プロ試験からヒカル新初段戦まで。行洋vs佐為、緒方vs佐為。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、行洋、明子、緒方、アキラ、越智、伊角、本田、和谷、森下、座間、白川、篠田、正夫、美津子、タマ子先生、河合、道玄坂マスター、天野)
「ヒカル。そこではなく。こちらの方が広がりが大きい。ヒカルの今の力なら、こちらで。」
佐為はぴしりと扇子の先で示した。
ヒカルはちらりと、佐為の顔を見た。
佐為。いやに張り切ってないか?何かとても生き生きとしている。
いくらプロ試験に集中しているといっても、佐為とずっと向き合ってきたヒカルには、そのくらいは分かった。
そのヒカルもまさか、佐為が元気になってすぐに、時の旅を試しているとは知らなかった。
まして念願の相手の塔矢行洋と打ち合い、さらにまた約束を交わしているなど、思いもよらないことだった。
何か、いいことがあったのだろうか。
そういえば、帝に何か頼まれたとか、頼まれるとか言ってたけど、何かいいことを頼まれたのかな?
とにかく佐為は行洋との対局以来、特に行洋にヒカルのことを話したこともあって、ヒカルの指導には今まで以上に熱が入っていた。
佐為の熱はヒカルに伝播して、ヒカルはますます調子を上げていった。
指導の厳しさも増していて、そのことがヒカルの潜在力のようなものを一層研ぎ澄ましていくようだった。
「佐為。俺、この頃打つたびに力が蓄えられていく気がしてるんだ。」
佐為はヒカルの言葉に同調するように頷いた。
「ヒカルは一局ごとに力を伸ばしている。間違いなく。」
「やっぱ、毎回、こうやって佐為と検討しているからかなあ。」
「それもあるかもしれないが。プロ試験の真剣勝負がヒカルを磨いているのだ。」
ヒカルはプロ試験の勝ち星を順調に重ねていった。対局の内容もどれも良いものばかりだった。
そのヒカルと同じに調子を上げているのは和谷だった。
最終二局を残して、今のところ、俺は一敗。越智も進藤も一敗。二敗はいなくて、三敗は伊角さんだけ。
今日の進藤との一戦。これに勝てば俺は合格できるんだ。
俺は今、自分でも信じられないほど調子がいい。こんなに調子がいい今、合格しなかったら、いつ合格出来るというのか。
昨日、和谷は森下に稽古をつけてもらった。その時、森下は言ったのだ。
「お前は一体いつまでこんな弟子続けていくつもりだ。
お前は年のわりに素直でひたむきで、でもだからっていつまでも甘えてんじゃねえよ。
自信を持て。和谷。勝ってこっちへ、プロへ来い。」
プロへ来いという、森下の言葉が和谷を鼓舞した。
俺は今日勝って、先生の側に行くぞ。
その日、ヒカルとの対局で和谷の指す手は、常になく慎重で緻密さが際立っていた。
和谷は自分の布陣に絶対の自信を持ってヒカルを見た。
ヒカルが盤面をじっと睨んで集中しているのを見ながら、和谷は洪秀英とヒカルの対局を思い出した。
俺はあの対局を知っている。あれを越えてみせる。これで勝ってみせる。
さあ、どこにでも打って来い、進藤。
どこに打ってきたって、お前の黒は殺してみせる。
ヒカルは盤上に必死で道を探していた。
だめだ。生きる道が見つからない。勝てない。もう道がない。
でも、もし佐為だったらどうする?
