ヒカル新初段戦からプロ対局、塔矢行洋引退
(主な登場人物…ヒカル、佐為、緒方、桑原、和谷、越智、アキラ、行洋、天野、導師、美夢、紅、美津子、明子、倉田)
「桑原先生?」
緒方は驚きを隠しきれない様子で言った。隅にいる佐為のことはちらと見たが、気にしなかった。
とにかく桑原がモニタールームに居るという予想外のことへの驚きが大きかったからだ。
「緒方君か。久しぶりじゃのう。面と向うのは本因坊戦以来かの。」
桑原は先制したという余裕で、声をかけた。
「あの時は勉強させていただきましたよ。」
緒方は何とか平然さを装って、桑原の斜向かいに座った。
「なかなか最近は調子いいらしいの。倉田君をものの見事に負かしたそうじゃないか。」
「先生はその反対のようですね。」
「もう年じゃ。欲はかかんよ。本因坊のタイトルだけは誰にも渡さんがの。」
「その本因坊がどうしてここに?」
緒方はずばりと聞き返した。
佐為はひっそりと、だが興味深げに二人の会話に耳を傾けていた。
本因坊のタイトル?そうか、この老人は本因坊なのか。そういえば、本因坊家はもうないと聞いているが。
この老人は、あの時私を見抜いていた。相当の腕の持ち主だ。
この本因坊と打ち合ってみたいものだ。きっとあの者とは違った趣の碁を打つに違いない。
それから、佐為は、前に雑誌で見た、本因坊戦の棋譜のいくつかをぼんやりと思い返した。
ヒカルといくつか検討していたのだ。
この緒方という男。この男もまたなかなかの腕前と見たが、打ち合ってみたい。
佐為は緒方がネット碁で打ちあった相手だとは、知らなかったのでそう思った。
この二人、あの頃の。 虎次郎の頃の強豪の匂いがする。
そういう者がごろごろと居るのだ。 この時代にも。
そしてそこはヒカルがこれから身を置く場所なのだ。
佐為はヒカルが少々羨ましいと感じた。
あの者だけでなく、この時代のもっといろいろな者と打ち合いたいものだ。
佐為は思いに沈んでいった。
桑原は緒方に言葉を返した。
「どうしてここに来たかと?その言葉そっくりキミに返そうじゃないか。」
「今日は高々、新初段戦の対局。いくら名人が打つといって、緒方君ほどの者がわざわざ見に来るようなものじゃない。それともあの小僧に関心があるのかな。」
緒方は、その言葉に、やはりという思いで聞き返した。
「桑原先生は進藤をご存知なのですか?」
「ほう、やはり、関心があるのか。わしの勘も衰えてはないな。」
「勘?」
「そう、あ奴をちらっと見てぴんと来たのよ。シックスセンスじゃよ。」
「チラッと見ただけで?馬鹿馬鹿しい。」
緒方は腹立たしげに言った。
その時、話し声がして、少年が二人入ってきた。
「進藤が一番手。越智は再来週か。いいなあ、俺も早く打ちたいぜ。うかうかしてたら、3月に入っちゃうじゃないか。」
「和谷のとこ、まだ来ないの?」
「うん、連絡来てないよ。」
部屋に足を踏み入れようとして二人は固まった。
緒方九段と桑原本因坊?
何故?塔矢アキラなら分かるけど、なんでトッププロが二人も?
