風の石空の夢   作:さびる

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『円居』 71~80
ヒカル新初段戦からプロ対局、塔矢行洋引退
(主な登場人物…ヒカル、佐為、緒方、桑原、和谷、越智、アキラ、行洋、天野、導師、美夢、紅、美津子、明子、倉田)


円居75

足音で、ヒカルは目が覚めた。

数人の者が邸のあちこちで何かしている。

足音の一つがまっすぐヒカルの元へやってきた。

「佐為?」

導師だった。佐為は一緒ではなかった。

 

導師は、常ならぬ様子で、起き上がったヒカルの前に座った。

「佐為は?」

導師は黙って首を横に振った。

「会えぬのは残念だが。一刻の猶予もできぬことになった。

ヒカル殿。何も言わず、すぐ、ご自分の時代に戻られよ。」

ヒカルはいろいろ聞きたかったが、導師のあまりに緊迫した様子に黙って頷ずくしかなかった。

何も聞ける雰囲気ではなかった。

しかたなくヒカルは、そのまま着替えもせずに、胸の石を握りしめ、念じた。

俺の部屋に。俺の時代に。

しかし、何度念じても、何も起こらなかった。

 

俺の気持ちが入っていないから?そういうわけじゃない。

石は鈍いながらもまだちゃんと光を有していた。

それをみつめ、ヒカルは静かに言った。

「石が力を失ったわけじゃない。ただ石の力が足りないんだ。」

心配げに見守っていた導師はそれを聞いて呻いた。

「ではもうヒカル殿は自分の場所に戻れぬのか?」

ヒカルは首を横に振った。

「佐為は俺の石の力も借りて、時を旅した。だから、佐為が戻ってくれば大丈夫だよ。俺、戻れるよ。」

 

導師は厳しい顔をした。

「佐為はここへは戻らぬ。」

「それってどういうこと?」

ヒカルが問いかけた。

導師はヒカルの問いかけには答えず言った。

「今この邸を片付けさせている。何か不都合な物を残さぬようにだ。」

「不都合なもの?佐為はどこにいるの。まだ大丈夫なんだよね。」

何かが起きたんだ。でも片づけているってことは、不都合が見つからなければ佐為は大丈夫ってことなんだろ。違うのか?

 

導師はヒカルに目を向け言った。

「ヒカル殿は、恐ろしくはないのか?私は恐ろしゅうてならぬのに。」

「導師さんは何が恐ろしいの?」

「ヒカル殿はずっと、この時代に生きることになるのだぞ。佐為の石はもう使えぬだろうから。」

「佐為の石が使えないって。

でも導師さんが心配するのはわかるけど、それでも俺、一生ここにいるとは思えないんだよ。

もちろんそれは俺の勘に過ぎないけどさ。時を旅する者は、ほっておいても結局元に戻る。そんな気がするんだ。」

それからにこっとして言った。

「でも仮に戻れなくても、ここには佐為が居る。今どこにいるのかわからないけれど。でも俺は平気さ。

それにもし、ここじゃなくても、どこにいようと、佐為と一緒なら俺は平気だよ。」

 

導師はその言葉に思わず涙を浮かべた。胸が詰まったような声を出して言った。

「すまぬ。本当にありがたい言葉だ。ヒカル殿がなぜ時を旅してきたのか、その意味を初めて分かった。

分かってはいたが、こんなにもはっきりと。

佐為は何と幸せ者なのか。ヒカル殿にそう言ってもらえるとは。」

 

それから、導師は、ヒカルにぼつぼつと話を始めた。

「ヒカル殿は佐為と帝のことを何か知っているか?」

「前に何か頼まれごとがあるって言っていたけれど、それだけ。」

「そうか。ではその頼みごとがなくなったことは、知っていようか。」

ヒカルは首を振った。

「私は以前から心配していた。佐為は政(まつりごと)からは遠い。

縁のない世界にいるが、しかし、帝のすぐ傍にて、お話申し上げられることをしている。碁の指南役としてだが。

佐為は帝とは東宮になる前から存じ寄りなのだ。私事においても親しいということだ。

実に微妙な位置にいるのに。佐為はそのことに自覚が少なく、私はひどく心配していた。

帝の頼まれごとが何か、私はひそかに探りを入れてみた。

分かったことは、佐為が対局をしてその結果で、楓の大納言の娘を誰の元に迎えるかということのようであった。」

 

