「明後日から学校かぁ」
カレンダーを眺めて、そう呟いた。
「行きたくない?」
「うん、めんどくさい。お家でのんびりしてたい」
「ふふ、がんばって優。ほら、もう涼しくなってきたんだし、歩きやすいよ」
しばらくは晴れが続くらしいので、まあ嫌になるような暑さだとかが無いのなら、今日と同じような良い天気なんだろう。
壁にかけた制服は、ちゃんとアイロンがかけれて皺ひとつない。カバンには、必要なプリントだとか宿題はちゃんと入れた。準備することも特にない。
「お姉ちゃん、久しぶりにお茶しに行こうよ」
久しぶりに立ち入る喫茶店は、あの日と変わらずに落ち着いた空間が続いていた。
テーブル席に向かい合って、前と同じようにケーキセットを頼む。
今はその時間さえも、楽しくて仕方がない。何気ない会話が、とても煌めいた時間なんだ。
「ねぇねぇ、お姉ちゃんお姉ちゃん。わたしね、髪の毛伸ばそうと思うんだ。お姉ちゃんみたいに」
「わぁあ、良いと思う! 優は絶対似合うよ」
「手入れって大変?」
「んー、そりゃあ短いほうが楽かなぁ」
「そっか、わたし面倒くさがっちゃいそう」
「ふふ、平気だよ。大変だけど、楽しいもん」
運ばれてきたレアチーズケーキ。ホットココア。この場所で、これを最初に口にしたあの日、わたしはまだ暗闇の中にいた。
もしも今、あの頃のわたしに会いに行けるとしたら、何を伝えよう。何と言って励まそう。
楽しくて、幸せで、かけがえのないお姉ちゃんとの夏休み。わたしはすっかり明るくなって、今なら辛いことも乗り越えられる、そんな単純なポジティブが胸にいる。
ずっと暗闇で傷付いて泣いていたあのわたしを、自分で自分のことを、助けてあげられたような気がした。
帰りがけ、ショッピングモールの近くにある、小さなアクセサリーショップ。
そのレトロな佇まいに引き込まれ、わたしもお姉ちゃんも期待を踊らせ店内へと入った。
ぼんやり輝くアクセサリー達。素朴なものから、キラキラと派手なものもあって。わたし達は食い入るように見ていた。
「お姉ちゃん、これどうかな」
わたしが手に取ったのは、小さいけれど細かい造形のイヤリング。
「あっ……かわいい!」
お姉ちゃんも目を輝かせるそれは、傘と雫を組み合わせたデザイン。ガラスの中に波紋の模様が閉じ込められてる。
そして、水色と藍色の色違いが並んで置いてある。
「おそろい、また増えちゃうね」
ゼラニウムの花を迎えてからというもの、わたしとお姉ちゃんはお揃いのものを買うようになった。
この夏を思い出させてくれるものは、どんなに多くても困らない。そんなわたしの言葉にお姉ちゃんは同意してくれて、気づいたら色々なものが増えていった。
このイヤリングも、そのひとつに加わった。
水色と藍色、それぞれ片方ずつ分けて。ふたり左右に色違いのイヤリング。きっと見るたびに、今日のことを思い出す。
わたし達は手を繋いで、でも何も喋ることはなく。
家の方向へゆっくりと歩いていく。今この時間は、猶予みたいなものだって判ってるから。
肌に当たるほんのすこしの風が、もう涼しいものだって気付いていたから。
それでも、この時間がいつまでも続いてほしい。なんて思ってしまうのは、やっぱりわたしの心が弱いからだろうか。
けれど、それでいい。大切で大好きな誰かと一緒にいたいのは、ごく自然なこと。一分一秒でも多く、一緒にいたい。
話が弾んで、人気の少ない帰り道に笑い声がほんのりと響く。繋いだ手と手は、もう強く握るべきじゃないのかもしれないけれど、ぎゅっと離さないように。わたしも、お姉ちゃんも。
ふいに風が吹いて、髪がなびく。
耳、頬、両手の指先。風は冷たくて、夏の終わりを告げに来たんだと、秋がそう言っているようで。
吹き抜けたままに、わたし達の歩いてきた道へと消えていく。
わたしの横に、もうお姉ちゃんはいなかった。
薄い雲が流れていく、彩度の低い青空。それは夏の間に見てきた、あの濃い色とは違うものだった。
「ばいばい、お姉ちゃん」
誰にも聞こえないほど小さな声で、呟いてみたその言葉は。
高く澄んだ空へ溶けていった。