風の石空の夢   作:さびる

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『円居』71~80
ヒカル新初段戦からプロ対局、塔矢行洋引退
(主な登場人物…ヒカル、佐為、緒方、桑原、和谷、越智、アキラ、行洋、天野、導師、美夢、紅、美津子、明子、倉田)


円居72

モニタールームは、特に話をするものもなく、静かだった。

和谷は、思った。

進藤の奴、すげえ気合入っているな。塔矢先生相手に全然、気後れもなく、攻めている。

 

試験の最終日の進藤と全然違う。ほんの三ヶ月前なのに。

塔矢が指導碁に来た時、三ヶ月前なんて、昔の話だと言っていたけど、こういうことなんだ。

そう思いながら、越智は画面に見入っているアキラをちらと見た。

 

アキラは、じっと画面に見入っていた。

僕は若獅子戦で進藤と打ったことがある。韓国の研究生と対局した棋譜も知っている。でもそれは過去のことだ。

僕は今やっと知りたかった進藤の碁を初めて見ている。

 

それは溌剌とした碁だった。新初段らしい力溢れる碁。

アキラの新初段戦も、まっすぐで力の篭った碁だったが、今回、ヒカルの新初段戦は、それとは様相は全く違って見えた。

 

あの者は、ヒカルの感性をまっすぐ受け止めている。

勿論指導碁などではない。力の入った一局だ。

それにしても、あの者がこういう碁を打つとは。

あの幽玄の間で、こんな碁を打ち合えるとは、少々羨ましいことだ。

佐為は、周囲に気づかれぬよう、ふっとため息をついた。

 

盤面が細かく埋め尽くされた時には、外はすっかり暗くなっていた。

 

「塔矢先生?」

「進藤が勝った!」

越智と和谷は、それを目にすると、すぐに立ち上がり、ばたばたと対局場の幽玄の間へと向った。

 

アキラは、行くのをためらった。

逆コミのハンデがあろうとも、父が負けたのを見たから?

いや、そういうことじゃない。

僕は、今、進藤の打ちっぷりを見た。体が震えるような碁だった。

 

その時だった。

「名人は思いっきり遊んでおったな。」

桑原はタバコの火を消しながら、悠然と、誰にともなく、そう言った。

「この対局。父が手を抜いたのですか?」

アキラは思わず、桑原の方を見て、訊ねた。

「いや、手を抜いたのではない。名人はそういうことはしないのではないか。今日も常と変わりなく、名人らしく、十分に練った手を置いていたよ。君も見たじゃろう。

楽しむというのはそういうこととは全く別のことでな。とにかく、名人は今回の対局を思いっきり、楽しんでおったのは間違いない。」

 

「先生は、タイトル戦ではこういう碁は打ちませんね。このように自由には。」

緒方はそう言って、行洋が何故、ヒカルを指名したのか、その意味が分かったと思った。

思いっきり打つか。それにしても塔矢行洋にこういう碁を打たせるとは…。進藤という奴は全く面白い。

 

桑原はアキラに向かって、付け加えるように言った。

「楽しむというのは、悪いことではない。私も久しぶりに楽しんだ。

わしは今回の名人の碁には全く驚かんが、相手をした小僧を褒めたいと思う。

名人相手によく打ったものだ。それは、勝ったということでは全く無いぞ。

のう。緒方君。君はそうは思わんか。」

「ええ、私も同感です。先生のこんな面を引き出させたとはたいした子ですよ。桑原先生と意見が合うというのは初めてのことではないですか。」

緒方は案外素直に、桑原に賛同した。

桑原はにやりと緒方を見た。

「とにもかくにも名人の勘もわしの勘もまだまだ健在だったわけだ。おまけに賭けにも勝てたしな。今日は実に面白い日だった。来て正解だった。」

 

佐為は桑原と緒方の言葉を背中で聞きながら、幽玄の間へと向っていた。

私は今の対局に、とても満足している。ヒカルの頑張りに。私は自分が打っている時と同じように充足し た気持ちを抱いている。

この気持のまま、あの者と一言だけでいい。言葉を交わしたい。

佐為の中に、そういう思いが突如、湧き上がっていた。

 

 

対局室では、行洋が満足そうな顔をしていた。

週刊碁の取材を兼ねた天野が、メモを取り出そうとすると、行洋は、軽く制し、ゆっくりと立ち上がり、「すぐ戻るから。」と部屋を出た。

越智と和谷は、出て来た行洋と、ちょうどすれ違った。

「どこへ行くのかな?」

「トイレじゃねえの。」

 