二人の頭に疑問が渦を捲いた。
それから、やっと「こんにちは。」と挨拶をした。
二人は佐為の居る側と反対の隅の方に座り、ひそひそと話した。
何で新初段の対局をトップ棋士が二人も見に来てるんだよ。
知らないよ。進藤に関心があるんじゃないか。
その時、アキラが入ってきた。
アキラは緒方が来ているかもしれないと思っていたので驚かなかったが、桑原が来ているのにはビックリした。
アキラが、自分たちを無視して、緒方たちの方へ行こうとしていると感じた越智は、すばやくアキラに声をかけた。
「こんにちは。」
アキラは振り返り、落ち着いて挨拶した。
「越智君。…こんにちは。」
和谷が小声で越智に聞いた。
「あれ?お前。塔矢と知り合いだったか?」
越智は曖昧に頷いた。
桑原は、アキラを見て、声をかけた。
「キミはたしか名人の息子じゃな?」
「はい。はじめまして。塔矢アキラと言います。」
アキラはきちんとお辞儀をして挨拶をした。
「なるほど。キミもあの小僧が気になる一人か。面白い。そして、名人も当然気にしておるのだな。」
アキラが答える前に、緒方が言った。
「塔矢先生は、進藤を指名したのですよ。」
「ほう。名人は私と同じく勘がいいからな。どうだ。緒方君。わしと賭けをせんかね。」
桑原は佐為の方は全然見ていないが、佐為には自分が話しかけられている気がした。
「逆コミ5目半のハンデはつくが、相手が塔矢行洋では厳しいの。名人が小僧にご祝儀で勝たせようとすれば別だが。」
緒方はにべもなく言った。
「先生はしませんね。で、どっちに張るんです。」
「そりゃ、小僧よ。」
「穴狙いですか。」
「何の。勝算のないばくちはせんぞ。わしは。それとも緒方君も小僧に張りたかったのかね。」
緒方はちょっと唇をかんだ。何とも言い難かった。緒方にも棋士の勘があった。
それでも緒方は言った。
「名人の門下の私としては、先生の勝は疑いませんよ。」
そういって財布から札を一枚抜き取って、テーブルに置いた。
この爺め。俺は塔矢行洋が進藤を指名したのを見た時から、ずっと進藤の事を調べてきた。
俺には裏づけがあるが、この爺は一目見ただけのシックスセンスだと?
いや、それだけじゃない。ほかにも何かあるはずだ。
だがこの爺は絶対理由を話すわけはないな。
和谷も越智もそしてアキラも唖然として二人のやり取りを聞いていた。
アキラは、それから、ちらと佐為の方を見た。
アキラには桑原に会ったこともだが、それ以上に佐為のことが気になっていた。
佐為はアキラに軽く会釈しただけで、話しかけなかったので、アキラも声をかけるのをやめた。
きっと進藤に教わって、こっそり見に来てるのかもしれない。
別に棋院関係者じゃなくちゃ、見ちゃいけないというわけじゃないけど…。
でも、もしうっかり話しかけて、今、彼がsaiさんだと分かると、それはそれでひどく面倒そうだ。
このメンバーでは特に…。
佐為はアキラが気を利かして声をかけてこなかったのでほっとしていた。
そしてその場の空気を乱さないように、ひっそりと座っていた。
ただし、心の中では、わくわくしていた。
ヒカルの存在が決して小さいものではないというのが、思いがけず喜ばしかった。
もちろん打つ碁が全てだが、それでも励みになるものは、あるほうがいい。
ヒカルのようにこれから伸びようとする者には発奮する要素は多い方がいい。
本因坊、それにこの緒方という男。
ヒカルに関心があるようだから、この者たちとヒカルが打つ機会もすぐに来るに違いない。
それよりこの場では、ともかく、私も出来れば賭けたい。もちろんヒカルにだ。
この1ヶ月ちょっとの特訓のことを考えれば、私だってこの二人の仲間に加わって…。
私は負ける賭けはしない。ヒカルはハンデをもらっているし
佐為はテーブルに置かれた万札を眺めた。
でも私はこの者たち以上に賭けているではないか。
今日は私にとって勝負の日なのだ。私は今日に向けて全てを賭けてきた。
今私の存在全てを賭けているのだから。
佐為は胸につるしたヒカルの石をそっと、抑えた。
「始まるぞ。」
和谷がモニター画面を見ながら言った。
アキラは目の片隅に佐為が静かに画面を見つめているのを意識しながら、それでも、いよいよ始まる対局に目を凝らした。
アキラの中には色々な思いがせめぎあっていた。
父とサイさんが家で対局していた。進藤はこのサイさんの弟子で。
サイさんは時を旅して神の一手を目指している?
それは何かの比喩だと思ったのに、でもあの時、消えた。まさか本当に?
いやもういい。そのサイさんは今確かに目の前にいる。逃げも隠れもしてないのだから、それは今はいい。
今は進藤だ。
進藤は、あの時、父が聞いた最後の一手を正しく示した。
僕もすぐには考え付かなかった手だった。
はじめて会った時から二年あまり。進藤は僕を追ってここまで来たのだろうか?
進藤は、今日一体どんな碁を打つのか。
進藤。今日ここで君はどんな碁を見せてくれるのか。
アキラは期待とも何とも付きかねる気持を抱いて、じっとモニターに目を凝らした。