プロ試験からヒカル新初段戦まで。行洋vs佐為、緒方vs佐為。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、行洋、明子、緒方、アキラ、越智、伊角、本田、和谷、森下、座間、白川、篠田、正夫、美津子、タマ子先生、河合、道玄坂マスター、天野)
母親が、やきもきしていることなどヒカルは知らなかった。
ヒカルには、それよりも、気がかりなことができた。
合格の報告が一通りすんだと思って部屋でごろっとしていたヒカルの元に佐為がやってきたのだ。
「佐為。もうこっちへ来れるんだ。大丈夫?」
「もちろんですよ。ヒカルが試験中は気が散るといけないと思って黙っていたのですけれどね。」
そう言って、佐為は碁サロンで偶然塔矢行洋と出会って一局打ったこと。さらには行洋の家にも行って打ち合ったという話をした。
ヒカルは驚いた。何も言えず、ただ話をする佐為を見つめていた。
佐為はそんなヒカルにはお構いなしに続けた。
「でもって、次は11月の末に対局を約束してるのですよ。それでそのことでヒカルにお願いがあるのです。」
「俺に?」
佐為は努めて軽く話してはいるようだが、その口調にある何かに、ヒカルは胸騒ぎを覚えた。
「ええ。お願いというのは後で話しますけど。とにかくもう少しさっきの続きを。
そうそう、話のついでに、ヒカルのことはあの者に話しておきましたよ。いずれ塔矢アキラのライバルになる者だとね。」
ヒカルは何となく面映い気がしたが、佐為がそう思ってくれていることがすごく嬉しかった。
もしかして、塔矢の奴、親父さんからその話を聞いて、越智を鍛えたのかな?
でもそれは、もうどうでもいいよ。それよりも。
ヒカルは、佐為に気がかりなことを聞いた。
「それで塔矢の親父さんは佐為のこと、知ってるの?話したの?分かってくれたの?」
佐為はにっこり笑った。
「まだ全部は。時の旅の話はまだですよ。でもヒカルは何も心配しなくていいです。私のことをヒカルが誰かに何か言うことはないですよ。私のことは私が話します。あの者が信じようと信じまいと。ヒカルがあれこれ気を揉むことはありません。」
そうか。佐為のことは佐為に任せておけばいいのか。
ヒカルはそれを聞いて少し心が軽くなった。
「ねえ、それでなんで11月のこの日なのさ。」
「あの者は今タイトル戦を戦っているそうですね。それが終わってからということだそうですよ。終わっても取材とかなにやらで、なかなか時間が取れないらしいですね。その日だけは仕事をいれないで大丈夫だとか言っていました。」
ヒカルは、まだいろいろ聞こうとしたが、それ以上話を聞くことができなかった。
なぜならその時、佐為がヒカルの目の前から突然消えたのだ。今しがた着ていた服だけをそのまま残して。
ヒカルは、ぎょっとした。
まさか佐為、もしかして、また体がなくなっちゃたのか。
「おい。佐為。いたら返事ぐらいしろよ。」
それでも佐為は現れなかった。
三谷が賭碁をしていた碁会所でのことを思い出し、ヒカルはすぐに平安に向った。
ヒカルはいつものように時を旅した。
佐為の邸に着いてみると、佐為は仮衣姿で、ちゃんと邸の中に居た。
「無事だったんだ。良かった。」
佐為は心なしか青ざめていたが、ヒカルに向って微笑んだ。
「すぐ来てくれたのですね。ヒカル。突然に消えるのは、実はこれが初めてじゃないのですよ。
話そうと思っていたのですけれど、先に消えてしまいましたね。
こういうことがあるから、だからヒカルにはあの者との対局の時に、どうしても頼みたいことがあるのです。」
それから佐為はゆっくり話を始めた。
「順を追って話しましょう。
ヒカルがプロ試験を戦っている間、私が何回かヒカルの時代へ行った話はしましたね。
その内初めの2回はあの者と出会い対局ができた。そしてその時までは何ともなかったのです。
その後は、図書館へ行ったり、ひとりであちこち出歩きました。
図書館では、例のヒカルが言っていたギリシア哲学とやらについても勉強いたしましたよ。術師に話せるようにね。」
佐為は俺の言ったあれを覚えてたんだ。図書館にそんな本があるのか。
「私の体調はとても良かったのですよ。本当に軽やかで。
変化が起きたのは、私がコーヒーを飲みにカフェに入った時でのことでした。
そこにはあの、例のパソコンがあったのですよ。で、私は思わず、ネット碁にアクセスしました。」
佐為は思い出すように、ちょっと言葉を止めてから続けた。
「そこで本当に…。すばらしい対局相手とであったのですよ。塔矢アキラよりも練れていて力は上でした。
かなりの経験がある者なのでしょう。でも若々しく勢いのある碁でもありましたね。」
