プロ試験からヒカル新初段戦まで。行洋vs佐為、緒方vs佐為。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、行洋、明子、緒方、アキラ、越智、伊角、本田、和谷、森下、座間、白川、篠田、正夫、美津子、タマ子先生、河合、道玄坂マスター、天野)
ヒカルは、学校が終わると大急ぎで、行洋の邸に向かった。
佐為は、大丈夫かな。まさか、塔矢先生の目の前で服だけ残して消えてないよな。
そうならないようにと、何度か佐為と二人でいろいろ試してみたんだから。
だから今日はきっと大丈夫と思うけれど。
ここが塔矢先生の家?
ヒカルは、行洋の邸の前で、その立派な構えに少しびびった。
何か、やけにでかい家じゃないか。偉い人が住んでそうな。
それから思い返した。
まあ、平安の佐為の邸も考えてみるとこんなもんかもな。
ヒカルがインターホンを押すと、すぐに玄関の戸が開き、アキラが顔を出した。
「何でお前がいるんだよ。」
ヒカルは思わず言った。
アキラはアキラで、むすっとしたように答えた。
「何でって、ここは僕の家だ。自分の家にいて、何がいけない。」
「そんなこと別に言ってねえよ。」
そこへ明子が顔を覗かせた。
「アキラさん、何をしているの。早く入って頂きなさい。」
それからヒカルを見た。
「あなたが」
「進藤ヒカルです。」
「サイさんから伺ってます。どうぞ。」
ヒカルが案内された部屋には佐為がいなかった。
行洋だけがいた。ヒカルはどきんとした。佐為の服はないけど…。
「君が進藤君か。まあ座りなさい。」
ヒカルはぺこんと挨拶して座った。
アキラもすぐ隣に座った。
「サイさんは少し気分が悪いと言われてな、今隣の部屋で休んでもらっている。」
その言葉にヒカルはほっと安堵の表情を見せた。
「サイさんはどこか悪いのか。」
行洋の問いにヒカルは何と言っていいかわからなかったが答えた。
「夏の間、具合が悪くてずっと自分の家で安静にしてたんです。でも涼しくなって少し元気になって出歩けるようになったんです。」
行洋はそうかと言うように頷いただけだった。
「今日は私はサイさんと対局をした。三度目になるかな。そのことは知っていると思うが。」
「聞いてます。」
「今日の碁を並べて見せよう。私が先番だ。」
アキラは何となく面白くなかった。
進藤とお父さんは初めて会ったらしいけれど、何か通じ合ってる気がする。
僕はお父さんが三回もサイさんと打った話なんて聞いてないし。
お父さんは僕にはさっきの碁を並べてみることもしなかったのに。
行洋は淡々と初手から並べ始めた。ヒカルはじっとそれを見つめた。
二人の白熱した手が盤面に蘇っていった。
もうすぐ終局になる。
ヒカルは息をつめて、その先の一手を見つめた。
と、行洋の手が止まった。
「進藤君が私だったら、この次をどう打つかな。」
アキラは驚愕した。
お父さんは何を考えているのだろう。進藤に何を期待している?