行洋は、トイレとは逆の、モニタールームへ寄ろうとしていた。

私は今日は満足している。そのことをあの者に告げたい。絶対にあの男は来ている。

行洋には、そういう確信があった。

行洋は、廊下の途中で佐為と顔を合わせた。

「あなたはきっと来ると思っていた。今日打って私は確信できた。あなたに一言、言いたかった。進藤君には碁に対する独特のセンスがある。」

 

佐為は微笑んだ。

「はい。あの興味深い閃きを生かす道をやっと示せるようになってきたようです。私も、今日そう思いました。」

行洋は賛同するように頷いた。

「あなたの薫陶の賜物ですな。先が楽しみだ。」

それだけ言うと、行洋はそのまま戻っていった。

 

帰ろうと、部屋を出た緒方は、行洋が、男と短い言葉を交わし、別れる姿を目撃した。

ほんの二言三言の会話だったが、親しげだった。いや、親しいから、二言三言で、言葉が足りているということか。

あの男は確かモニタールームで観戦していた男だ。棋院の関係者か?

やけに親しげに見えたが、一体誰だ?

 

 

緒方の背後で、緒方の疑問を分かっている様に、フォッフォッフォッと笑い声がした。

緒方が振り返ると、桑原のおかしそうな表情が目に入った。

桑原はもっともらしい口調で言った。

「私は、今日、一番早く、あのモニタールームにおったのでな。後から来た者とは、いろいろ話をすることができた。本当にいろいろとな。」

いろいろというところに力を込め、思わせぶりに言うと、桑原はからからと笑って去っていった。

 

今日はわしの完勝じゃな。何もかも。緒方君は実に楽しい男よ。

 

緒方は忌々しそうに桑原を見送り、顔を戻した。その時には、既に佐為の姿はなかった。

何故気がつかなかったのか。あの男、塔矢行洋の知り合いだが、それだけではない。

あの進藤の関係者か?一体誰だ?塔矢行洋に何の話があったのだ?

何より、忌々しいことにあのくそ爺は多分俺が知りたいことを知っているのだ。だが俺に話す筈がない。ふん。まあいいさ。いずれ分かることだ。

今帰ると、玄関辺りでまたくそ爺と顔を合わすことになるかもしれない。

折角だ。時間潰しに対局室をちょっと覗いてみるか。

進藤という子がどんな顔をしているのか、目の前で眺めてやろう。

 

緒方は腹立たしげに対局室へ向った。

 

 

アキラはいつまでも一人モニタールームに残っていた。急いで幽玄の間へ向う気にはならなかった。

桑原先生の言葉で、お父さんがいつもの対局とは違う心持で打ったのは分かったが。

今の僕にとって大切なのは、進藤の力の篭った打ち筋を目にしたことだ。

進藤はいつか追いつくと言ったけれど、ここまで追ってきたんだ。全速力でこの僕を追ってきたのだ。

そのことがアキラをわくわくした思いに駆らせていた。

僕は、今はただ、早く進藤と対局したい。それだけだ。一刻も早く、進藤と打ち合いたい。あんな碁を打つ進藤と。

 

アキラは突如立ち上がった。

そうだ。進藤に告げよう。君と早く打ちたいと。

 

アキラが部屋を出ようとしたその時、佐為が部屋に戻ってきた。

 

アキラは佐為の顔を見て、何か言おうと思った。だが、何を言えばいいのか。

そんなアキラの様子に構わず、佐為は、ほっとしたように言った。

「良かった。塔矢アキラさん。ここで会えて。すみません。お願いがあるのです。あなたにしか頼めない。あなたになら頼める。」

「僕にしか頼めない?」

「ええ。もう時間がないのです。そうでした。その前にお礼を。今日は私に声をかけないで下さって、ありがとう。助かりました。」

佐為は緊張を和らげるように少し微笑んでみせた。

アキラには効き目はなかった。

佐為の周りには、何か非常に切迫した空気が流れていて、アキラにもそれは伝わった。

「それで…。」

アキラは、佐為を促した。

「実はヒカルに渡して欲しいのです。」

 

佐為は、そう言うと、ポケットに入れていた封筒を取り出し、首からヒカルの石を外し、そっと納めた。

アキラには石は見えなかった。だからそれはまるで、不思議な厳粛な儀式を見るようだった。

アキラは神経が麻痺したようにそれを見つめた。

佐為は封筒をアキラに差し出しながら、言葉を継いだ。

「私は戻らなければならない。あなたは分かってくださるでしょう。

私は私の時代へ戻らなければならないのです。その時、この時代のものは持っていかれないのです。ですからお願いします。」

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