたが、緒方はsaiに並々ならぬ関心を持っていた。

アキラのはもちろんのこと、その他にも自分の見た、これはというsai の棋譜をいくつか検討してきた。

ネット上で、打った人間がsaiとの棋譜を公開しているものも幾つか集めた。

 

だがとにかく俺は、sai と打つ機会を逃したのだ。もう二度と現れないだろう。

それが悔しくも惜しくもあった。

saiというのは一体どんな爺さんなのか。もしかして、くたばったんじゃないだろうな。

 

その日、ネット碁に立ち寄った緒方の目は、saiという文字に吸い寄せられた。

碁を少しばかりかじった相手と打っているが、これは確かに例のsaiだ。

間違いない。

爺さん。くたばってなかったんだな。

いや、俺と打つために現れた亡霊かもしれんぞ。

 

その対局が終わるとすぐに、緒方は対局を申し込んだ。

幸い邪魔する者もなくsaiは、緒方のオファーにすぐ応じてきた。

緒方は千載一遇のチャンスに心を躍らせた。

やっとそのチャンスが来たのだ。俺の力を全て叩き込む。

俺にふさわしい油断ならない相手だからな。

緒方は椅子をひいて、居住まいをただし、くっと画面を睨んだ。

 

それが昨日のことだった。

昨日の今日に、手合というのもしんどい事だが。

だが俺は昨日の一局で何かとてつもなく力を得た気がしている。

緒方は昨日以来、高揚した気持を抑えることが出来なかった。

saiとの一局は実にすばらしいものだった。

あの厳しい雰囲気。俺をひたと見据える指先を感じた。

その指先に俺の思考は呼応し続けた。

爺さんの頭の中が見えるようだった。

自分でも最高の部類の碁が打てた。

やはりsai は歴戦を戦い抜いた人間だ。アキラ君では経験不足だ。

 

俺も良く粘れたもんだ。中盤でのあの手をかわせた…。

俺は考えていることをすぐに顔に出す癖があるからな。

ネット碁で本当に良かった。

saiが、あの嫌味な本因坊のじじいみたいな奴でないことを祈りたい。

 

本来ならば昨日の対局を誰かと検討したい。

誰かとはもちろん対局者同士、saiとだ。

しかしsaiはまず、チャットはしない。だがごく稀に返事を返すことはある。

爺さん、もしやアルファベットが苦手なのかもな。

緒方はくっくと笑った。

検討はとにかく、また打ってくれるかどうか、俺は尋ねた。

 

返事は来たぞ。saiにしては長い返事だ。

 

あなたのような方と打てて楽しかった。機会があればまた、いつかお相手願いたい。

 

その日、八段の相手をあっさりねじ伏せた緒方は、駐車場に向かおうとしていた。

saiが自分を認めている、そのことが緒方の気分を良いものにしていた。

玄関を出ようとしたところで、緒方は呼び止められた。

行洋が声をかけてきたのだ。

 

「緒方君、折り入って頼みがあるのだが。」

先生が俺に頼みとは? まあ気分もいいし。

「何ですか?」

「君はネット碁をやっているのだろう?」

「はい、時折気晴らしに。」

「以前君が言っていたアキラが負けたという一局を教えてもらえないだろうか。」

 

緒方は口をあんぐりあけた。よりによって昨日の今日だ。

なぜsaiの話を?

 

緒方君は、もう少し相手に気持を覗かせないように訓練した方がいいかもしれないな。

これは緒方君の一番の弱点かもしれない。

行洋は、緒方の様子を見ながら、なぜか突然、そんなとっぴな考えが頭に浮かんだ。

 

「先生、どうしてまた?」

「いや、アキラが負けた一局に少々興味が出てきたのだ。

それとアキラと対局したその相手の、他の棋譜も、もし知っていたら教えて欲しいのだが。」

 

緒方は行洋の顔をじっと見つめた。

目の前の男は何を考えているのか?

行洋の顔には何も手がかりとなるものは浮かんでいなかった。

 

負けた一局に少々興味が?

