プロ試験からヒカル新初段戦まで。行洋vs佐為、緒方vs佐為。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、行洋、明子、緒方、アキラ、越智、伊角、本田、和谷、森下、座間、白川、篠田、正夫、美津子、タマ子先生、河合、道玄坂マスター、天野)
ヒカルはアキラが渡した上着を無理やり袋に突っ込むと、電車の窓から、遠くなるホームを見た。
アキラがまだホームの端に立って、じっと電車を見送っているのが見えた。
塔矢の奴…。
あいつ…。
そう呟きながらヒカルは、何となくアキラにすまないと思った。
塔矢の奴、まだ佐為と打ちたがってるんだ。
さっき、言えばよかったのか?佐為のこと。
いや、でも何て言えばいい?
佐為も塔矢先生に言ってたじゃないか。時の旅をしてきたって。でも、多分本気にしてなかったよな。塔矢先生。
塔矢だってそれを聞いていたんだ。
でも塔矢の奴は生真面目そうだし、塔矢先生よりもっと信じてないよな。時の旅なんて。
それからヒカルはそっと胸の石を押さえた。
石が、もっと力を戻したら、きっと佐為と打たせてやるよ。
塔矢先生の家でなら、塔矢とも打てるじゃないか。
今日だって、もし佐為が具合が悪くならなかったら、塔矢とも打てたんだ。
ヒカルが家に戻ったのは、夕飯時を過ぎていた。
美津子は少しきつい声で言った。
「ヒカル?どこに行っていたの?遅くなるんだったら、ちゃんと連絡して頂戴。」
「分かった。」
ヒカルはぶすっと答えて、佐為の履いていた靴を靴箱に戻すと、袋を抱えて自分の部屋に上がった。
今更、お母さんに佐為のことを説明なんてできないし。お父さんもまだ戻ってないし。
ヒカルは、今日ばかりは佐為が、あそこで消えていて本当に良かったと思った。
母親が暖めなおしてくれた夕食を食べ終えると、ヒカルは風呂にも入らず、部屋に戻り、ごろんとベッドに横たわった。
何か特別にしたわけでもないのに、なぜか体がひどくだるかった。
佐為は大丈夫だろうか。また夏みたいに寝込んでいるんじゃないか。塔矢先生、俺と打つの楽しみにしてた。俺あの幽玄の間で打つんだ…。
今日のことをあれやこれや思い返すうちに、ヒカルはそのまま寝込んでしまった。
翌日、ヒカルは恐る恐る石をかざしてみた。石は大丈夫そうだった。
ヒカルは、それが分かると、すぐに佐為の元へと向った。
佐為は特に具合が悪いでもなく、普通に邸に居た。
前みたいに寝込んでいるのではないかと思っていたヒカルは、佐為が案外元気そうなので、ほっとした。
佐為の方もヒカルの顔を見て安心したようだった。
「来れたのですね。ヒカル。本当に良かった。」
「俺の石は大丈夫だよ。ほら、石が元気そうだろ。俺みたいに。」
ヒカルは安心させるように石を見せて言った。
佐為は、ヒカルの言葉に少し笑った。
それから何気ない風に言った。
「ヒカル、私は決めた。当分私は時の旅はせぬ。ヒカルを鍛えることに専念する。ヒカルの新初段戦に向けて。
私は、あの者とのリベンジ戦に向けて、自分の石に余計な負担をかけたくはないのだ。」
ヒカルはきっぱりと答えた。
「うん。分かった。俺、頑張るよ。恥ずかしくない戦いをしてみせる。」
「ええ、信じてますよ、ヒカルを。」
佐為は思いの篭った口調で、静かに言った。
佐為の並々ならぬ思いは、ヒカルへの指導に表れていた。
佐為は俺を勝たせるために、力を尽くしてくれている。
佐為のすべてを貰ってる気がする。
ヒカルはそう感じていた。
今までも佐為はヒカルの相手をしてきたが、今回はそれ以上に熱が篭っていた。
塔矢先生も俺が佐為にどう指導されたかを見たがっている。そのために俺を指名したんだ。
自分を通して、佐為と塔矢行洋が、対峙している。
そんな感覚がヒカルを包み込んでいたから、ヒカルも佐為の今までにない厳しい特訓に耐えた。
