夏場の蒸し暑い朝を迎えた俺の意識を覚醒させたのは、午前六時を指す目覚まし時計の音でも、右手にある窓から差し込む強い陽射しでもなかった。部屋の中心に置かれたテーブルの上に散乱する缶ビールの数々と、ベッドにあった複数の使用済みコンドーム。そして、俺と同じく全裸でベッドに横になる美女の存在だった。
「んっ……」
目を瞑って眠る美女は澄んだ声で小さく声を漏らし、神秘的といった表現の似合う顔を気持ちよさそうに緩めている。シーツ一枚という薄すぎる布で体の大事な部分を隠し、すらりとした足を伸ばしている。見えるか見えないかといったギリギリの場所から窺える太股は色白く、俺の視線を引きつけた。
邪な考えが浮かびそうになったところで、俺は頭を左右に激しく振った。
まずい、非常にまずいぞ。
考えれば考えるほど焦燥感に駆られ、俺の背中に嫌な汗が伝った。これは夢なのではないかと現実逃避をしたい気分になるが、今も肌に伝わる美女の感触が夢ではないと俺に自覚させた。上体を中途半端に起こした俺の左腕は美女の両腕に掴まれ、身動きが取れない。無理に引き剥がすことはできるが、そうすれば絶対に相手は起きてしまうだろう。
美女を起こしてしまう前に、自分の心の整理が必要だった。
俺は深呼吸を二、三回繰り返しても一向に鎮まらない心臓の鼓動を無視し、昨日の出来事から遡って記憶を巡らせた。
昨日、俺は仕事帰りに大学時代の友人と飲みに行った。友人の名前は
そんな高垣と俺は、ただの飲み友達だった。大学生のときに仲を深めたきっかけはなんだっただろうか。今となっては記憶が曖昧だが、確か大学の新入生歓迎会だったような覚えがある。高垣と俺は隣同士の席に座っていたはずだ。そこで話をしたはずだが、会話の内容は殆ど覚えていなかった。
一回目の出会いをきっかけに、俺たちは友人としての関係を築いた。酒が飲める年齢になって初めて飲みに行った際に発覚したことだが、高垣はそれはもうよく飲む女で、酔うと駄洒落やら冗談を遠慮なく飛ばす性格だった。見た目とのギャップに驚き、高垣のギャグで返答できずに凍りつく面々がいる中、俺だけは普通だった。両親が高垣のように酔うと剽軽になる性格だったために慣れていたかもしれない。
高垣とは友人として遊びに行ったり飲みに行ったりしたことはあったが、それ以上の関係にはならなかった。俺自身、当時は気になっていた人がいたこともあったし、高垣自身もそういった関係を望んでいないと何となく察していたからだ。
高垣は見た目はいい。稚拙な表現だが、女神と言う言葉を使っても誇大広告にはならないだろう。だが、中身はどうしようもない女だ。昨日、宅飲みをした際には家主である俺よりも騒ぎ、テレビに映っていた芸人の芸を見た後に一発芸を披露し始めた。それを見た俺は何故か対抗心を抱き、会社の飲み会の為にと温めておいた一発芸を全解放。火に油を注ぐが如く、高垣の熱を高めるに至ってしまった。
記憶が薄まったのはそこからだ。互いに酒を飲む速度を上げ、一発芸の応酬をしたのを覚えている。途中で王様ゲームや野球拳をしたのも何となく記憶にあった。だが、それ以上先はもう闇の中だった。
俺が高垣と何をしたのか。それは語るまでもないだろう。同じベッドにいる全裸の男女。使用済みコンドーム。夏場で汗に塗れた体には、明らかに汗以外の体液が付着していた。これで実は何もなかったというほうがおかしいと思える状況だ。
俺は顔を両手で覆った。
やってしまった。長年の飲み友達と一線を越えてしまったのだ。
これが一夜の過ちか。自分には無縁だと思っていた出来事に直面し、肝が冷える。避妊はしているようだが、果たして徹底されているのだろうか。誤って生身で繋がり合ってはいないだろうか。
「はぁ……」
「おはようございます」
責任という言葉が重く圧し掛かるのを感じながら俺がため息を吐くのと、横から声を掛けられたのは殆ど同時だった。俺のため息は十分に出し切ることなく止まり、心臓の鼓動が停止した。何もかもが停止したように感じる中、俺は壊れたロボットのように首を動かし、声の聞こえたすぐ左横に視線を向けた。