あのネット碁の対局者は相当な強者だった。思わず虎次郎といた頃に打ち合った数多の強豪たちに思いを馳せてしまった。
あの対局者は、もしかして塔矢名人と肩を並べるべく研鑽を積んでいる者であろうか。
彼はまた打ちたいと言って来た。
あの者の名を覚えておいて、またいつかネット碁をやるときには是非に打ち合いたいものだ。
本当に、ヒカルの世界はまだまだ広い。
塔矢行洋だけではないのかも知れぬ。
そんな場所で、あの者は勝負を闘ってきたのだ。本当に羨ましい限りだ。
ヒカルもいずれその仲間になるだろう。
「佐為?」
ぼんやりと思いにふけっていた佐為にヒカルは声をかけた。
「ああ、すみませんでした。つい、その対局を思い出していました。
そうだ。その碁をちょっと並べて見せましょうか。」
佐為はネット碁の対局を並べた。
「この人、日本人?プロかな?」
ヒカルはすごいという口調で聞いた。
「確かJPNでした。この者はあの者に引けをとらない強さを備えてますよ。本当に。
この者がプロならば、ヒカルもいずれこの者と対局する日が来るのですよ。」
ヒカルは言った。
「なんかわくわくするね。」
佐為は思い出したように付け加えた。
「それで、さっきの話の続きですが、その対局が終わって、カフェを出て、ヒカルの部屋に戻った時です。
私は何となく疲れが出て、着替える気力も出なかったのです。
ベッドの脇に寄りかかって少し休みました。
するとふーっと意識が遠き、流れていく感じがしたのです。
ああ、私は今時の流れに乗っている、そう感じたのですよ。
気がつくと私は自分の邸に戻っていました。ちゃんと仮衣を纏っていましたよ。
それで、私はそのまますぐにまた石を使ったのです。
ヒカルの部屋に戻って確かめたかったのです。そこにはつい今しがたまで着ていた服が抜け殻のようにありました。私はその服を片付けて、すぐにまた平安に引き上げたのです。」
「それで、何ともないの?」
「ええ、私の体は大丈夫なのですよ。問題は石だと思います。私は石の力を伸ばしたいのです。あの者との対局の途中で消えたりなどしたくはありませんから。」
「石の力を伸ばすってどうやるの?そんなことできるの?」
佐為は少し厳しい顔つきでヒカルに言った。
「それが出来ることなのかを試したいのです。だから、ヒカル、協力して下さい。」
ヒカルは居住まいを正して、佐為が話すことに耳を傾けた。
11月に入り、プロ試験合格の波紋がヒカルの周りで漸く薄れてきた。
学校でも騒がれることもなくなったが、それより何より、ヒカルは母親が急にプロのことや進学のことをうるさく言わなくなったのが少し不思議だった。
どうしてだろう?ま、きっとお父さんがうまく話してくれたんだな。お父さんは賛成してたもんな。
佐為と塔矢名人の対局の日が少しづつ近づいていた。
自分が対局するわけではないが、ヒカルは何となく落ち着かなかった。
何か気を紛らわそうとして、急に思いついた。
そうだ、道玄坂の碁会所へ報告に行こう。
ヒカルが久しぶりに碁会所のドアを開けて、中を覗くと、席亭がいち早くヒカルを認めた。
「おめでとう。進藤君。よく来てくれたね。」
その声にその場にいた河合はヒカルを見た。
つかつかとやってきて、ヒカルの頭をくしゃくしゃと揉んだ。
「いて。何だよ。河合さん。」
「何だとは何だ。今頃来て。もっと早く報告に来なくちゃだめだろ。
いいか。プロになれたのは河合さんのお陰ですと皆に言うんだぞ。」
「違うわい。河合さんのおかげじゃないやい。」
「何だと。」
「それより、何かお祝いをしなけりゃいけないな。」
常連のお客にもみくちゃにされながら、ヒカルは嬉しかった。
思えば、プロ試験に合格して、こんなに喜んでくれる人たちに会ったのはこれが初めての気がした。
もちろん、森下先生の研究会では良かったといってはもらえたけれど、それはプロの世界のことだ。
佐為は当然喜んでくれたけれど、佐為もプロの領域の人間だった。
まあ、佐為に喜んでもらえればそれだけでいいとは思ったが、ヒカルが普段暮らす生活の中ではこんなに歓迎して合格を祝ってくれる場は他にはなかった。
この碁会所はヒカルには暖かくて本当に居心地のいい場所だった。
「そういや、塔矢名人も間もなく五冠になろうというところだな。」
常連客の一人が言った。
「五冠?」
ヒカルが問い返した。
「ああ、今王座戦の最中だよ。間もなく三局目だ。今の勢いだと、間違いなく塔矢名人のストレート勝で、五冠だろうな。」
そう言うと、席亭はヒカルに傍にあった週刊碁を渡した。
ヒカルはそれに急いで目を通した。
そうか。塔矢名人は初めから五冠を手にするつもりだったんだ。
その上で、佐為と打つつもりなんだ。
ヒカルには、その名人の覇気が伝わってくる気がした。