ヒカル新初段戦からプロ対局、塔矢行洋引退
(主な登場人物…ヒカル、佐為、緒方、桑原、和谷、越智、アキラ、行洋、天野、導師、美夢、紅、美津子、明子、倉田)
足音で、ヒカルは目が覚めた。
数人の者が邸のあちこちで何かしている。
足音の一つがまっすぐヒカルの元へやってきた。
「佐為?」
導師だった。佐為は一緒ではなかった。
導師は、常ならぬ様子で、起き上がったヒカルの前に座った。
「佐為は?」
導師は黙って首を横に振った。
「会えぬのは残念だが。一刻の猶予もできぬことになった。
ヒカル殿。何も言わず、すぐ、ご自分の時代に戻られよ。」
ヒカルはいろいろ聞きたかったが、導師のあまりに緊迫した様子に黙って頷ずくしかなかった。
何も聞ける雰囲気ではなかった。
しかたなくヒカルは、そのまま着替えもせずに、胸の石を握りしめ、念じた。
俺の部屋に。俺の時代に。
しかし、何度念じても、何も起こらなかった。
俺の気持ちが入っていないから?そういうわけじゃない。
石は鈍いながらもまだちゃんと光を有していた。
それをみつめ、ヒカルは静かに言った。
「石が力を失ったわけじゃない。ただ石の力が足りないんだ。」
心配げに見守っていた導師はそれを聞いて呻いた。
「ではもうヒカル殿は自分の場所に戻れぬのか?」
ヒカルは首を横に振った。
「佐為は俺の石の力も借りて、時を旅した。だから、佐為が戻ってくれば大丈夫だよ。俺、戻れるよ。」
導師は厳しい顔をした。
「佐為はここへは戻らぬ。」
「それってどういうこと?」
ヒカルが問いかけた。
導師はヒカルの問いかけには答えず言った。
「今この邸を片付けさせている。何か不都合な物を残さぬようにだ。」
「不都合なもの?佐為はどこにいるの。まだ大丈夫なんだよね。」
何かが起きたんだ。でも片づけているってことは、不都合が見つからなければ佐為は大丈夫ってことなんだろ。違うのか?
導師はヒカルに目を向け言った。
「ヒカル殿は、恐ろしくはないのか?私は恐ろしゅうてならぬのに。」
「導師さんは何が恐ろしいの?」
「ヒカル殿はずっと、この時代に生きることになるのだぞ。佐為の石はもう使えぬだろうから。」
「佐為の石が使えないって。
でも導師さんが心配するのはわかるけど、それでも俺、一生ここにいるとは思えないんだよ。
もちろんそれは俺の勘に過ぎないけどさ。時を旅する者は、ほっておいても結局元に戻る。そんな気がするんだ。」
それからにこっとして言った。
「でも仮に戻れなくても、ここには佐為が居る。今どこにいるのかわからないけれど。でも俺は平気さ。
それにもし、ここじゃなくても、どこにいようと、佐為と一緒なら俺は平気だよ。」
導師はその言葉に思わず涙を浮かべた。胸が詰まったような声を出して言った。
「すまぬ。本当にありがたい言葉だ。ヒカル殿がなぜ時を旅してきたのか、その意味を初めて分かった。
分かってはいたが、こんなにもはっきりと。
佐為は何と幸せ者なのか。ヒカル殿にそう言ってもらえるとは。」
それから、導師は、ヒカルにぼつぼつと話を始めた。
「ヒカル殿は佐為と帝のことを何か知っているか?」
「前に何か頼まれごとがあるって言っていたけれど、それだけ。」
「そうか。ではその頼みごとがなくなったことは、知っていようか。」
ヒカルは首を振った。
「私は以前から心配していた。佐為は政(まつりごと)からは遠い。
縁のない世界にいるが、しかし、帝のすぐ傍にて、お話申し上げられることをしている。碁の指南役としてだが。
佐為は帝とは東宮になる前から存じ寄りなのだ。私事においても親しいということだ。
実に微妙な位置にいるのに。佐為はそのことに自覚が少なく、私はひどく心配していた。
帝の頼まれごとが何か、私はひそかに探りを入れてみた。
分かったことは、佐為が対局をしてその結果で、楓の大納言の娘を誰の元に迎えるかということのようであった。」
「それって、どういうこと?」
「大納言の娘は、帝の大伯母の斎院と中宮が欲しがっていた。才のある子どもらしい。
