ヒカル新初段戦からプロ対局、塔矢行洋引退
(主な登場人物…ヒカル、佐為、緒方、桑原、和谷、越智、アキラ、行洋、天野、導師、美夢、紅、美津子、明子、倉田)
小船の上で、佐為はじっとヒカルを見た。
ヒカルも佐為を見つめ返した。
佐為は、耳につけていた石を外し、ヒカルに渡した。
ヒカルは自分が持っていた石と合わせ、そのふたつの石をしっかりと両手で握り締めた。
正しき道を。ヒカルはヒカルの時代に、私は私の時代に。
佐為は祈るようにそのヒカルの両手を包んだ。
ヒカルは、一瞬、佐為と同化したような気がした。
今だ。今なら。ヒカルはその瞬間を逃さなかった。
石よ。伝えてくれ。俺の全てを佐為に託すと。
そのまま、ヒカルは時の渦の中に放り込まれた。
ヒカル、ヒカル…
佐為の声が遠くに響いていた。
***
気が付くと、ヒカルは自分の部屋のベッドの上にいた。
石はどうなった?ヒカルは握り締めていた手を開いた。
もうそんな力も残っていないほどだったが、それでも手のひらをやっとのことで見つめた。
二つの石はまだ赤く熱くみえたが、それも一瞬のことだった。石はすぐに白い燃えカスのようになり、ほろほろと崩れ、灰となり、細かいちりとなり、ヒカルの手のひらから舞い上がり、ガラスを通して窓の外へと、そして明け方の空へと散り、消えていった。
起き上がることもできないまま、ヒカルは声にならない声を出していた。
佐為っ!
佐為が行ってしまう。
ヒカルはそのまま気を失った。
次にヒカルが気づいたのは、病院のベッドの上だった。
「ヒカルが気が付いたわ。」
あかりの声が聞こえた。あの時と同じように。
でも同じではなかった。
あかりの声に呼応するように病室に両親と祖父母が入ってきた。
「ヒカル、10日もこん睡状態だったんだよ。」
あかりが言った。
知らせを聞いた医者が飛んできた。
「どこも悪いところはないのです。理由は分かりませんが、疲労していることだけは確かです。
全く命が尽きないのが不思議なほどですよ。でもこれで何とか持ち直しましたね。とにかく良かった。」
医者は病室を出る時に言った。
「でも体力の消耗が著しいので、退院は少し先になりますよ。」
ヒカルは回復が遅かった。
今ヒカルは食べ物を口にし、飲み込むという動作すら、億劫だったのだ。
「あの時は、すぐ食欲が戻ったのに。」
ヒカルの口元に匙を運ぶ美津子が心配そうに呟いた。
健康だけが取り柄のようなヒカルが、入院するなどなかったことだ。
みんなが“あの時”のことを思っている。
でも“あの時”がどんなことの始まりだったのかは、ここにいる誰も知らない。
初めての時の旅。
ヒカルは、うとうとしながら、佐為はあれから、どうなっただろうかと思っていた。
俺の力は佐為に届かず、ただ最後の時の旅にだけ費やされたのだろうか。
***
星明りがきれいだ。
佐為は船の上にいて夜空を眺めていた。
船は導師の考えていたように、大陸に向かっている。
立派な造りで、荒海に耐える仕様になっていて、安定感があった。
それでも遭難はする。航海には危険がつきものだ。
でも私は運がいい。
背後で声がした。
「佐為。何を考えている。せっかく回復した体を労わらねばならんぞ。
あんなに弱っておったのに奇跡としか言いようがない。
石を手放したせいなのか?」
佐為は導師を振り返って微笑んだ。
「そうではありません。ヒカルがその奇跡をくれたのですよ。」
「それはどういうことか。」
導師は訝しげに言った。
「ヒカルは石のからくりを聞いたではありませんか。石に力を与えるために私が自分の体力を分け与えたことを。」
「ああ。」
「ですからヒカルは考えたのでしょう。私が石に体力を与えられるのなら、ヒカルもまた自分の体力を石に与えられるだろうと。」
佐為はそこまで話し、思わず涙ぐみながら続けた。
「それだけではないのです。
ヒカルは石を握りしめた時、こう祈ってくれたのです。
自分の体力を私に注ぎたいと。
そして石はその願いを聞いたのです。
ヒカルはあの時自分の時代へ戻りました。
そして余った力はすべてわたしの体に注がれたのです。
今私がこのように元気なのはヒカルの生きる力がすべて私に注がれたからなのですよ。」
導師は思わず祈るように空を仰ぎ見た。
「ヒカル殿は何というお方か。素晴らしいお子じゃな。」
「はい。素晴らしい子です。私には唯一無二のかけがいのない存在です。」
導師は急に心配そうに聞いた。
「ヒカル殿は自分の時代に戻られたとして、元気なのだろうか。大丈夫なのだろうか。」
佐為は導師に向かって明るく言った。
「ヒカルの時代の医術は恐るべきものですよ。
心の臓が悪くなっても、それを切り開き取り替えることすらできるのです。