「それって、どういうこと?」

「大納言の娘は、帝の大伯母の斎院と中宮が欲しがっていた。才のある子どもらしい。

しかし、一番執着したのは実は帝だったのだ。

帝は大伯母と中宮の二人の望みを断り、自分の元へ迎えることに決めた。

左大臣家の威光は今や帝の力を凌駕する。

とはいえ、帝は何といっても帝なのだ。

帝が口にされる御言葉は大変に重いものなのだ。

楓の大納言はどう返答するであろうか。

 

そつのない男だという評判だ。

大納言は金を持っている。金の力で、のし上がってきた。

ここでもし帝のもとに娘を差し出すとなれば、その力はさらに増すことになろう。

だが、ことはそう単純なことにはならない。

このことで大納言をめぐり、周囲の貴族たちの腹の探りあいが始まったのは至極当然だ。

帝の頼みごとがなくなったというのは、結局のところ楓の大納言が帝の意を受け入れて、娘を帝の下に差し出すことを決めたからだ。

だが、これは単に一人の娘子の取り合いという単純ごとにはならぬのよ。楓の大納言の娘だから。

それは権力の行く末を左右する出来事になるということなのだ。」

 

「話は分かったけど、それと佐為が呼ばれたことと、どう関係するの?」

導師はため息をついた。

「それが分からぬのだ。何故、急に佐為が呼ばれたのかが。とにかく術師が関係しているらしいのが一番心配だ。」

「術師…。」

あの嫌な男だ。でも佐為のことは敬っていたようだった。俺のことは嫌いでも、佐為のことは嫌いじゃないのでは?

 

「ヒカル殿。私は佐為がヒカル殿の世界へ旅をした時から、心に決めていたことがあるのだ。」

導師は言った。

「ヒカル殿の世界のありようを知ったからには、佐為はもうこの平安の都に生きていけないと思った。

私も老いた。いつまでも佐為の傍にはおれぬ。私が居なくなれば、佐為はひとりになる。

勿論知り合いはこの都に多く居る。親しい知人もおろうが。

だが、時の旅を語れる相手がいなくなるのだ。その上、ここには相応の碁の相手がおらぬ。」

ヒカルは黙って聞いていた。

 

「だから以前から考えていたように佐為を大陸へ行かせようと。

果たしてそこも佐為に住み易いところかは分からぬが、それでも、息を潜めて生きることにはなるまいと思う。

それに少なくも私よりは上手の碁打ちが多くいることは確かだ。」

 

ヒカルは言った。

「それで大陸には、どうやって行くの?」

「今なら私もまだ旅はできる。私もついていくつもりだが、密かに船を手配しているのだ。難波津から船に乗れる手筈を取ってはいるが、」

導師はそう言ってから、嘆息した。

「だが、このように急なことになるとは。佐為が戻ってきたら、出来るだけ早く出立したいと思うが、今はまず、佐為が無事戻ってこれるかが心配だ。それにあの体だ。」

 

あの体。ヒカルはその時、ふと思った。

なぜ石は佐為にだけ負担をかけるのだろうかと。

俺だってその負担を佐為と分け合えるんじゃないか。

俺は佐為よりずっと若いんだし。

しかしその考えを導師には話さなかった。

 

「さっき導師さんはどうして、佐為が戻らないって言ったの?」

「それは様子を聞いてきたのだ。

詳しいことは分からなかったが、幸いにも様子を知らせてくれた者がいた。

佐為殿は今日は留め置かれるだろうと。留め置くというのは、もちろん帝のところにではない。

左大臣の息のかかった貴族の邸に預かりになるのだ。

どのような扱いになってるのかは分からぬがまあ、今日のところは大丈夫だろうと思っているが。

ただ、物事は突然に決められることがあるからの。油断はならぬ。」

導師はヒカルの手前、務めて冷静にふるまってはいるものの、言葉の端々に危機感が滲み出ていた。

もしかしたら命が危ないのか?何かできることはないのかな。

 

しばらく沈黙が支配した。

その時、導師の下男の治吉が急ぎ足で部屋の上り口にやってきた。

導師は立ち上がって、部屋の外に出て行った。

 

すぐに導師は戻ってきた。

「ヒカル殿。出立だ。この邸を出る。ヒカル殿は馬に乗れたな。」

「佐為は?」

「話はあとだ。佐為を助け出してくれるというお人がいる。そのお人を信じよう。」

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