塔矢行洋も人の親という事なのだろうか。

やはり最近息子が、なんとなく様子がおかしいと感じているのか。

それはsaiのせいかどうかは分からないが、アキラ君の変化に気づくものはそうはいまい。

なぜなら手合ではアキラ君は殆ど勝ち続けているからな。高段者の列にずかずかと切り込んでいる。

先生は一緒にいても囲碁のことしか頭にないのではないかと思っていたが、さすが親だということかな。

いや待てよ。

だとしたら何故saiのほかの棋譜も知りたがる。

何を考えているのだろう。

もしかして俺とsaiの昨日の対局のことを誰かに聞いたのか?

さてどうしたものか。

俺は、俺の知っているsaiの棋譜をたとえ師匠だとしても見せる気にはならない。

昨日対局していなければ話は違っていたかもしれないが、昨日対局してからは俺はsaiと対局する意味を感じた。

俺はsaiに力を貰った気がしているのだ。

俺は今戦っているリーグ戦で挑戦権を得れば、この塔矢行洋とタイトルを争うことになるのだぞ。

俺は知っている。門下になってもう十数年経つんだ。

塔矢行洋は油断がならない。

何を考えているのか、分からないことがある。

囲碁に関してはどんな相手にも容赦はしない男だ。

 

それでも塔矢行洋とsaiの棋譜を検討するまたとないチャンスでもある。

 

緒方は言った。

「アキラ君は自分が打った棋譜を先生に教えないのですか?」

「いや。アキラには何となく聞く気になれなくてね。聞きそびれてしまった。」

「先生も親なんですね。アキラ君の打った棋譜なら知っていますので、いつでも教えて差し上げられますよ。今でもよろしいですよ。」

緒方は棋院へ戻り事務室を覗いた。

「ちょっと碁盤を貸してほしいのだけど。」

事務室の隅で、緒方が石を並べるのを行洋はじっと見つめていた。

あの者の思考が読めるようだ。アキラも随分頑張ってはいるが。

「先生はどう思われます。saiは指導碁を打ってるのですかね。」

「緒方君もそうおもうかね。それでもアキラもこのあたりなど随分押している。ここは相手も少し苦しかったのではないかとも思えるよ。」

 

並べ終わった石を片付けながら緒方は言った。

「先生のお考えが分かって今の棋譜に改めて刺激を受けましたが。

先生はsaiに関心がおありなのですか?日本かどうか分かりませんが、どこかのプロか、かつ てプロとして名を馳せた誰かだとお思いですか。

saiの対局は何度か見ましたが、ずぶの素人のような者とも随分打っていますし。

私もそんなにいつもネット碁を覗いている訳ではないので。アキラ君の棋譜以外でめぼしいものはあまり。お役に立てなくてすみません。」

行洋はそうかというように頷いた。

「いや、緒方君。時間を取らせて悪かったね。アキラの棋譜だけでも教えてもらえて良かったよ。ありがとう。」

 

緒方は行洋に会釈して事務室を出た。

 

アキラの棋譜だけでも教えてもらえてだと?

いつもの塔矢行洋ならもっと率直だ。自分に自信があるからな。

何かsai について知っていることは無いかと、聞くくらいのことはするだろうに。

一体何をたくらんでるんだろう。

もしかして、saiに心当たりでもあるのか。

緒方は疑心暗鬼で帰路に着いた。

 

行洋は緒方を見送っていた。

緒方君はなにかsaiにわだかまりがあるのだろうか。

いや、私が回りくどいことをしているのだな。やはり、自分が打った二局が一番大切なのだ。

それからふと思い出した。

サイの弟子はどうなったか。

 

行洋は事務職員に尋ねた。

「どうかね。今年のプロ試験は。」

「はい。昨年の塔矢アキラさんほどの傑出した子はいなさそうですが。

これをご覧ください。

今のところ全勝が一人、一敗が二人、三敗、四敗も数人いて、かなりの激戦です。」

行洋は職員の示した成績表をちらと見た。

進藤ヒカル、一敗か。確かに存在するようだ。

「邪魔をした。」と挨拶して出ようとする行洋に職員が言った。

「塔矢先生。今さっきのお話ですけれど。緒方先生と話されていたネット碁の話ですよ。」

 

プロ試験は中盤に向っていた。

和谷は越智に一敗したが一敗を守っていた。

ヒカルも佐為と伊角との一局を打ち切ってからは調子を取り戻していた。

その和谷が暗い顔をしてヒカルに言った。

「伊角さん。今日も負けたよ。フクに。」

それはヒカルにも胸の痛む状態だった。

フクも強い。独特の勘がある。それでも今まで伊角はフク には負けたことは無かった。

俺が声をかけるべきなのだろうか?

