プロ試験からヒカル新初段戦まで。行洋vs佐為、緒方vs佐為。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、行洋、明子、緒方、アキラ、越智、伊角、本田、和谷、森下、座間、白川、篠田、正夫、美津子、タマ子先生、河合、道玄坂マスター、天野)
行洋はアキラと朝の一局を打ちながら言った。
「アキラ。調子がいいようだな。お前らしい碁を見るのは久しぶりだ。」
行洋はそれ以上は何も言わず、いつもどおりに石を置いた。
アキラは父親の顔を見た。
お父さんは僕に何があったかは知らなくても、それでも僕が決心したことを分かってるんだ。
昨日の夜、越智の家に行った。そこで僕は門前払いを食らった。
越智は僕に会いたくない、進藤との対局も教えたくないと断った。
結局、僕は進藤の対局を知ることが出来なかった。
それでも一つ分かることがある。
越智は進藤に負けた。進藤は、あの韓国の研究生との対局から、さらに先に進んだのだ。
僕はその時気がついた。とても簡単なことだ。
進藤の実力を知りたければ、自分の目で確かめればいいのだ。
進藤はプロになったのだ。僕が彼と打てばいいのだ。
このひと月、僕はなんて無駄なことをしてきたのだろう。
そう思った時、僕はやっと吹っ切れた気がした。
進藤が僕を相手にどんな碁を打ってくるか、それを思った時、僕はとてもわくわくした気持がわいてきた。
僕は進藤に心の中で呼びかけた。
来い、進藤。僕はここにいる。プロの世界に。早く君と打ちたい。
アキラとのその一局の二日後、行洋は王座戦第一局に臨んで、会場となるホテルのエレベターの中にいた。
私はこの戦いを三連戦で終えると決めた。
三局を先取して、王座のタイトルを手にする。
そのくらいの勢いがなければ、あの男には、サイには勝てない。
そう決心したから、私はこの三連戦が終わった10日後に、サイとの対局を約束している。
座間は二階でエレベーターを待っていた。
王座戦の第一局。相手は塔矢行洋。
何度となくリーグ戦や棋戦で戦ってきた相手だ。互いに手の内は分かっている。
それにしても奴の倅は可愛げがない。
新初段戦以来、無視しようとしてもついついアキラの戦績に目が行ってしまう座間だった。
まだまだ俺の相手となるには力不足だ。何も気にする必要はない。
とはいえ、俺は何であの時あんな醜態を晒したのか。
あれほど不愉快な勝ち方はなかった。
その時、エレベーターがきた。
ドアが開いて座間が乗り込もうとすると一階から乗り込んでいたらしい今日の対戦相手の塔矢行洋が一人で乗っていた。
一瞬エレベーターを一台ずらした方がよいかと思ったが、行洋のほうが先手を取った。
「おはようございます。座間先生。」
「おはようございます。」
座間はそのまま行洋の横に乗り込んだ。
一瞬沈黙が流れたが座間は如才なく言葉を口にした。
「そういえば、名人位防衛6連覇のお祝いをまだ言ってませんでしたね。おめでとうございます。」
「どうも。」
行洋はたいしたことはないというように、こともなげに返答した。
座間は、ちっと歯軋りする思いに駆られたが、すぐに言葉を返した。
「しかし棋聖戦の挑戦権は逃されましたな。」
そうけしかけても行洋は無表情だった。
「対局過多でお疲れなんですよ。」
行洋は座間のその言葉にすかさず答えた。
「仰るとおり挑戦者決定戦で敗れたのは疲れが残ってたのかもしれませんな。
ですが今日はおかげさまで心身ともに万全ですよ。」
その言葉にふんと言う表情で座間は返した。
「心身ともに絶好調なのは息子さんの方でしょう。負けなしだそうじゃないですか。」
「今、20連勝です。」
座間はその言葉に行洋の弱みを見た気がした。
子どもがらみになると誰でも心乱れるものだが、この男だってそれは同じだろう。
息子の戦績をきちっと確認しているくらいだからな。
行洋は座間の思惑など気にせず、続けた。
「アキラが負けたのはプロになる直前の新初段シリーズ、座間先生、あなたとの対局だけですよ。」
