プロ試験からヒカル新初段戦まで。行洋vs佐為、緒方vs佐為。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、行洋、明子、緒方、アキラ、越智、伊角、本田、和谷、森下、座間、白川、篠田、正夫、美津子、タマ子先生、河合、道玄坂マスター、天野)
院生研修か。久しぶりだな。
大部屋を覗きながら、緒方は思った。
「緒方先生じゃないですか。どうされました?」
院生師範の篠田が先に気がついて、緒方に声をかけた。
「あ、いや。用事のついでに、ちょっとのぞかせてもらいましたよ。
そういえば、今年の合格者は全員院生でしたね。どうですか。期待が持てそうですか。」
緒方は、行洋のところで新初段戦の話を聞いてから、俄然興味を持ったヒカルについて、情報収集を始めていたのだ。院生だったのだから、篠田に聞くのが手っ取り早い。そう思ってきたのだった。
「ええ、昨年は、一人だけでしたからね。私は今年の3人には特に期待していますよ。どの子もそれぞれ個性が違っていて面白い。」
篠田は嬉しそうに答えた。
「やはり一位合格の子が一番ですか。」
「進藤君ですか。あ、どうでしょうか。でも、そうですね、進藤君は、実に面白い子ですよ。見事化けてくれました。先行きが楽しみですよ。
特に試験の最終局はすごかったですよ。互いに既に合格が決まっていた者同士の対局でしたが、消化試合とはとても思えないものでしたよ。
相手の越智君は、どういうわけか対局前から進藤君を随分意識していました。つい二ヵ月ほど前の院生対局の結果で見ると、越智君が絶対有利だったので、何をそこまで力むのかと思ったのですがね。対局を見て理解しましたよ。
その時は進藤君のこれでもかという強さが出て、彼が勝ちました。越智君が恐れていたのはこれだったのかと合点がいきました。進藤君はその対局で越智君を突き放しましたね。ただこれからですね。抜きつ抜かれつ、切磋琢磨する相手が居るというのは何よりも力になることですね。」
「とすると、二人ともライバルとして院生時代を過ごしたのですか。」
「進藤君と越智君がライバルですか?うーん。ライバルねえ。どうでしょうか。
越智君は院生になった時から安定した強さを持ってました。手堅く安定している子です。
進藤君は。そうですね。進藤君を表すのに、安定という言葉は一番当てはまらないですね。
彼は院生対局では結構山あり谷ありだったんじゃないですかね。それを必死に乗り越えてきた。
そうはいっても、とにかく二人とも院生になって一年に満たない内にプロですからね。
私は和谷君も含め、今年の三名には大いに期待してますよ。」
進藤というのは、かなり面白そうな奴らしい。
緒方は、院生試験の推薦状を書いたという白川を捕まえることにした。
白川は、高段者の手合を終えて、帰ろうとしていた時に、緒方が急に声をかけてきたのに少し驚いた。
「進藤君ですか?緒方先生、進藤君に関心がおありなのですか?」
白川はそのことに逆に興味を抱いたようだった。
「ええ、塔矢アキラの知り合いだと聞きましてね。彼はプロ試験を一位で突破したそうじゃないですか。白川さんは、いつから進藤を教えているんです?」
「え、いやあ、教えるというか。私は進藤君に碁の手ほどきを少々は、しましたが。でもそれだけなんですよ。」
私は考えてみれば進藤君の最初の師なんですかね。そんな風には考えなかったけれど。でも進藤君は、あの才能は注目されているんですね。緒方さんまで興味を抱くなんて。
白川は嬉しそうにヒカルについて知っていることを話した。
話を聞きながら緒方は思った。
石取りゲーム?とすると、進藤は、碁をこの白川の手ほどきで始めたのか。それも二年ほど前に?
二年でプロになった?聞いたことのあるパターンだな。
緒方は先日対局した倉田五段のことを思い浮かべた。
「進藤君とは森下先生の研究会で打つことがありますけど、毎回驚くほど力をつけていくのですよ。
本当にどこまで伸びていくのか、恐ろしいほどですよ。
それに検討の時も面白い発想をしますしね。
ああ、でも、そうなんですか。進藤君は、塔矢君に追いつきたいとずっと頑張っていましたけど、個人的にもそんなに親しいのですか。
そういえば、塔矢君が海王中に行くとかいう話をしていたことがありましたねえ。」
白川の質問を緒方は適当にごまかした。
帰る道々考えていた。
塔矢行洋は倉田に一目置いている。倉田並みの成長をしてる子に興味を抱いたか?