しかし、一番執着したのは実は帝だったのだ。
帝は大伯母と中宮の二人の望みを断り、自分の元へ迎えることに決めた。
左大臣家の威光は今や帝の力を凌駕する。
とはいえ、帝は何といっても帝なのだ。
帝が口にされる御言葉は大変に重いものなのだ。
楓の大納言はどう返答するであろうか。
そつのない男だという評判だ。
大納言は金を持っている。金の力で、のし上がってきた。
ここでもし帝のもとに娘を差し出すとなれば、その力はさらに増すことになろう。
だが、ことはそう単純なことにはならない。
このことで大納言をめぐり、周囲の貴族たちの腹の探りあいが始まったのは至極当然だ。
帝の頼みごとがなくなったというのは、結局のところ楓の大納言が帝の意を受け入れて、娘を帝の下に差し出すことを決めたからだ。
だが、これは単に一人の娘子の取り合いという単純ごとにはならぬのよ。楓の大納言の娘だから。
それは権力の行く末を左右する出来事になるということなのだ。」
「話は分かったけど、それと佐為が呼ばれたことと、どう関係するの?」
導師はため息をついた。
「それが分からぬのだ。何故、急に佐為が呼ばれたのかが。とにかく術師が関係しているらしいのが一番心配だ。」
「術師…。」
あの嫌な男だ。でも佐為のことは敬っていたようだった。俺のことは嫌いでも、佐為のことは嫌いじゃないのでは?
「ヒカル殿。私は佐為がヒカル殿の世界へ旅をした時から、心に決めていたことがあるのだ。」
導師は言った。
「ヒカル殿の世界のありようを知ったからには、佐為はもうこの平安の都に生きていけないと思った。
私も老いた。いつまでも佐為の傍にはおれぬ。私が居なくなれば、佐為はひとりになる。
勿論知り合いはこの都に多く居る。親しい知人もおろうが。
だが、時の旅を語れる相手がいなくなるのだ。その上、ここには相応の碁の相手がおらぬ。」
ヒカルは黙って聞いていた。
「だから以前から考えていたように佐為を大陸へ行かせようと。
果たしてそこも佐為に住み易いところかは分からぬが、それでも、息を潜めて生きることにはなるまいと思う。
それに少なくも私よりは上手の碁打ちが多くいることは確かだ。」
ヒカルは言った。
「それで大陸には、どうやって行くの?」
「今なら私もまだ旅はできる。私もついていくつもりだが、密かに船を手配しているのだ。難波津から船に乗れる手筈を取ってはいるが、」
導師はそう言ってから、嘆息した。
「だが、このように急なことになるとは。佐為が戻ってきたら、出来るだけ早く出立したいと思うが、今はまず、佐為が無事戻ってこれるかが心配だ。それにあの体だ。」
あの体。ヒカルはその時、ふと思った。
なぜ石は佐為にだけ負担をかけるのだろうかと。
俺だってその負担を佐為と分け合えるんじゃないか。
俺は佐為よりずっと若いんだし。
しかしその考えを導師には話さなかった。
「さっき導師さんはどうして、佐為が戻らないって言ったの?」
「それは様子を聞いてきたのだ。
詳しいことは分からなかったが、幸いにも様子を知らせてくれた者がいた。
佐為殿は今日は留め置かれるだろうと。留め置くというのは、もちろん帝のところにではない。
左大臣の息のかかった貴族の邸に預かりになるのだ。
どのような扱いになってるのかは分からぬがまあ、今日のところは大丈夫だろうと思っているが。
ただ、物事は突然に決められることがあるからの。油断はならぬ。」
導師はヒカルの手前、務めて冷静にふるまってはいるものの、言葉の端々に危機感が滲み出ていた。
もしかしたら命が危ないのか?何かできることはないのかな。
しばらく沈黙が支配した。
その時、導師の下男の治吉が急ぎ足で部屋の上り口にやってきた。
導師は立ち上がって、部屋の外に出て行った。
すぐに導師は戻ってきた。
「ヒカル殿。出立だ。この邸を出る。ヒカル殿は馬に乗れたな。」
「佐為は?」
「話はあとだ。佐為を助け出してくれるというお人がいる。そのお人を信じよう。」