ヒカル新初段戦からプロ対局、塔矢行洋引退
(主な登場人物…ヒカル、佐為、緒方、桑原、和谷、越智、アキラ、行洋、天野、導師、美夢、紅、美津子、明子、倉田)
ヒカルが退院したのは意識が戻ってから3週間以上も過ぎた後だった。
家に戻った時、ヒカルは聞いた。
「俺の部屋掃除した?」
「ええ、したけれど?どうして?別に何も捨ててないわよ。掃除機をかけただけよ。ヒカルがゆっくり休めるように。」
「ううん。なんでもない。ありがとう。」
美津子はその言葉に首をかしげながら階下に降りた。
「ヒカルがありがとうなんて。どうしちゃったのかしら。」
ヒカルは自分の部屋で、ベッドに寝転がりながらじっと天井を見つめた。
石が消えていった時のことを思った。
俺には分かってた。母さんが掃除しなくたって、この部屋にはあの石は残っていない。
あの時すべて空に舞っていったんだ。
もしかしたらあの石はそうやってまた時を旅して、佐為の元に戻ったのだろうか。
佐為の元に戻って、また赤い輝く石になったんだと信じたい。
ヒカルはそう思いたかった。
佐為が耳に赤い石をつけて、微笑んでいる姿を思い描いた。
でもそんなことはないのだ。石は役目を終えて、ちりとなって消えたのだ。
時の旅はもうできない。
もう2度と佐為には会えないのだ。
あの時、俺にできたのは、あれしかなかったんだ。佐為に力を送ること。
それはでも、本当にうまくいったのだろうか。
ヒカルは、そのことを考えるのをやめた。
ヒカルの体力は確実に回復してきた。
まだ外には出歩かないが、家の中では、普通に生活できるようになっていった。
でもただ一つ、碁を打つ気力が湧かなかった。
碁石を持てないまま、ヒカルは他のことを考えた。
塔矢先生はリベンジ戦を楽しみにしているんだ。
俺、説明しなくちゃならない?
時の旅を先生は冗談でなく、信じるだろうか。
塔矢は、あれほど俺が説明したのに、信じられないと言った。
目の前で佐為が消えたのを見ているのに。
ヒカルは入段式を欠席した。
数日後、ヒカルの元へ和谷が来た。
「進藤。病気で入院してたんだって?痩せたな。大丈夫か。」
「うん。ありがとう。もう元気になったよ。そろそろ外出してもいいって、言われてるしさ。
今度の研究会には行けるよ。」
「そうか。良かった。今日はな。入段式の時にもらった書類を届けに来たんだ。」
和谷は、書類の中から一枚を引っ張り出した。
「それを見てみろよ。お前のプロ第一局の対戦相手だぜ。それ見たら、お前、すぐに元気になると思ったんだ。」
和谷が帰った後、美津子がお茶を片付けに覗いた。
「あら?これは?」
「森下先生からのお見舞い。」
「まあ、お礼を言わなくっちゃ。白川先生からもお見舞いを頂いているのよ。」
母がいろいろ言っているのを聞き流しながら、ヒカルは思っていた。
俺のプロ第一局。 相手は塔矢アキラ二段。
そのことを考えた時、初めてヒカルは力が湧いてくるような気がした。
そうだ。俺は、ここで、もう佐為に会えないとか、うじうじしてはいられないんだ。
そしてあの船で、佐為が目覚めた時、ヒカルに色々話してくれた時のことを思い出した。
あの新初段戦のこと、モニタールームであったこと、塔矢先生と交わした会話。
あの時、導師さんと共に傍にいたきれいな女の人は佐為の恋人なのかなあ。
俺のことを聞いても、佐為の話も全然驚かなかった。
時の旅について知ってるんだ。
「ヒカル殿は、虎次郎殿とは違いますのね。でも佐為殿にとても似つかわしい方ですわ。」
そうにっこりと言ってくれた。
あの時最後に、佐為は言ったんだ。
「ヒカルが無事戻れるなら私は他に何もいらない。
私は私の居場所に。ヒカルもまたヒカルの居場所に戻るのだ。」
導師さんが頷いて言った。
「ヒカル殿。天地の秩序を守ることじゃ。さすれば、佐為も元気になる。」
「ヒカルには自分の時代で生きて欲しい。
