ヒカル新初段戦からプロ対局、塔矢行洋引退
(主な登場人物…ヒカル、佐為、緒方、桑原、和谷、越智、アキラ、行洋、天野、導師、美夢、紅、美津子、明子、倉田)
天野たちが見ている前で、行洋は初手から淡々と並べて要点を述べた。
「進藤君が、ここで打った手。これが予想外に面白い手となった。実に面白い。結局君はここからこちらへかかっていったが、他にもいくつか考えられるね。」
緒方は行洋の言い方に少し違和感を覚えた。少しはしゃいでいるようにも見える。
塔矢行洋という男は、こういう解説の仕方を余りしないと思ったが。
いやしないこともなくはないが…。もしかして有望な新人にはこういう態度を取るのか?
だいぶ遅れて幽玄の間にやってきたアキラは対局室には入らなかった。開け放されているドアに寄りかかるように、検討の様子を見ていた。だが心ここにあらずの風情だった。
「それと。ここだが。実にいいタイミングで置いたね。」
「そこは、本当はもっと早く置こうと思っていたのですけど、ぎりぎりまで粘ってみました。」
「そこが今回の勝負の分かれ目になったね。君がいつ、そこに石を置くだろうかと楽しみにしていたよ。」
行洋は一通りの解説を終えると、ヒカルに言った。
「進藤君、君とハンデなしに打つ時を楽しみにしているよ。」
「はい。」
行洋は、「私はこれくらいで。」と言うと幽玄の間を後にした。
和谷は、ヒカルに声をかけた。
「やったな。次は俺たちの番だ。進藤のおかげでやる気が出てきたぜ。」
ヒカルは、にこっと笑った。
帰りがけに、越智は和谷にボソッと言った。
「和谷、分かってるの?嬉しそうにしてるけど。」
「分かってるって?ああ、分かってるさ。これから、進藤と戦うことになるっていうんだろ。あんな碁を打つ奴と。
仲間であっても仲間でない。競争相手だ。そんなこと分かってるさ。院生の時だって、ずっとそうだったじゃないか。
俺は俺でやるしきゃない。俺だってプロになったんだ。」
ヒカルは一人対局場に座っていた。
皆が去って、がらんとした幽玄の間を見回すと思いっきり深呼吸をした。
この空気をもう一度吸い込んで、佐為に分けてあげるんだ。
ヒカルは、率直に嬉しかった。
勝てたこともだが、佐為が自分に入れ込んでくれたその労力に報いる碁が打てたと思えたからだ。
佐為に堂々と報告できる碁が打てた。
それから立ち上がると、名残惜しげに部屋を出た
「進藤。」
アキラにいきなり呼び止められて、ヒカルはぎょっとした。
ヒカルが出てくるのを待ち構えていたのだ。アキラは険しい表情をしていた。
「塔矢?」
「君に話がある。今日サイさんに会ったよ。モニタールームで。これを君に渡してくれと頼まれた。」
ヒカルは差し出された袋を見てぎょっとした。服がたたまれて入っていた。
アキラは、それ以上言わずに、そのままヒカルの手を引っ張ていった。
ヒカルは、ただ、そうされるままに、アキラに付いていった。
車を走らせようとしていた緒方は、ヒカルとアキラが、手を繋いで棋院から出てくるのを見かけた。
「ほう。これはまた、随分と親しいようだな。アキラ君のことは、分かっていたつもりだったが、俺が気づかないことも、いろいろあるのか。」
それにしてもあの男は何だったのか?一人で帰ったらしい。ということは進藤やアキラ君と直接に関係はないのか?