ヒカルが真剣な眼差しで碁盤を見つめているのを眺めながら佐為は思った。
ヒカルは今私と互い戦で打っている。ヒカルが時々放つハッとさせる閃きは私にもすばらしい刺激をくれる。その閃きを先に繋ぐ手立てをヒカルと検討すると、思いもかけなかった新しい世界が私の前にも広がることがある。才能を育てるということは何とすばらしいことか。
指導とはいえ、実に楽しい。
佐為は考え込んでいたヒカルが置いた場所を見て、声をかけた。
「ヒカル。そこでは、先ほど置いた石を今一つ生かせない。」
ヒカルは、そう言われて、眉根を寄せて、また考え始めた。
佐為の様子は明らかに変わっていた。
佐為は平安貴族の生活を取り戻していた。
帝の囲碁指南にも要請があればきちんと出かけていった。
導師も目を見張る日々だった。
導師はヒカルが大切な相手との対局を控えて、そのために特訓を受けているということは聞いていた。
だが、佐為があんなに大人しく日々をすごしているのは少々気味が悪いことだ。
ヒカル殿の指導に賭けているのか?それとも他に何かあるのか?
佐為が一言もヒカル殿の時代へ行きたいと言わぬとは、どうしたことか。
見た目では、体の具合は悪くなさそうだというに。
導師にはそのことが、腑に落ちなかった。
その日、導師は佐為の邸を訪れた。
ちょうど、佐為が帝の元から戻ってきたところに行き合わせた。
「今日はヒカル殿もおらぬ事だし、久しぶりにわしと一局打ってくれるか。」
「はい。喜んで。今日は良いことがございましたから。」
佐為は微笑みながら言った。
「良いこと?どんなことかな?」
導師と一局交えながら、佐為は話した。
「以前帝から願い事を聞くように言われていたことをお話しましたが。」
「ああ、何か良いことを頼まれたのか?」
「いえ、そうではなくて。今日帝が言われたのです。佐為よ、もう頼み事はなくなったと。それが良いことです。」
導師は眉をひそめた。
「それはどういうことであろうか?その頼みごととはどんなことか、知っているか?」
「いいえ。私も内心、何を頼まれるかと、気にはしていたのですが。でももう終わったのです。帝がそう言われたのですから。」
佐為は帝とは囲碁を通して、お傍にいる機会を持てたが、政(まつりごと)には無関係の場にいたので、事情というものには疎かった。とにかく帝がそう言われるのだったら、それはそれで終わりなのだ。
「とにかく、私はほっとしています。」
何かとてつもないことに巻き込まれるのは嫌だと、そういう思いで、佐為は言った。
導師はそれでも心配していた。
佐為はもう頼まれごとがなくなったと聞いて喜んでいるが、なくなってしまったということは、どういう事情によるものなのか。それはそれで、必ず何かが起きる。佐為が巻き込まれなければ良いが。
佐為は確かに政(まつりごと)とは縁がない。しかし関わりがないというのは、かえって利用される恐れが大きいものなのだ。
導師はなんとなく胸騒ぎがしてならなかった。
佐為は無防備すぎる。帝の周りでは常に策が巡らされているものなのだ。とにかく用心していなくてはならぬ。
翌日から、導師は、帝の周辺について、ひそかに探りを入れ始めた。
導師はその時、すでに一つの決心を固めていた。
まだ佐為にいう段階ではないが、私ももう年だ。いつまでも佐為のそばについていることはできない。
まだ動ける今のうちに…。
導師が密かに事を運んでいる時、佐為もまた胸に納めていることがあった。
導師にもヒカルにも話していないことだった。
このことは当分誰にもいえぬ。
導師は反対されるに決まっている。ヒカルは…。いや、
佐為は雑念を払うように目を閉じた。
ヒカルは私が夢を抱ける唯一のもの。だからこそ私は今ヒカルにすべてを委ねたい…。
今はこれしか道がないのだから…。