ヒカル新初段戦からプロ対局、塔矢行洋引退
(主な登場人物…ヒカル、佐為、緒方、桑原、和谷、越智、アキラ、行洋、天野、導師、美夢、紅、美津子、明子、倉田)
ヒカルの初めてのプロ第一局の日が来た。
ヒカルの体力はもう、すっかり戻っていた。
もちろん、気力だって、ばっちりだぜ。
それにしても、なんだか新初段戦より緊張するぜ。
そう思いながらヒカルは、碁笥のふたに手を伸ばし、武者震いをした。
和谷が持ってきてくれた対戦表のおかげで、本当に気持がシャンとしたぜ。
あれから毎日、僅かな時間しかなかったが、自分なりに研鑽を積んだ。
少しでも力をつけたいと思った。
俺は今日、塔矢の奴と思いっきり戦うぞ。
ヒカルはそう思っていたが、対局時間が過ぎてもアキラはなぜか現れなかった。
間もなく棋院の職員が小走りにやって来て、ヒカルにそっと耳打ちをした。
ヒカルは目を見開き頷いて、促されるように対局場を後にした。
塔矢先生が心筋梗塞で倒れた。
そのニュースは瞬く間に棋界に広がっていった。
そのことを対局場で知らされたヒカルは肩透かしを食らったような気持だった。
打ちそびれた対局への思いも強かったが、それよりも。
佐為にも会えないのに、塔矢先生まで倒れたなんて。俺は一体どうしたらいいんだ。
ヒカルは暗い気持で家に向った。
家にいても落ち着かず、何も手につかず、ごろごろしていた。
塔矢先生のお見舞いに行くというのは、すぐには考えつかなかった。
塔矢先生の様子を見に行く。しばらくして、そのことは思いついたにはついたが、なかなか行く気にはなれなかった。
だって、先生は佐為の事を聞くに違いない。
リベンジ戦のこともある。
いや、それよりも。そもそもそんな話ができるほど、元気なのだろうか?
新学期が始まった何とはなしのせわしさに紛れて、ヒカルはそのまま過ごしていた。
間もなく、ヒカルは十段戦の対局があったことを新聞で知った。
塔矢先生勝ったんだ。圧倒的な対局だって。
佐為とのリベンジ戦に闘志燃やしてんのかな。
それにしても元気そうなのに、まだ入院してるのか。
先延ばしにしていてもいつかは知らせなければならないんだから。
佐為の奴、いつも俺に結局後始末押し付けるんだからな。
その三日後、とうとうヒカルは重い足取りで、行洋の入院している病院へと向った。
アキラは、父親が寝ているベッドの傍で、ぼんやりと考えていた。
あの時倒れたため、十段戦の三局目は不戦敗になった。
それでも次の週に行われた第四局には病院から出かけて行った。
お母さんが付き添って行った。
それは、いかにもお父さんらしい冴え渡った圧倒的な勝利だった。
これで、2勝2敗のタイになった。
お医者さんは、無理さえしなければ、ひとまず大丈夫だろうと言った。
あの十段戦の碁を見る限り、お父さんはもう大丈夫なんだと僕も思う。
お父さんはそれを聞いても、すぐに退院するともしないとも言わなかった。
病院にいる方が色々煩わしい付き合いから逃れられるから?
緒方さんは一度お見舞いに来て、父が元気そうなのを見て、ネット碁で気晴らしでもどうですかと、ノートパソコンを置いていった。
ただ、そういったこととは別に。
お父さんは、もともと寡黙な人だけれど。
でも倒れて以来、殆ど僕ともお母さんとも話をしない。
何かをずっと一人で考えこんでいる。
お母さんは、そういうお父さんを見ても、びくともしないけれど。
お見舞いに来る人には、最低限の話はするけれど、心はどこか別のところにあるみたいなのだ。
僕は、本当はお父さんに尋ねたいことがある。
でも僕はそのことを尋ねるのをずっと躊躇っている。
「アキラさん。」
明子が呼んだ。
「はい。何ですか。」
「私は、一度家に戻って、夕食の頃にまた来るつもりだけれど。アキラさんは今日の予定は?」
「僕、今日は空いてますから。もう少しここにいますよ。」
その時、病室のドアをノックする音がした。
こんな朝早くに誰が?