緒方は、もう一度気にも留めなかった佐為の顔を思い出そうとした。
しかし、髪の長さ以外、思い出せるものはなかった。
ヒカルが家に戻ったのはその日かなり、遅かった。
検討が終わった時にはすっかり日が暮れていた上に、アキラと話をしていたからだ。
「食事は?お風呂は?」
そう聞く母親に、食べたからいいと言うと、ヒカルは部屋にあがり、そのままどさっとベッドに横たわった。
新初段戦を終えた時の高揚感は既に消えていた。
「本当に、塔矢のやつ…。」
そう呟きながら、ヒカルは、アキラと話したことを思い起こした。
アキラは自分の納得がいくまで、いつまでもヒカルを離さなかった。
もう遅いから、別の日に。ヒカルはそう思ったが、アキラには、そういった時間の感覚は、まるでないようだった。
「サイさんは、僕の目の前で消えた。僕は前にも見てるよ。君が家に来た時、駅に行く途中で、サイさんが消えたのを。」
ヒカルはぎょっとしてアキラを見た。知ってたのか?
「でも僕には目の前で起きていることが理解できなかった。」
佐為は今日俺の対局を見に来ようと前から決めていたのだ。でも何で俺に隠していた?
佐為が観戦していると、俺が気を散らすとでも思ってたのか?
いや、そうじゃないだろう。もしかして…
ヒカルの心に初めて、陰がよぎった。
何か不吉なことが起きるのじゃないか。起きているのじゃないか。佐為の身に。
ヒカルは、アキラから渡された封筒から石を取り出した。
「何も入っていないけど、サイさんは何か不思議な儀式をしていた。何かを入れる仕草だ。」
アキラはそう言ってヒカルに封筒を手渡したのだ。
塔矢には、佐為は見えるけれど、この石は見えないのだ。
「君の話は分かった。サイさんが服を残して消えたのも二度も見た。
それでも、僕は信じられない。
何をどうやって信じればいいというのだ。」
アキラは苦しそうに、そう言って去って行った。
ヒカルはアキラの後ろ姿を見えなくなるまで、じっと見送っていた。
信じきれないという塔矢に何も言えなかった。
塔矢に分かってもらえなかった。
佐為が消えるのを見ているのに、信じてもらえないなんて、どうすればいいのだろう。
ヒカルには、アキラが納得してくれなかったという挫折感は大きかった。
「塔矢に信じてもらわなくたって、いいさ。」
ヒカルはふてくされたように声に出してみた。
アキラもまた複雑な思いを抱いていた。
進藤の話は、本当のことなんだ。
ありえないけれど、現実なのだ。分かっている。
サイさんが消えるのを僕は見た。
「でも僕は進藤が経験したようには時を旅することは出来ないのだ。」
アキラは苦々しげに呟いた。
大体、進藤は本当に、時を旅したのか?
サイさんだけが未来へ来れたということではなく?
サイさんは僕のことをどう思ってるのだろう。僕が簡単に時の旅を信じると思っているのか?
僕を信じて、後を託したのは間違いないけれど。
でも、それって、あんまり勝手過ぎやしないか。僕はサイさんにとって一体何なのだ。
ヒカルは、三月の入段式まで、越智と和谷の新初段戦と森下研究会へ行く以外、特に用がなかった。
早く佐為の元にいきたいと思いながらも、石はなかなか輝きを取り戻さなかった。
ヒカルはひたすら待った。
必ず石は回復する。必ず輝きは戻る。
それは信心にも似た確信だった。
だって、佐為にもう会えないなんて、そんなことがある筈がないじゃないか。
二月も末、期末試験も終わり、学校も少し緩んだ空気になっていた頃だった。
越智に続き、和谷の新初段戦が終わった.
ヒカルは引き出しを開けた。
塔矢先生から、リベンジ戦の連絡がなくて、ほっとする。
塔矢は何か先生に話したのだろうか。いや、多分、何も話してないと思う。
先生は佐為が消えるのも見てない。塔矢以上に、時の旅の話を信じるわけがない。
この石が見えたなら、信じてもらえる?
いや石が見えて俺が消えても…いや、俺は消えないんだった。
俺の体はここに残ってる。確か最初の時に、あかりが言ってたじゃないか。意識を失っていただけだったって。
ああ、やっぱ塔矢も塔矢先生もどうでもいいよ。俺はただ。佐為に、もう一度会いたい。それだけ なんだ。