でもそんなことをしても何もならないだろう。

伊角さんも俺と同じなんだ。自分自身と戦っているのだ から。

でも俺には佐為がいてくれたけれど、伊角さんには…。

 

越智は、全勝でプロ試験に合格するというその目標に向かってただひとり 勝ち続けていた。

進藤はフクに負けた。和谷は僕に負けた。

そして僕が一番気にかけていた伊角さんは進藤に負けて以来、三連敗している。

 

それにしても進藤に躓くだって?僕は絶対進藤には勝つさ。

院生対局で僕は一度も進藤に負けたことがないんだから。

越智はそれから声に出して腹立たしそうに呟いた。

 

「なのにあの塔矢の奴。一体なんだっていうんだ。

何しに僕の前に現れたんだ。塔矢はただ進藤のことを知りたかっただけなんだ。

たった一年、先にプロになったというだけなのに。なんて嫌な奴だろう。」

対局時間が来て、越智は伊角の前に座った。

越智はアキラのことをまた思い出し、むしゃくしゃした気持ちがおさまらないまま、辛らつな口調で言った。

「伊角さん、昨日はフクにまで負けたんだね。正直がっかりだよ。

僕の一番のハードルは伊角さんだと思ってたのに。進藤なんかに躓いて調子を崩すなんてさ。

まあ、おかげで僕の全勝合格は楽になったけどね。」

 

伊角はその言葉に越智をにらみつけた。

そして凄みのある口調で、一言、越智の言葉をさえぎった。

「黙れ!」

越智の言葉はハガシをして投了して以来、ズタズタになっていた伊角の心に火をつけたのだ。

伊角はやりどころのないもの全てを盤面に叩きつけた。

越智が強いことは認めるが、俺は越智に叶わないなどと思ったことは一度もない!

 

伊角は徹底的に攻め尽した。それでもふだん通りに冷静な手が打てていた。

この一局で俺はもう一度、自分に対する自信を取り戻す。

相手が強敵かどうかを恐れるんじゃなくて、自分が持つ力を信じて戦う。

俺の碁が俺を支えているんだ。

 

負けましたという越智の声とともに、伊角は初めて、周りを見回した。

伊角の周りには人垣ができていた。

「伊角さん、復活だな。」

そういう和谷の顔を久しぶりに見た気がする。

そして進藤の顔も。

「まだプロ試験は終わってないさ。これからだ。俺もお前も。」

そういうと、進藤は力強く頷いてくれた。

 

越智は自分の一敗という事態に愕然としていた。

僕の言った言葉が伊角さんに火をつけた。

そのことが分かっていた。

でも僕の言葉の何がそれほどまでに?

 

それから越智はトイレでぶつぶつと一人検討を繰り返した。

ここだ。白につけられた時、はねたのが軽率だったんだ。

あそこでヒイていれば。そうすれば白はあんなに楽にさばけなかった筈。

そうだ。これでいい。次は負けないぞ。この次はっ!

 

トイレから出て帰ろうとした時、伊角と出会った。

「越智。進藤がどれほどの打ち手かは、お前自身で確かめろ。」

何で進藤?みんなが進藤は強くなっているって言う。

でも僕は進藤より強いんだ。負けたことは無い。

そう言いながらも越智の心にヒカルの影がだんだんと大きくなっていった。

 

その日、越智はヒカルと打った本田と出会った。

「越智。お前、進藤とは最終戦だな。1敗を覚悟しといた方がいいぜ。

そうなると途中一つでも取りこぼすとお前も3敗組の仲間か。」

 

その本田の言葉が越智の不安に火をつけた。

家に戻ると、越智は祖父に言った。

「おじいちゃん、塔矢2段を呼んで。」

 

塔矢が来たら聞いてやる。

何であれ程までに進藤を気にするのか、その理由を。

僕は一度だって進藤に負けたことはないじゃないか。

塔矢アキラがまた来たら、言ってやる。

僕は進藤より強いんだと。

そして僕の自信を取り戻す。僕の目標を取り戻す。

 

何で皆、進藤のことばっかり気にするんだ。僕は負けないから。

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