ヒカルは行洋に言われて、じっと盤面を見据えた。
次の一手が勝敗を分けるんだ。だから塔矢先生は俺に尋ねている。
今目の前にいるのは佐為。俺はその佐為に対してどう打つか。
ヒカルはただ盤面に集中した。
その様子をじっと行洋は見ていた。
しばらくしてヒカルは黒石を持つと、すっと置いた。
「これで黒の半目勝です。」
行洋は楽しそうに頷いた。
「そうだ。進藤君。これで君と打つのが本当に楽しみになったよ。」
「俺と打つ?」
ヒカルは訝しげに聞き返した。
「ああ、日にちが決まらないから、まだ聞いていないのかな。新初段戦のことは。」
「塔矢先生が俺の相手?」
ヒカルは驚いたように言った。
「父が君を指名したんだよ。」
アキラが言った。
その時、ヒカルは、アキラもだが、佐為がふすまを開けて、今のヒカルの一手を見ていたことに気がついた。
「佐為。良かった。大丈夫だったんだ。」
ヒカルはほっとしたように言った。
佐為は軽く頷くと、ヒカルの隣に座った。
「ヒカル、今の一手を見ましたよ。私はあなたがとても誇らしい。」
それから、佐為は行洋を見た。
「本当にご心配をおかけしましたが、ヒカルが迎えに来てくれたので安心です。
今日はいろいろお話する筈でしたが、すぐ失礼したいと思います。」
行洋は残念そうに言った。
「私も今日はじっくりあなたの事を聞きたかったが。
どうしてあなたのような人が今私の目の前にいるのかを。」
「私は、前にも言ったように、神の一手を極めるためにあるのです。
ですから時を旅して、あなたのところへ来たのですよ。
神の一手に近いといわれるあなたと打ち合うために。」
佐為は明快に答えた。
行洋はその話を楽しそうに聞いた。
「そうなのですか。ならば、私は実に幸運な男だ。」
それからヒカルに向かって言った。
「進藤君、新初段戦を楽しみにしているよ。まだ少々時間がある。
サイさんは、その間、きっと弟子をさらに鍛えるのでしょうな。」
佐為はきらっと目を光らせた。
「ヒカルの潜在能力はたった今、あなたも理解なされたのですよね。
それが対局でも生かされるようになって欲しいというのが私の願いです。
もちろん今日のリベンジは、私自身が次の機会にさせて頂きますから。」
「のぞむところですよ。日時は改めてということでよろしいですか。」
「はい。ヒカルに知らせてくだされば、たいていは大丈夫です。」
「そうですな。では日にちは進藤君に伝えましょう。
何せあなたは時の旅に出られると仰るのですから、なかなかに捕まりにくそうだ。」
冗談を楽しむように行洋は言った。
その様子にアキラは、愕然とした。
お父さんが人と冗談を言い合う。それも笑いあいながら?信じられない。
佐為はヒカルを促し、立ち上がった。
佐為とヒカルが帰った後、布団や何やかやを片付けていた明子が言った。
「あら、ジャケットを忘れていらしたのね。今日はこの季節にしては暖かい方だけど。」
アキラはそれを見て、いきなりジャケットを掴んだ。
「まだ遠くまで行ってないと思うので、僕が届けてきます。」
アキラはそのまま、飛ぶように出て行った。
明子は、その様子にぽかんとした。
「あら、まあ。アキラさんたら自分がコートを着るのを忘れて行ったわ。」
ヒカルと佐為は通りを歩いていた。駅が近くなった時佐為は言った。
「ヒカル、これを返します。」
ヒカルの時の石だった。
「石の力を維持させたいと思ったとたん、眩暈がしてしまいました。
あなたとも会えなくなるなんてことが起きたら。
これ以上これを持っているわけには行きません。
ここまで来れば大丈夫でしょう。ヒカル。後は頼みますね。」
ヒカルは、こくんと頷いてそれを受け取った。
ジャケットを抱えて、走ってきたアキラは、二人が立ち止まって話をしている姿を見つけた。
しかし、なぜか傍に行くのをためらった。
進藤とサイさんの間には何かある。
今、僕が入っていけない何かがある。
いや、僕はただジャケットを渡せばいいのだ。
二人の間に割り込もうとかするわけじゃないんだ。
そう思いながらも、アキラはどうしても二人に声をかけることができず、そっと隠れるようにして二人の姿を見 つめていた。
その時だった。
二人の人影が急にひとりになった?
一瞬のことだった。
一瞬の後、アキラの目の前に立っているのはヒカルだけだった。
サイさんは?
消えた?
信じられない光景をアキラは呆然と見つめていた。
今しがたそこに立っていて、それが煙のように一瞬で消えた?