私が伝えた全てを受け継いで、さらに腕を磨いて欲しい。
私には、それがすべて。だが、そうだな。
心残りといえば、あの者とリベンジ戦が出来なかったことか。」
佐為は言ったんだ。
「リベンジ戦ができないことは随分前から分かっていた。ヒカルがあの者の家であそこに石を置いた時に、私にはもう時間が残されていないと。だからヒカルの新初段戦に全てを賭けたのだ。」って。
そうなんだ。俺、言われたじゃないか。
「いつか必ず、もう一度、石を見つけて、ヒカルの元へ行きたい。ヒカルがどの程度腕をあげたか確かめに。
ヒカルは自分の道を進め。ヒカルの時代の強者と打ち合え。」
ヒカルは、佐為のその言葉を思い出し、かみ締めた。
俺は佐為を受け継いで自分の道を進まなくちゃ。俺がいるべき場所で。
いつの間にか、ヒカルは碁盤を引き出し、碁笥のふたを開けていた。
アキラは、会場を見渡した。
アキラが新人としては異例なほど賞を受けたその入段式に、ヒカルの姿はなかった。
進藤は、つい先ごろまで病気で入院していたらしい。
もちろん、僕は見舞いになど行かなかった。
なぜならその時には僕のところに配達されていたから。これが。
アキラは対局表をじっと見つめた。
対局者:進藤ヒカル。
その名をじっと見た。
進藤と話をして以来、信じたいけれど、信じ切れない、そんなもやもやした気持で過ごしてきた。
僕はあの時、サイさんのことばかり聞いて、言いそびれてしまった。
君と打つのを楽しみにしていると。
この進藤との対局で僕はやっと、前に進める気がする。
いろいろなことを吹っ切れると思う。
行洋の方は五冠ということで、忙しい日々を過ごしていた。
だが、夜になると一人、ため息とともに思うのだった。
私はすぐにでも打てるという気持でいっぱいだが。こんな状態では、サイさんとのリベンジ戦はもう少し先になりそうだ。
プロでいるということも善しあしか…。もし私が彼のように束縛されない身なら…。
いくら行洋が忙しいとはいっても、朝のアキラとの一局は続いていた。
アキラが碁盤を睨み付けるように見ているのを眺めながら思った。
このところ、アキラは張り切っているな。
「アキラ、何か良いことでもあるのか。」
アキラは素直に答えた。
「次の大手合は進藤が対局者なのです。」
「そうか。それは楽しみだな。」
行洋はそう言って、ふと思った。
あの新初段戦は楽しかった。進藤君の夢中な姿に、思い出したのだ。まだプロになるとも思わない頃、今度はどんな手を打って相手を慌てさせようか。負けないぞ。友達とそんな自由な気持を持って打っていた頃を。
進藤君はあの者の気迫を受け継いでいるが、碁は違う。また別のタイプの碁を打つ。
アキラとは対照的かもしれない。本当に楽しみな対局だな。
大手合の日の前日だった。アキラは、ふうっと息を吐き、心を落ちつかせて誓った。
明日は、いよいよ進藤との対局だ。いろいろ考えないで、ただ集中して対局に臨もう。まっすぐに。そう、まっすぐにだ。
早めに床についたものの、アキラは夜中にふと目が覚めた。滅多にないことだった。
やっぱり緊張しているのかな?
アキラは時計を見た。
「まだ12時か。水でも飲んで寝よう。」
台所へ向う途中、アキラは、父親の座敷の明かりがついているのを目にした。
まだ起きてるんだ。
そっと覗いて見ると父親が碁盤の前に座っていた。
アキラは知っていた。
父は毎晩、儀式のように、碁盤の前に座るのだ。
棋譜並べじゃない。碁笥は一つは自分の横に、もう一つは向いに置く。
サイさんとのリベンジ戦に備えてのことだ。
いつも、そうやって、頭の中でシュミレーションをしているのだ。
僕だって父さんのリベンジ戦が終わったら、サイさんにまた相手をしてもらうつもりだ。
でも今は僕にとって大切な対局がある。明日。望み続けていた対局があるんだ。
僕がまっすぐに向かっていける望む相手と。