プロ試験からヒカル新初段戦まで。行洋vs佐為、緒方vs佐為。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、行洋、明子、緒方、アキラ、越智、伊角、本田、和谷、森下、座間、白川、篠田、正夫、美津子、タマ子先生、河合、道玄坂マスター、天野)
11月の下旬に王座戦の三局目が終わり、行洋は王座位を手にして、五冠となった。
忙しくなったが、行洋は家にいる時は殆ど居室に篭ることが多かった。
アキラも妻の明子もいつものことと気に止めなかった。
行洋は部屋で棋譜を並べた。
かの者は私の棋譜を検討している。それだけではない。最近の中韓の棋譜も研究している。
かといって全く新しいということではなく、古典的な名局も完璧に身につけている。
私の知るかの者が今まで打ってきた碁をみれば。
行洋は以前棋院の職員が教えてくれたsaiのネット碁の棋譜をいくつか置いてみた。
棋院の職員がそれを集めているのには驚いたが、おかげで素晴らしい棋譜を目にすることができた。ネット碁の中でも一番最近のだというこの棋譜は、対局者の実力もさることながら、実に興味深い。何か私にはなじみがある対局に思える。
だがそれはそれとして、やはり私自身がサイと打った棋譜が一番勉強になる。
とにかく、かの者の碁を知れば知るほど、私はまだまだ磨かねばならないという思いにかられる。
それでも、私はいつでも打てる。今すぐにでもだ。打つ用意はすでに出来ている。
行洋は盤から顔を上げ、約束の日が待ち遠しいという目つきで空を見つめた。
その日、塔矢行洋の五冠達成を受けて、天野は行洋の家を訪れた。
棋院より家の方が却って落ち着いて話を聞けるからありがたいことだ。
それに今日はアキラ君も家にいるそうだから、彼のインタビューも一緒にできる。
天野は行洋の家のガレージの前で、緒方と鉢合わせした。
緒方は天野を認めて、すばやく車を降りて、声をかけた。
「天野さんじゃないですか。ということは今日は取材日でしたか。
とすると私は邪魔ですね。少しどこかで時間を潰してきますよ。」
「いや、塔矢先生がOKを出されれば、緒方先生もご一緒にどうですか。
今日はアキラ君にもインタビューを予定してるのですよ。
一番弟子の緒方さんの談話もここで一緒に取らせてもらえれば私は好都合ですが。」
天野とともに行洋の家に入った緒方は五冠のお祝いを述べた。
行洋は礼を述べてから、緒方がいても構わないと言った。
通例のインタビューが済み、カメラマンが写真を撮り終わった後で、行洋は天野に尋ねた。
「ところで天野さん。デビュー前の新人とトップ棋士を対局させる例の」
そこまで聞きかけただけで、天野は期待をこめて言った。
「もしかして新初段シリーズですか?!出て頂けるのですか?
去年も一昨年も多忙を理由に断られていたので、遠慮していたのですが、本当に出ていただけるんですか?
まだ決まってませんが。もし五冠が出てくださればそれだけで、話題も十分。ぜひお願いしたいです。」
行洋は表情を変えずに頷いた。
「日時の調整は棋院に任せるが、ぜひ出たいと思っている。」
ほう、五冠奪取といい、先生はこのところ、いやに張り切っているな。
アキラ君も調子がよさそうだし、そのせいもあるのかな。
そう思って聞いていた緒方だが、その後の行洋の言葉に驚いた。
「が、その代わり、相手を指名させて貰いたい。」
傍にいたアキラも驚いて思わず父親の顔を見た。まさか…
「誰を指名されるのですか?」
天野は興味深そうに尋ねた。
進藤ヒカル
それが父親の口から出た名前だった。
アキラはじっと父親を見つめていた。
なぜお父さんは進藤のことを知ってるのか?
もしかしてお父さんはいつもプロ試験に気を配っているのだろうか?
たまたま今まではお父さんの意に叶う棋士が出てこなかっただけで。
そうすると進藤はお父さんのメガネに叶っているのだろうか?
だとしたら一体どうやって進藤の碁を知ったのだろう。
お父さんと森下先生が親しいから、教えてもらった?
でも、それはありえないことだとアキラには分かっていた。
次々と疑問が出てきた。
アキラはそんなことはある筈がないと、頭に浮かんだある考えを打ち消した。
それでもその考えはアキラの中で膨らんでいくばかりだった。
アキラの頭の中にはぼんやりと佐為の姿があった。
そしてそこに重なるようにヒカルの姿が浮かんだ。
天野は行洋と新初段戦の約束をして帰る支度をしながら考えを巡らした。
話題性といえば、去年、塔矢君と父子対局してくれたほうが話題はあったろうけど、それは塔矢先生の性格からいってできないことだったろうな。
まあ進藤君は今年一位でプロ試験を通過したのだから、五冠が相手をするには話題性は十分だろう。
それとも塔矢先生が進藤君を指名した意味は、一位通過という以外に、ほかに何かあるのかな?