明子がドアを開けると、ヒカルが立っていた。
「あら、進藤君。お見舞いに来て下さったの?」
「はい。あの。」
「進藤君はたしか、入院していたと伺っていたけれど。お体はもうよろしいの?」
ヒカルはアキラのお母さんが、そんなことを知っていることに驚いた。
「はい。俺は、もう大丈夫です。」
その時、寝ていると思っていた行洋が声をかけてきた。
「進藤君に入ってもらいなさい。
それから明子は、用事があるなら帰っていいから。」
アキラは母を見て頷いた。
「僕がいるから、大丈夫ですよ。」
明子が帰ると、病室には行洋とアキラとヒカルの3人となった。
アキラのお母さんがいた方が絶対よかったのに。
ヒカルは気づまりを感じながらそう思って突っ立っていた。
行洋はベッドに体を起こしながら言った。
「進藤君。実は君に会いたくてね。連絡しようかと思ってたのだよ。」
俺に会いたかった?ヒカルは何となくぎょっとした気分になった。
それから慌てて言った。
「塔矢先生は、その、病気は…。」
「もう大丈夫なのだよ。まあ、しばらくは安静にしているようには言われているがね。」
アキラは黙って、ヒカルを見つめた。
当然のことが起こっていると感じた。
お父さんが今まで黙っていたのは、進藤に何か話したいことがあったからなのだ。
それから、眉根を寄せた。
僕はすべて知ってる筈なんだ。進藤がこれからきっと父にする話を。
いや、父が進藤にする話をかな。
あの時、あの夜、僕は気が付いたんだから。
碁盤の前に座っている父を見ながら、自分の部屋に戻ろうとした時。
アキラは、その時の光景を思い起こした。
あの時、アキラはふと目にとめたのだ。
碁笥は二つとも父親の元にあった。
今日は対局のシュミレーションじゃないんだ。じゃあ棋譜並べ?でも何でこんな時間に?誰の棋譜を並べてるのだろう。
そう思って見ていると、行洋は石をにぎり、碁盤に置いたのだ。
アキラは驚いた。棋譜並べで握るものか?
行洋は、何か呟くと、黒石を手に取り、ぴしっと打った。
そのまま、しばらく時間が経った。
どうも、ただの棋譜並べには見えない。
それは不思議な光景だった。
一体何の棋譜を置いているのだろう。
アキラはとうとう座敷にそっと入り、父の横に座り、父の置く石の並びを見つめた。
行洋はアキラが傍に来ても気にせず、真剣な眼差しで碁盤を睨んでいた。
見たことのない棋譜だ。でもお父さんは自分の棋譜を並べている。
アキラは一方が行洋の手だと分かった。
だったら相手は当然…。
長い時間だった。でも時間の長さなど全く感じられなかった。
夜が白み始めた頃、やっと行洋の棋譜並べは終わった。
行洋は何も言わず、じっと盤面を見つめていた。時々指で石を動かしては戻した。
アキラはその奇妙な儀式を見守った。
なぜか口を挟んではいけない気がした。
やがて行洋はまっすぐ自分の向かいを見つめた。ずっとそうしていた。
それから立ち上がり加減に手を伸ばし、そのままばたっと倒れたのだった。
アキラは、はじかれたように立ち上がった。そして叫んだ。
「お父さん!お母さん!お父さんが!」
行洋は当たり前のようにヒカルに話しかけた。
「進藤君、サイさんは、本当に、時を旅してきたのだね。」
その言葉に、物思いにふけっていたアキラは、はっと我に返った。
「はい。」
ヒカルは、そう返事を返しながら、自分でも驚くほど落ち着いていた。
塔矢先生が、佐為のことを信じていてくれる。時の旅を。でも急に何故だろう。
行洋の言葉は続いていた。
「君はそれをすぐに信じたのかね?
君はどうやって、サイさんと知り合ったのか、君とサイさんのことを教えてくれないかね。」
アキラは、やっと気づいて、ヒカルに椅子を差し出した。
それから自分も父親の傍に座って、ヒカルの言葉に集中した。
「俺がどうして、佐為と出会えたのかは分かりません。
もしかしたら、神様のきまぐれなんじゃないかと思ってます。
先生が今、佐為が時の旅をしたというのを信じているのが。
どうして急にそれを信じてくれたのかわからないですけど。
でも嬉しいです。ただ俺がこれから話すことを先生が信じてくれるかは自信がないです。」
そう言ってヒカルはちらとアキラを見た。
アキラは、黙ってじっとヒカルを見返した。