ヒカルは手早く拾い集めた服をリュックと持ってきた袋に詰め込んだ。
それから辺りを見回し、誰もいないなと、ほっとした様子で、駅のホームに向っていった。
アキラが見ていたことには気づかなかった。
電車を待つ間、ヒカルはホームのベンチにどさっと腰を下ろした。
緊張が続いて、ひどく疲れていた。
佐為が塔矢先生の前で消えなくて本当に良かったぜ。
先生、時の旅って佐為が言った時、笑ってたな。
信じてない?冗談だと思ったのかなあ。
まあ、何にしても、とにかく良かった。この石が役に立って。
ヒカルは首にぶら下げた石にそっと手を当てた。
佐為のぬくもりがまだ残っていた。
これがある限り、佐為と一緒だ。
その時だった。
「進藤。」
そう呼ばれ、びくっとしてヒカルは声の方を振り向いた。
目の前にアキラが立った。
「な、なんだよ。」
また塔矢かよ。いつも突然に現れて心臓に悪い奴だよな。
アキラにしてみれば心臓に悪いのは、佐為とヒカルに違いなかった。
「サイさんはどうした。」
「帰ったよ。」
「帰った?どこに?」
「どこにって知らないよ。自分の家だろ。どこだっていいだろ。」
ヒカルは絶対言うもんかと決めて挑戦的にアキラを見た。
「サイさんは」
アキラが言いかけると、ヒカルはうるさそうにアキラを見た。
「まだ何かあるのか?」
アキラは先ほど見た光景について何か尋ねたいと思ったが、どうしても聞けなかった。
代りに言った。
「いや、いいよ。ただジャッケットを忘れていったから、持ってきたんだけど。」
ヒカルはアキラが差し出したジャケットをひったくるように受け取った。
「あっ、ありがとう。今度佐為に会えたら返すよ。」
ヒカルはそう言うと、ちょうど来た電車に飛び乗った。
電車のドアが閉まるとほっとした。
やれやれ、いいところに電車が来てくれた。
アキラは、ぐるぐるした思いで、その電車を見えなくなるまで見送った。
アキラが家に戻ると、両親は茶の間でお茶を飲んでいた。
「渡せたの。アキラさん。」
アキラはとっさに口をついて出た。
「ちょうど電車が出発する直前で、何とか渡せました。」
「そうか。」
行洋はそう言っただけだった。
アキラは思い切って聞いた。
「お父さん。進藤のことは、どうして知ったんですか。」
行洋はじっとアキラの顔を見た。
「アキラは前から進藤君のことを知っているのか。
私は、たまたま碁サロンに来たサイさんから聞いたのだが。」
「サイさんがたまたま碁サロンに…」
アキラはおうむ返しに呟いた。
たまたま僕でなくて、お父さんがいたのか…
「進藤君はアキラさんと同じ年なのね。学校は海王じゃないわね。」
「ええ、彼は葉瀬中です。彼も碁サロンにきたことがあるのです。それで知ってます。」
「ほう、いつ会ったのかね。」
アキラは自分が聞くつもりで逆にしゃべらされてるという気がした。
だが、さっき見た信じられない光景を言いだせなかった。
とにかく進藤に問いたださなければ言えない。
それで、行洋に向かって話し始めた。
2年ほど前に初めて碁サロンでヒカルに会ったこと。
その時は碁を始めたばかりということで石取りゲームの相手をしたこと。
その後、海王中で開かれていた中学生の囲碁大会で見かけたことを話した。
「それは去年のことか。」
行洋は言った。
「あら、それじゃあ、随分久しぶりに会ったのね。」
明子は無邪気にそう言った。
アキラは何ともいえない顔をした。
口早に付け加えた。
「進藤とは、今年の五月の若獅子戦で対局しましたよ。」
行洋は取り立ててそれ以上聞かなかった。
「ひと月あれば…」
ただそう呟くと、何事か考え込んだ。