天野は門まで送りに来たアキラに聞いてみた。
「塔矢先生は進藤君を知っているの?会った事あるのかな?」
「さあ、僕には分かりません。」
「塔矢君は知ってるの?進藤君を。」
「ええ。知ってます。」
アキラは言葉少なに返事をした。
アキラ君が知ってるからか。
車に乗り込んでから、天野は気がついた。
そうだ。アキラ君と進藤君がどういう知り合いなのか聞くのを忘れた。
緒方は少し下がった場所で、じっとアキラの様子を眺めていた。
アキラのことは小さい頃から知っている緒方だった。
だから今のアキラの口調の中に何かを感じた。
緒方はさりげなくアキラに尋ねた。
「アキラ君は進藤とどういう知り合いなんだ?」
「どういうって。若獅子戦で対戦したことがありますけど。」
アキラは努めて平静に答えた。
「それだけか?」
「それだけって?」
アキラは何と言っていいか分からなかった。
自分でもヒカルと実際どういう関係か分からないのだから。
「僕には分かりませんけど、進藤の家は碁サロンの近くらしいですから。
何度か碁サロンには来てるみたいですけど。僕も2度ほど会いましたよ。」
緒方は、そう言って玄関に向うアキラの後姿を見つめていた。
これは面白そうだ。何があったにせよ、進藤ヒカルというのは塔矢アキラがそれほど気にする相手なのか。
そしてあの塔矢行洋までもが興味を抱く人物か。
もしかしてアキラ君の様子がここしばらくおかしかったのは、saiのせいじゃなくて、その進藤という子が影響してるのじゃないか。
緒方は独特の勘でそう感じとった。
11月も間もなく終わりというその日、約束の日だった。
佐為は二度目の訪問となる塔矢邸の門の前に立つと、ふうっと息を吐いた。
あの者は五冠になって、私を迎えてくれている。
もう何も色々考えるのはよそう。ただ対局に集中しよう。
それから佐為は、インターホンを押した。
明子の声がした。
「お待ちしておりました。さあ、どうぞ。」
佐為は軽く頭を下げると玄関に足を踏み入れた。
そこにはもうあの者の気迫が感じられた。
佐為はその気に触れて、嬉しさがこみ上げてきた。
私の気も研ぎ澄まされる。
その日、アキラは午後早くに学校から戻ってきた。
「あら。アキラさん。今日は半ドンだったかしら?」
「お母さん。もうすぐ三時ですよ。それより誰かお客さん?」
アキラはお茶の支度に余念がない母に聞いた。
「お父さんのこと? ええ、碁を打ちに来られてるのよ。
またお食事抜きかしら。そろそろ何か用意した方がいいかしら。
アキラさん、ちょっと見てきてちょうだい。」
アキラは、母が普段と違ってそわそわしているのを不思議に思いながら座敷に向った。
碁を打ちにって、誰だろう?倉田さんとか?
いや違う。だったらお母さんはもっと普通の筈だし。
ふすまをそっと開けて、アキラは驚愕した。
何故、父があの人と…。
アキラはそのまま母のところへ戻った。
「お母さん。あの人を知ってるのですか?」
「えっ?あの人って? ああ、サイさんのことね。ええ、前にもいらしてるし。
アキラさん。どうしてそんなことを聞くの?」
アキラは、眩暈がする気がした。
何かが僕をすり抜けている?
アキラは、そのままそっと座敷に入った。邪魔をしないように、碁盤の近くに座った。
盤面は互角?いやお父さんの方がいいのかな。
いつもは対局者の力がsaiさんに及ばないから、そのすごさが見過ごされてしまう。
でもこれは卓越した力が互いに拮抗しあっている対局だ。
拮抗した盤面に白がすっとわりこんできた。
saiさんのいつもの手だ。
そこ以外のどこに置くというのか。そういう絶妙な一手。
これでお父さんの分が僅かに悪くなった?
しかし半目の攻防はその後も続いた。
終局図はアキラにも分かった。
ふうというため息ともつかない空気が流れた。
終わったのだ。
「検討をお願い…」と言いかけた佐為の体が、ふらっと揺れた。
傍にいたアキラが慌てて支えた。
青い顔をした佐為は「すみません。大丈夫です。」と言った。
しかし佐為は体を真っ直ぐ起こすことができず、畳に手をついて、なかなか動くことが出来なかった。
その様子を見て行洋が「アキラ」と促した。
アキラは立ち上がって部屋を急いで出て行った。
「どこかお具合が悪いのか。」
行洋の問いに佐為は弱弱しく微笑んだ。
「醜態をお見せしました。打っている間は集中しているので大丈夫なのですが。
いつものことです。今日は先生のような方とこれだけの一局を打ったので、少し消耗が激しいようです。でも少し休めばすぐ良くなります。」
明子が部屋を覗いた。
「隣の部屋に布団を敷きました。少し休まれるといいですわ。」
佐為は頭を下げて、「ありがとうございます。」と言った。
「医者を呼んだ方がいいですかな。どなたかに連絡でも。」
そういう問に佐為は言った。
「お医者は大丈夫です。実はヒカルに。進藤ヒカルが後でこちらへ来ることになっております。
こういうこともあろうかと、迎えに来るように私が頼みました。
学校が引けてからまっすぐこちらへ来ると申しておりました。」
「そうですか。ではいらしたら、お声をかけますから、それまではどうぞお休みください。」