だが、それでもあの塔矢行洋が指名してまで、対局する理由にはならない。
これはやはり、アキラ君と関わりのあることなのか。
あるいは、先生は、もしかして碁会所で進藤を指導したことがあるのじゃないか。
多分そうに違いない。塔矢行洋が気にかける何かを持っている子どもか。
これは面白いことになりそうだ。
どちらにしても、新初段戦で、どの程度の腕前か、どんな碁を打つのか確かめてやる。
ヒカルの新初段戦は、越智や和谷より早かったが、結局一月の下旬になった。
塔矢五冠が忙しくて、なかなか日程が取れなかったからだ。
ヒカルはその日の朝、張り切って目を覚ました。ここしばらく、この日のためにひたすら頑張ってきたのだ。
俺は今日、あそこで、佐為を背負って戦うんだ。
佐為には気負わないようにと言われているけれど。
でも佐為は塔矢先生とは打っているけど、幽玄の間では戦えないから。
とにかく恥ずかしくない対局をして見せるぞ。
対局は午後からだけど、その前に写真撮影やらなにやらあるということで、ヒカルは早めに棋院へ行かなければならなかった。
でもその前に行く所がある。
ヒカルはリュックを背負って、階段を下りていった。
「あら、ヒカル?もう出かけるの?まだ十時前よ。」
「うん。ちょっと祖父ちゃんのとこへ寄ってから行くんだ。」
「あ、ヒカル待って。私も今出かけるところだから、途中まで一緒に行きましょう。」
美津子はそう声をかけた。
「ええ、お母さんと?やだよ。先行く。」
ヒカルは、ばっと走り出した。
「あら、まあ。」
美津子は少し苦笑した。
甘えているのかと思えば、突っ張っているようでもあり。
でも中学生になると、親とは歩きたくないものかしら。
そう呟きながら、美津子は玄関に鍵をかけ、家を後にした。
その後、数分も経たないうちに、ヒカルの部屋に一つの光が落ちた。
佐為だった。
「何とか、来ることだけは出来たが。」
佐為はそう言って、ヒカルの部屋を見渡した。
この部屋をまた目にすることが出来るとは。
佐為はぐるりと見渡した。
ヒカルの洋服ダンスやベッド。机。そしてきちんと布をかけて隅に置かれている碁盤。
ここの光景を頭に刻み付けて置きたい。
佐為は塔矢行洋邸での対局で倒れた後、平安に戻った時、悟ったことがあった。
それは石を使い続けてきた者だけが分かる感覚だった。
今日は私に残された大切な日なのだ。
私が時の旅を封印してきたのは、この日のためなのだ。
私のリベンジ戦ではなくヒカルの新初段戦のためなのだ。
とにかく、ヒカルが出かけていて良かった。対局の前にヒカルには余計な不安を与えたくはない。
対局は確か昼過ぎからといっていたが。
佐為は時計を確かめた。
まだ時間は十分にある。
佐為は、ヒカルの机に向い、傍にあった紙に何事か書き始めた。
書き終えると、着替えをし、ヒカルがいつも用意している、引き出しを開け、手紙をそこに納めた。
それからヒカルの石を手に取ると、そっと自分の首にかけた。
用意を終えると、佐為はヒカルの家を出発した。
市谷の駅を降りたが、まだ時間がかなりあった。
佐為はコーヒーショップへ入った。
佐為はゆっくりとコーヒーを味わった。
私はまたこの美味な飲み物を味わうことがあるのだろうか。
通りを行きかう人を見ながら思った。
そろそろ時間だ。
佐為は名残惜しげにコーヒーを飲み干し、棋院へ向った。
入る前に棋院の建物を眺めた。
ここはこれからヒカルが打ち続ける場となるところだ。私はここを心に留めておく。
ヒカルは今日、あの幽玄の間で、あの者と打つのだ。
たとえハンデがあろうと、ヒカルにはまたとない経験になる。そして私にとっても…。
この日のために私はヒカルに出来るだけのことをした。
私の全てをヒカルに注いだ。これがおそらくは力の全て。いや、そうなったとしても私には悔いはない。
だから私はその様子をこの目で見ていたいのだ。そのくらいは神もお許しになるだろう。
幽玄の間を覗きたい気持を佐為は抑えた。
私が来ていることをヒカルに知られるのはまずい。
佐為はまっすぐ、モニタールームに向った。
自分が最初かと思いながら、ドアを開けると、既に先客が一人いた。
先客は興味深げに佐為を見た。
「ほう、またお会いしたな。お前さんとは縁があるのかな。」
この者は、あの時の。いつぞや棋院であったあの老人。私の力を知っている。何者か。
そう思いながら、佐為は頭を下げて挨拶した。
「私は部外者ですが、どうしても様子を知りたく、こちらへ来てしまいました。皆様の邪魔にならないようにしておりますので、よろしくお願いいたします。」
佐為は桑原とは離れたところに、腰を下ろした。
「ほう、部外者とな。大切な教え子なのだから部外者とは言い切れないと思うが。まあ良いわ。」
桑原は、そこで話すのをやめた。ちょうどドアを開けて緒方が入ってきたからだ。