私はあのままでしたら、もうダメでしたでしょうが、ヒカルの時代なら、何なく治すすべがある。
そう思えます。ヒカルもそう思ったのではないでしょうか。」
導師はほっとしたように言った。
「そうか。そうなのか。ヒカル殿は考え深いお子じゃから、そう思ったのだろうな。」
導師の後に続き船室に向かいながら、佐為は物思わしげに心に呟いた。
「ヒカルは勿論あの時代の子どもだから、だからそういう考えは何となくしみついてはいただろうが。
だがあの時、ヒカルはそんなことは考えていなかった。自分の命の輝きをすべて、私に移し替えるようにと祈っていた。
自分の命のことなど、これっぽっちも考えていなかった。
あの石を通して私は感じた。
そして、ヒカルの願いの余りの強さに、私はただヒカルのその祈りを全身で受け止めるしかなかった。
ヒカル。どうぞ無事に元気を取り戻してほしい。私は一目でいいからあなたに会って、一言述べたい。
ありがとうと、そして、ヒカル。あなたの元気な姿を見たい。今私の望みはただそれだけ、それ以外は何もない。」
船室に入ろうとした時、傍にいた警護役が言った。
「幸いなことにここ当分は大きな天候の崩れはないと、水夫(かこ)が申しておりました。ご安心なさいませ。」
船室に入ると、楓の大納言の娘が、きらきらした瞳を輝かせて言った。
「佐為さま。今は揺れていないから、ぜひ一局ご指南下さいませ。」
佐為が嬉しそうに楓の大納言の娘の相手を始めるのを眺めながら、紅内侍はため息とも何ともつかない様子で、導師に言った。
「それにしても結局のところ、佐為殿はお変わりにならないのですね。」
導師はただ嬉しそうに言った。
「でも内侍殿はこうやって、危険な旅に、佐為と一緒に来てくれたのだ。やはり繋がりが深いのだと、切れていなかったのだと分かって私は本当に嬉しかった。あなたが去った後の佐為の荒れようと言ったらなかった。私は本当に手を焼いたんですよ。」
内侍はその導師の言葉に少し顔を赤らめたが、だがとても嬉しそうだった。
しかし佐為が顔をあげて自分の方を見たのに気が付いた途端に、つんとすまして言った。
「私は佐為殿についてきたのではございませんわよ。美夢殿(楓の大納言の娘)のお供をしているのですから、お間違いなく。」
佐為はその内侍の様子に、笑いをこらえ、碁盤へ顔を向け、密かに思った。
私も内侍殿も変わらないな。お互い意地っ張りなところは。でもそれでも。私はヒカルと付き合って、こういうことには修練を積んできた。
そこで、佐為は顔をあげ内侍に向かって言った。
「私は嬉しい。内侍殿が美夢殿について来てくれて。導師と二人、決死の旅と思っていたのが、もちろん、海路の危険は承知だが、それでもこんなに私が心を許せる人たちと旅をしていることが。本当に嬉しい。」
佐為の言葉を導師が受けた。
「そうじゃな。内侍殿が美夢殿と知り合いでいたというのは驚きだったが、人は皆定めに従って、巡り合うのだと思えてならない。内侍殿はもう京に戻ることがないというのに、平気か。」
内侍は素直に答えた。
「私も心を許せる人々とともにあれば、どこに暮らそうと平気ですわ。もうはかりごとの真っただ中にいるのは御免こうむりますわ。それに佐為殿も少し変わられたように感じます。そう、私が変わったのと同じくらいには。」
くすっと笑って内侍は答えた。
美夢はくるっとした目で言った。
「父上が言っておりました。佐為殿は私の母の国では大丈夫だと。京よりはもっと自由に過ごせる筈と。
それに父上はいつか、私の元を訪ねると約束してくれました。」
導師はみんなの会話を聞きながら、思い出していた。佐為の邸にいた時に届いた文。
あれで事態が急展開した。
あれは楓の大納言からの思いがけない緊急の文だった。
「導師殿のことだろうから、旅の支度は怠りなくされていようが、桂川の合流地点に小船を用意しているので、大切なものだけ持って至急においで願いたい。佐為殿はそこにお連れする。文を持たせたものが案内する。くれぐれも密やかに、できるだけ、すばやく。あなた方の到着を難波津にてお待ちしている。」
私は即決した。私は、楓の大納言の言葉を信じたのだ。
なぜなら、術師は佐為と大納言の二人を訴え出たのだから。
それに大納言には私たちを陥れる動機がない。
大納言がどのような状態にいるのかは分からなかったが、こういう力は残っているに違いない。
ヒカル殿が馬に乗れて良かった。私は佐為の馬に乗り、二人して案内人につき従い、人目につかない通りを密やかに、だが急いだ。
その川のほとりには、しっかりとした屋根つきの小船が待っていた。
案内してくれた者に馬を託し、船に向かうと、そこには何と紅内侍殿がいた。