佐為だったら、この広さがあれば黒石を生かせるに違いない。
佐為が今俺の代わりにここで次の手を打つとしたら…。
長考の末、ヒカルは漸く一手を置いた。
その手を見て、和谷はしめたと思った。
その手は封じ込められる。
しかしヒカルが示したその先の展開に、和谷は、はっとした。
その手は自分が考えていなかった、抜かしていた道だった。
ヒカルが生きる道に辿りついた時、和谷は深いため息をついた。
完敗だ。全て読んでいたと思ったのに、足りなかった。
進藤は今日の一局、俺の上を行った。
こいつ、どこまで伸びるつもりだ。
そう思いながらヒカルの顔を見た。
いや俺だってまだ明日がある。気持を切り替えて明日にかける。
切り替えが出来ることが和谷の強みでもあった。
越智は早々と自分の対局を終え、合格を決めていた。
そして離れたところでヒカルと和谷の対局の様子を見ていた。
やがてヒカルが立ち上がり、はんこうをつくのを見て思った。
進藤の奴が合格したんだ。
進藤は、これで明日はきっと油断するんだろうな。
伊角さんに勝ったぐらいで、有頂天になって、フクに負けたんだからな。
でも進藤が、どうだろうと僕には関係ない。
僕はただ進藤に勝って、塔矢の奴に見せ付けてやるだけだ。
塔矢の前には進藤ではなく、僕がいるのだということを分からせるのだ。
和谷に勝ったヒカルは合格を決めた。
その晩、その知らせを持って佐為のところへ行った。
ヒカルは、佐為の前で、和谷との対局譜を早速並べて言った。
「俺、ここでもう終わりかと思った。どう考えても生きるすべはないって。
でもその時思ったんだ。
もし佐為が俺だったら、俺のここからを引き継いで打ったら、どう打つだろうって。
俺、いつも佐為が打つのを見てきただろ。
だからかその時、佐為だったら、こう打つっていうのが思い浮かんだんだよ。
閃いた。で、ここに打ったんだ。」
佐為はヒカルがその先を並べるのを見ていた。
ここで私の打ち筋を思い浮かべたかというのか。
だが、これは私のというより、生き残るための唯一の道だった。
ヒカルはそれを見つけ出し、自力で最後まで辿りつけたわけだ。
ヒカルは検討を終えると、少しのんびりした風に言った。
「あと一局だぜ。明日は少し気が楽かなあ。越智も俺も取りあえずは合格だからな。」
それから頭をぶるんと振った。
「ああ。でも越智は全勝狙ってた奴だからな。トップ合格を狙ってるよな。気を引き締めていかないと、やばいかも。」
「そうですよ。真剣勝負です。最後まで気を抜いてはだめです。」
その日もアキラは越智のところへ行った。
越智の家に行くのは何回目だろうか。
越智と指導碁を打つのは今日が最後。明日はいよいよ越智と進藤の対局がある。
一番初めは越智の祖父から棋院に名指しで指導碁の依頼が来た。
いつものように断わって下さいと言いかけたが、今プロ試験を戦っている院生だと聞いて、気持が変わった。
その院生は進藤とも打つに違いない。いやもう打ったのか。
そう思って成績表を見ると、その院生は全勝で勝ち続けている。しかも進藤とあたるのは、最終日だった。
僕はしめたと思った。この院生を物差しにして進藤を測れる。
僕は勇んで出かけ、越智に進藤のことを根掘り葉掘り聞いた。そのために越智に嫌われてしまった。
別に彼に嫌われても構わないが、僕の知りたいことを知ることが出来ないまま、追い返された。
もうこれで進藤の今を知る手立てはないのかと思っていたところ、再度依頼が来た。
今日、負けたから? 一敗したことで動揺しているというのか。
そうとは見えなかったが越智は案外メンタリティが弱いのか。
越智にとってもプロ試験は思いのほか重圧がかかるものなのだろうか。
越智の元へ早速行ってみると、越智はやっぱり僕に敵愾心を持っていた。
「3週間ぽっち付いてもらっても、何にも変わらないだろうけど、お祖父ちゃんがお前に来てもらえって言うから。」
越智は僕に信頼を寄せていない。
僕は自分でも判然としない進藤への気持を越智に説明する気にはなれなかった。
そんな状態ではあるけれど、僕は越智を鍛えられるだけ鍛えてみようと思った。
それは越智にとっても僕にとっても唯一共通の利害だった。
アキラが最初にしたことは、越智に洪秀英とヒカルの一局を見せることだった。
確かに越智は3週間ぽっちでは変われないタイプかもしれないが、それでもこの進藤と韓国の研究生との一局を超えるようにする。
アキラはそう決め、越智への特訓を開始した。
越智の方も激しい敵愾心とプライドがあったから、そのアキラの特訓にひたすら耐えた。
越智は試験会場へ向う車の中でじっと考えていた。
今日はいよいよ進藤との対局がある。
僕は何故伊角さんに負けた時あんなに動揺してしまったのだろう。
結局あの塔矢をまた呼び寄せて、指導をしてもらうことにしてしまった。
塔矢は、本当に腹立たしい奴だ。
あんなに強いのに、何故進藤なんかをそんなに気にするのか、いくら聞いても塔矢はその理由を言わなかった。
塔矢は進藤は今打った相手だから分かるなどと油断は出来ない。
明日はもう違った手を打つ。そのことを心しろと言うばかりだった。
でも、進藤のどこがそんなに問題なのだろう。