「おはようございます」
改めて掛けられた挨拶。声を放った美女、高垣はしっかりと俺の顔を見据え、柔らかく微笑みながら俺の腕を抱き締めた。絶対に放さないといった熱い抱擁。夏の熱気に満ちた部屋で掻いた互いの汗が触れ合い、混ざり合う。
どうしてエアコンが消えているのか。場違いな疑問が浮かび、足先にエアコンのリモコンらしき硬い物を捉えて、誤って消してしまったのかもしれないなという答えが自分の中で生じた。
軽い現実逃避。しかし、現実は待ってはくれない。
高垣が俺の腕ではなく、首に両手を回した。その際にシーツがずれ、高垣の上半身が露わになるが本人に気にした様子はない。驚きに開いた目で俺の目が高垣の胸元の膨らみに向きそうになったとき、高垣の顔が近づいてきた。
「た、高垣……?」
「キス、しませんか?」
そう言って高垣がいつにない真剣な、しかし恋人のような甘い雰囲気を漂わせて迫って来た。その様子に俺は息を呑んで受け入れてしまいそうになるが、咄嗟のところで働いた理性によって高垣から顔を遠ざける。
「だ、駄目だって……」
「どうしてですか? やっと、あなたと結ばれたのに……」
やっと? 高垣の発言に引っかかりを覚えたが、今はそれどころではない。
俺はどうにか高垣の手から自分の体を離し、ベッドから体を起こす。その際に股間が露わになって高垣のやけに嬉しそうな視線がそちらに向くが、シーツの端を掴んで股間を隠し、そのまま流れるようにベッドの上で正座をした。
高垣も空気を飲んでくれたのか、シーツで体を隠しながら正座をした。
一つのベッドの上で、シーツで体を隠しながら正座で向き合う男女。なんだこれ、という思いが頭を過ぎるが、客観的に自分の姿を考察している場合ではない。俺はこほんと小さく咳をし、引き締めた顔で高垣を真っ直ぐ見つめた。何故かそのとき、高垣の顔が酒のせいではないほんのりとした赤みを抱いた。
「まずは、謝罪を」
俺は上体を倒し、頭を下げた。それは殆ど土下座だった。人生初めての土下座を全裸で行ってしまうという事態に思うところはあったが、それも今はどうでもいい。とにかく今は相手に誠意を見せるべきだ。
「本当に、申し訳ない」
「どうして謝るんですか?」
「いや、だって……」
高垣の疑問の声に、俺はゆっくりと頭を上げて上体を起こした。高垣は小首を傾げていた。冗談ではなく、俺の謝罪の意味を本当に理解できていない様子だった。
「どこもおかしくはないと思いますけど」
「いやいや、おかしいだろ」
もしかして高垣は寝惚けているのだろうか。
そう思う俺に向かって、高垣は至って平然ととある言葉を口にした。
「そうでしょうか。恋人なら、普通ですよね?」
「……え?」
恋人? その言葉に俺が固まる中、高垣は俺の胸元に頭を押し当てるようにして身を預けてきた。両手は俺の背中に回り、しっかりと抱擁される。女性の柔らかい感触がこれでもかと体の至る箇所を襲い、余計に俺の思考は停止した。
「ようやく、あなたと恋人の関係になれました。待ち焦がれていた関係に」
高垣の声が遠くに聞こえるような感覚。おそらくだが、俺の意識が現実を現実と受け入れられずにいるのかもしれない。これは夢だと思い込み、早く夢から覚めようと意識が現実からの本格的な逃避を始める。
「もう、絶対に放しません。二度と、誰にも渡しません」
しかし、高垣の耳元で囁かれた声によって、俺の意識は強制的に現実へと引き戻された。残酷なまでの甘さ。体は震え、心まで魅了されてしまいそうなその声に、熱い抱擁に、俺はただ黙って息を呑むことしかできなかった。
「昨日誓ったことは、守ってもらいますからね?」
昨日、何があった。高垣の発言に込められた強い想いを感じ取り、俺はもう何も言わずに高垣の体を抱き締め返した。ここで高垣を拒絶すると恐ろしい目に遭いそうな気がする。高垣の瞳に宿っていた危ない色香は俺に恐怖心を抱かせるには十分だった。
その場の空気に流される自分が恨めしい。
「あなたを幸せにできるのは、私だけです」
そう口にした高垣に、俺は抵抗することもできずに押し倒された。