座間はここぞとばかりに言った。
「では今日は可愛いお坊ちゃんのリベンジですかな。ははは。」
行洋はハハと軽く笑っただけだった。
しかしそこに座間は何かヒヤッとするものを感じた。
その笑いには、座間を怖気つかせるような何かが潜んでいた。
行洋には盤外戦など手慣れたものだった。
それで乱れるなどということはあり得ないことだった。
それにしても座間さんもアキラの話までするとは、余裕がないことだ。
行洋は思った。
たしかに数日前まではアキラのことは私のネックだったかもしれないが。
行洋は息子のプロ生活には口を挟まないで来た。
ただアキラがプロになっても、毎朝の一局だけは欠かさなかった。
アキラが普段と変わりなく見えても、何かが違うと感じられ始めたのはいつからだったか。
アキラは何を考えているのだろうか。いや、何を求めているのだろうか。
もしや私に対する疑いかとも思った。
私は父親であり、息子が目指すべき棋士として存在していた。そう思ってきた。
アキラが迷っているのを見た時、私は自分の生き方に対しての確信が一瞬揺らぐのを感じた。
だが、あれは息子自身の迷いだった。
どう乗り越えたのか分からないが、アキラは自分を取り戻した。
先日の対局で分かった。
アキラは、またまっすぐ前に進んでいる。何も心配は要らない。
私はサイとの対局を通して自分への確信を取り戻した。
勝負に負けはしたが、サイは。あの男は、どちらが上というのではない私と同等の相手だった。
彼との対局を通して私はさらなる碁の高みを目指すことが出来る。
今、私は本当に心身ともに磐石の気がしている。
座間も行洋もそれ以上はお互い口をきかず、対局場へ入った。
越智は合格が決まっても鬱々としていた。
傷は深かった。単に進藤に負けただけならここまで傷つかなかったろう。
僕だって4月からプロになるのだ。でも同じプロなのに、塔矢には見向きもされないのだ。
塔矢の奴は、プロだろうと何だろうと、後ろにいる奴に興味はないんだ。進藤以外は。
いや、進藤も塔矢の期待を裏切れば見向きもされないだろう。
進藤にも塔矢に関心をもたれなくなる日はすぐ来るだろう。でもそれは進藤の問題だ。僕には関係ない。
とにかく、僕は塔矢から受けた屈辱を忘れない。だから僕は追いついてみせる。塔矢に。
そして追い抜くんだ。
そのために僕はプロとして全霊をこめてやっていく。この先ずっと。
その週の森下研究会で、ヒカルは森下に合格の報告をした。
「二人とも受かって良かった。」
和谷も最終局を無事勝ち抜き、合格を手にしていた。
森下門下から二人合格したこともあるが、白川はことのほかヒカルの合格を喜んでくれた。
進藤君は、これから何か胸のすくような碁を見せてくれそうだ。そんな気がする。
ヒカルが家族と、学校の担任に合格の報告をしたのは、少し後だった。
ヒカルが合格したことを正夫は案外すんなり受け止めていた。
碁の世界のことは分からないが。
でも佐為さんは絶対大丈夫だと請合ってくれた。ヒカルはこの道をしっかり歩むと。
だからヒカル自身の選択に任せておけばいいじゃないか。
佐為さんを見ていると、碁を打って暮らしていくということも案外悪いものではないように思える。
それにヒカルはまだ若いし、この先何があろうと、修正はきく。俺なんかよりは、ずっと。
美津子の方は、そうはいかなかった。
ヒカルに内緒で担任のタマコ先生に会いに行った。
「受験はするのでしょう?」
「ヒカルは高校には行かないといっています。一緒に受かった和谷君というのが中三で、高校には行かないそうです。でも誰かに聞かないと。その和谷君の親御さんにでもと。どちらにしてもまだ一年あるからとヒカルは全然相手にもしないので。」
「まあ、そうですね。まだ一年ありますからね。慌てる事はないのではありませんか。ところで進藤君の碁の先生というのはどう仰ってるのですか 。」
美津子はそういわれて、はたと気がついた。
そういえば、一度も会いに行ったことがなかった。
今度の土曜日に会いに行ってみよう。