内侍殿はヒカルがついてきたのを見ても驚きもせず言った。
「お話はあとで。早く船に。」
佐為は船に横たわって、眠っているようだった。
「大丈夫です。お休みになっているだけですから。
この船で難波津へ下りますから時間はたくさんありますわ。」
小船がゆるゆると漕ぎ出され、岸から離れると、紅内侍が今までのことを話し出した。
そもそもこの話は、術師が楓の大納言と佐為に呪詛を頼まれたと、左大臣家に訴え出たことから始まったというのだ。
ちょうど左大臣家では、楓の大納言の娘が中宮の元へ遣わされなかったことを憤りを持って受け止めていたところだった。
そこに楓の大納言に反感を抱く勢力がくっつき始めた。
「帝は自分のことだけを考え、政を乱されたのか。」
私はそう思ったが、でも佐為と楓の大納言が呼ばれたのは、帝の命ではないことは確かに危ういことだ。
帝は佐為を断罪などなされまいが、帝のあずかり知らぬところでは何とも言い難い。
「楓の大納言殿は常に身辺に注意を払っていたので、自分の反対勢力の動きは事前に察知して、いろいろ対策を講じておられたのですよ。」
そう、紅内侍は続けた。
「私は一昨年より斎院の元にお仕えしておりましたから。楓の大納言殿のお子の美夢殿のことはよく存じております。
妹のようにお付き合いしておりました。だから大納言殿は私のことを信頼してくださいました。
大納言殿は、私と佐為殿のこともよく存じておりました。驚くほどに。それに。」
そこで言葉を区切ると、内侍は導師のことをじっと見た。
「導師殿が密かに準備されていたことも筒抜けでございましたよ。こっそり旅の支度をなされていることを。
大納言殿の力はそれはそれは強大なのでございます。大納言殿の目は、隅々にまで行き渡っていて、大事と思われることはすべて、大納言殿のお耳に届いているのです。
だから、大納言殿がご自身のために、佐為殿を選ばれたことはある意味とても幸運なことでした。」
敵に回す相手ではないということか。大納言が術師と組んでいなくて本当に良かった。
導師は本心からそう思った。
佐為は帝に拝謁することもなく、左大臣家の家臣の邸に留め置かれたという。
佐為は、楓の大納言の手の者により、流行病の気を装わせられた。
連れていかれた時、すでに弱っていたので、それはすぐに信用された。
流行病の者が近しいものでなく、厄介者の預かり人だとしたら。
左大臣の家臣はすぐに左大臣に連絡を取り、了解を得た。佐為を自邸に戻してよいと。
大納言の手の者はそれを聞きつけると、邸の者と称して、佐為を運び去ったという。
「私は、前々から密かに大納言殿に相談を受けておりました。大納言殿は美夢殿を差し出せという帝の仰せにひどくお困りでした。あの方は野心はおありですが、力のつり合いを大事にされる。そこで考えた結論は一つでした。
美夢殿を誰の元にも上げないということでした。
美夢殿のお母上は、美夢殿を生んですぐに亡くなられたけれど、大陸のお方。
別れがたいけれど、美夢殿を母上の故郷に戻そうと考えられたのです。
美夢殿には彼の地に祖父母伯父伯母など多くの親族がおいでで、大切に迎え入れられることは分かっていますから。
それでも万全を期したい。だから導師殿に目をつけられた。佐為殿との秘め事を知り、私を含め、ご自分のはかりごとに巻き込まれたのです。」
術師が大納言と佐為を訴え出た。それは大納言にも思いもかけないことだった。
人の心は分からない。何か自分と佐為の二人が、別々のことであろうが、たまたまあの者の心情を害したには違いないが。それが何か大納言には測り兼ねた。あれは思いもかけないことで、拗ねて恨みに思う危険な男だ。
理由はともかく、この機を逃さず、大納言は素早く事を運んだわけだ。
治吉にあとは託した。元々佐為とこの地を離れることは決めていたから、そつなく事を運んでくれるだろう。
あれには薬草の知識はすべて伝えてある。私の邸もくれてやった。生活はたつ筈。
佐為の元で働いていたあの口をきけぬ者の面倒もみてくれているであろう。
後顧の憂いはない。
京では佐為は流行病で、そして看病した私も同じく亡くなったということになっているだろう。
また美夢殿も亡くなったということで、政を乱す元はなくなったというわけだ。
そこで導師は思い出していた。
難波の津で、この船が出港する時、いつまでも見送っていた大納言の姿を。
色々言われるが、あの大納言も一人の親なのだ。だからこそ最愛の娘が一番生きやすいと思える道を選択したのだ。
強い男なのだろう。
それが正しいかは今は分からぬが、何かあっても、私や佐為がいる限り、美夢殿は守りたい。
佐為もそう思っていることだろう。それが大納言殿への信義というものよ。