たしかに韓国の研究生と進藤の一局はレベルが高いが、今の僕はそれを超えている自信がある。
大体進藤がいつもそんな碁を打つとは限らないじゃないか。
僕にだって、あのくらいの会心の碁は一つや二つはある。
腹立たしい嫌な奴だが、塔矢は強い。今のところ僕には歯が立たない。
それはどうしようもない事実だ。その力だけは僕は認めざるをえない。
そして塔矢は僕を認めてないとはいえ、毎日のように来て僕をしごいた。
塔矢と打ち合うことで僕の力が伸びていったのは確かだった。
でも塔矢はそれを僕のためにしたのではない。塔矢自身のためなのだ。
僕を使って、進藤の力を測るためなのだ。
それが僕をどうしようもなく、いらだたせる。
昨日も塔矢は来た。僕を指導するというより、進藤がその日勝ったかを知りたいからだ。
塔矢が僕に合格おめでとうと言った時、僕は精一杯の皮肉をこめて言った。
「進藤も今日勝って合格を決めましたよ。」と。
今日もきっと塔矢は来る。そのために僕と打ち合ってきたんだから。
来ればいいさ。そこで塔矢は知ることになるんだ。
僕は今日進藤に勝つのだから。
勝って塔矢に言ってやる。
この勝利は塔矢のおかげじゃないと。進藤など気にするような相手じゃないんだと。
塔矢の前にいるのは進藤ではなく、僕なんだと分からせてやるんだ。
今日でいよいよ最後だ。でも真剣勝負の貴重な一局だ。やるぞ。
とはいっても、まずはリラックス、リラックス。
そう思いながら、ヒカルは控え室から外に出た。
ヒカルは体を軽くほぐしてから、足取り軽く部屋に戻った。
その時、越智とばったり顔を合わせてしまった。
越智の雰囲気は固かった。
やっぱ力が入ってるんだ。俺も力入れるぞ。
そうヒカルが思った時だった。
「進藤。今日は負けないよ。」
越智のいきなりの宣言、挑戦状だった。
一瞬言葉が詰まったヒカルだったが、すぐに応じ返した。
「俺だって。」
越智は自分の気持を高めることしか考えていなかったから、ヒカルを怖気づかせようとして続けた。
「僕は毎晩のように塔矢と打ってきた。君を倒すためにね。」
「塔矢?何故、塔矢?」
ヒカルは訝しげに聞き返した。
越智はヒカルの様子ににやりとして、重ねて言った。
「塔矢は仕事を越えて熱心に僕を鍛えてくれた。」
越智と塔矢に何の関係があるんだろう?
「何で塔矢が出て来るんだよ。」
自分の言ったことで、ヒカルが混乱している様子を越智は小気味よさそうに見た。
進藤は動揺しているな。よし、もっと揺さぶってやれ。
「ボクはいつもプロを呼んで、うちでお稽古をつけてもらってるんだよ。塔矢と打つのは勉強になるよ。」
ヒカルは思った。越智は合格のためでなく、俺を倒すためって言ってなかったか。
ということは、もしかして塔矢が俺を気にしているということか?
ヒカルは越智に尋ねた。
「お前、さっき俺を倒すために塔矢と打ったって言ったよな。塔矢。あいつ。俺のこと、何か…」
ちょっと言葉を切って、ヒカルは続けた。
「俺のこと何か言ってたか?」
越智はしまったと思った。
塔矢が気にしているなんて、進藤に絶対知られてなるものか。
「何も言っちゃいないよ。うぬぼれるな。プロ試験の話もしたけど、君の事はかけらも気にしちゃいないよ。」
越智はさらに言い募った。
「大体分かってるのか。塔矢はプロになってからまだ負け知らず。悔しいけど僕たちより一クラス上なんだ。そんなあいつが何で君なんかを気にかけるもんか。」
越智の剣幕にヒカルはおとなしく言った。
「別に俺は…。」
越智は自分のために続けた。
「塔矢は君なんか気にかけないさ。でも塔矢は僕を評価してくれたよ。
塔矢はこのプロ試験で君に勝てれば僕を塔矢のライバルとして認めるって言ったんだ。」
「俺に勝てば塔矢のライバル?」
どういうことだ?
それは塔矢が俺を見ているっていうことじゃないのか?
越智は嘘をついてる?
それがヒカルを発奮させ、闘争心を掻き立てた。
「じゃあ、もし俺がお前に勝てば、塔矢は俺をライバルとして認めるんだな。そうだな、塔矢。」
ヒカルはもう越智に向って言ってはいなかった。
その場にはいない塔矢に向って話していた。
最高の真剣勝負をしてやる。越智を通して塔矢は俺を見ているのだから。
だったら見せてやるさ。今の俺を。昨日のではなくて、今日の俺を。
「塔矢。お前に見せてやる。今の俺を。」
ヒカルには、もうその場にいる越智は見えなかった。
ただアキラの姿が見えた。アキラの目が見えた。
佐為を求めて、自分のところへやってきた塔矢。佐為と同じ目をしていた。
俺も、今は、その佐為や塔矢と同じものを目指しているんだ。同じものを求めているんだ。
そのことをお前に知らせたい。そのために俺の最高の碁をお前に見せてやる。
越智は真っ青だった。
伊角の時と同じだった。ヒカルをしぼませるつもりが、逆に火をつけてしまった。
進藤は今、僕をまったく見てない。塔矢しか見てない。
まるで僕がここにいないみたいに僕を通り越して、塔矢だけを見ている。
そのことに、越智は動揺を隠せなかった。
言わなければよかった。
だが、対局が始まった時、越智は今一度、塔矢への敵愾心を呼び起こした。
僕は勝ってみせる。そう誓ったんだ。
進藤は塔矢じゃないんだ。僕は今まで進藤に負けたことはないんだから。これからもない。