でも一体囲碁の棋士なんて、どんな人が先生なのかしら。
私一人というのも。正夫さんにも一緒に行って貰わないと。
金曜日の晩、正夫が会社から帰ると、美津子が待ち構えていた。
「明日ヒカルの碁の先生とかいう人に会いに行くのよ。あなたも一緒にね。」
一瞬、正夫はぎょっとした。
佐為のことだと思ったからだ。
ばれた?いや、何も悪いこともしてないし、隠し事はないけど。
「駅前の社会保険センターに4時に。」
正夫はそれを聞いてほっとしながら言った。
「挨拶ならお前一人で行けばいいじゃないか。菓子折りでも持ってさ。」
「いろいろ話を聞くのよ。碁を打つ人なんて私全然知らないし。どんな人か分からないでしょ。」
「おやじみたいのじゃないか。」
美津子は考えた。
お父さんみたいな人ならいいけど。でもお父さんは碁の先生じゃないわ。
「碁を教えるなんて、一体どういう人がやるのかしら。」
「俺が知るか。でも悪い人じゃないさ。碁を教えるんだから。」
正夫は佐為を思い浮かべていった。
「そぉ?でもとにかくあなたにも一緒に行ってもらうわよ。お願いよ。それとヒカルには内緒よ。」
土曜日の午後、正夫は美津子に引っ張られるようにいやいや駅前の社会保険センターへと向った。
「あかりちゃんには見つからない方がいいと思うのよ。ヒカルに話されたらヒカルがまたむくれるでしょ。」
幸いなことにあかりには見られることなく、二人は白川に面会が出来た。
棋士ってどんな人かと思ったら、随分物腰の柔らかな人ね。話し方も穏やかそうだし。
美津子は白川を見ながら、そう思った。
「ヒカルがいつもお世話になっております。ご挨拶が遅れまして。」
正夫が美津子に突っつかれてそう挨拶すると、白川はにこやかに言った。
「進藤君のご両親ですか。進藤君、合格おめでとうございます。良かったですね。」
「ありがとうございます。先生のおかげで。」
美津子がそう言いかけると、白川は首を横に振った。
「いえ、私は進藤君が合格するためには何も力を貸していません。
進藤君は、本来持っていた力を自力で努力して伸ばしていったと私は思ってます。
めったにあることじゃないですよ。わずか2年ほどでプロになれるというのは。
本当に私は万に一つの才能だと思ってます。それをこの目で見れて、本当に嬉しいですよ。」
正夫はヒカルの碁の才能については佐為に聞いていたが、ほかの人物にそう言われると、そうなのかと少し嬉しい気もした。
俺の息子にそんな才能があるのか。
美津子はそれには、どう答えていいのか分からなかった。
ただ気がかりなことを尋ねた。
「碁の世界のことは全然分からないもので。
プロになるとこれからどんな生活が始まるのか、学校とは両立するのか、またヒカルは今中学生ですが高校進学とかはどう考えたらいいのか。それで、先生にそういったことを少し伺いたいと思いまして。」
白川は少し考えた。
「棋院も義務教育に関しては十分配慮すると思います。
私は合格した年齢が進藤君よりは高かったので、学校を出ていますが。進藤君はそういったことで何か言ってませんか。」
「一緒に合格した和谷君というお子さんは高校には行かないそうで。それでヒカルも進学はしないと言ってます。」
「でしたらそれでよろしいのではないですか。学校はいつでも行けると思いますが、碁の才能は伸ばす時期があると思います。今は思いっきり碁に専念させてあげてくださいませんか。
もし私が親なら、進藤君には碁にまい進させてあげたいですね。あれだけの才能をほかに向けるのは惜しいですよ。」
「中学生でプロとしてやっているお子さんは、ほかにいるのでしょうか。」
その問いに白川は嬉しそうに言った。
「ここしばらくそういう子が少なかったんですが。去年からですね。
去年の塔矢君は確か進藤君と同い年です。今年受かった三人は進藤君の他は、さっき話しに出た和谷君が中三、もう一人合格したのは中一の子でしたね。
私たちはそれをとても喜んでますよ。本当に久々のことですから。
もっとそういう子どもたちが出てくれることが囲碁界を活気付かせることなんです。」