一夜の過ち   作:早見 彼方

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高垣楓2

 天にも昇る気分だった。持て余していたものを発散し、抱えていた欲求が一気に満たされた。でも、まだ俺の体は元気なままだ。行為そのものは終わっても、相手が俺の体をぎゅっと抱き締めているからだ。

 

「やっぱり、体の相性がすごくいいみたいですね」

 

 と、笑みをこぼす高垣。ベッドに背中を預ける俺の体に折り重なって、温もりを求めるように抱擁を続ける。シーツに覆われて中の様子は見えないが、汗やら何やらすごい状態となっているのがわかる。

 

 結局、場の空気に流された。高垣に押し倒された時点で拒むこともできたはずだが、容認してしまった。酔いつぶれた昨日とは違い、今度は記憶にしっかり刻まれている。普段とは違う乱れに乱れた高垣の姿をいつでも思い出せる。

 

 羞恥を覚え、俺は視線を横に逸らした。

 

「どうかしましたか?」

 

 青い瞳と緑の瞳。左右で色の違う神秘的な目で俺の顔を捉え、高垣は小首を傾げた。

 

「べ、別に……」

 

 俺は言葉に詰まりながら呟いた。

 

 静かな時間が流れる。互いに会話もない。聞こえるのは冷たい空気を垂れ流すエアコンの小さな音と、それよりもはっきりとした高垣の息づかいと心音だった。艶っぽい声が高垣から漏れるたびに、俺の体がいろいろと反応してしまう。

 

「もう一回しますか?」

 

「いや、大丈夫だ」

 

「そうですか……」

 

 俺の体の反応にいち早く気がついた高垣が期待するように聞いてきたが、断っておいた。そんなに残念なのか少し気を落とした様子の高垣が、すごく可愛かった。落ち込みつつも、何が面白いのか飽きずに俺の顔を眺めている。

 

 俺は別に高垣に釣り合うような美形ではないというのに。

 

「なあ、高垣」

 

「名前……」

 

「え?」

 

「名前で呼んでください」

 

 聞きたいことがあって話しかけたのだが、思わぬ事態になった。

 

 俺の喉が詰まった。

 

 高垣と初めて出会ったときから、俺はずっと『高垣』と呼び続けていた。その呼称を急に変えることは意外に大変だ。こう、照れ臭いようなくすぐったいような感覚を覚えて体が落ち着かない。

 

「名前で呼んでくれないと」

 

 言葉を区切った高垣は頬を緩めたかと思うと、顔を近づけてきた。

 

「んっ……!?」

 

 俺の唇に、高垣の唇が重なった。しっとりと潤いを帯びた小さな唇。柔らかさと体温によって頭に熱が昇る。それ以上のことを既に何度もしているのだが、それでも興奮の発露は抑えられない。

 

 それは高垣も同じようだった。

 

「何度でもキスしちゃいますからね?」

 

 一旦中断し、それだけ言うと、またキスを放つ。

 

 近すぎる美貌。息も心臓の鼓動もさっきより強く感じる。

 

 高垣はオッドアイを細め、笑う。まだですか? とでも言うように首を傾けた。ふんわりとした髪の毛が俺の頬を撫でた。くすぐったいが、今はそれ以上の鮮烈な感情が俺の心を満たしていて、相対的に気にならなかった。

 

「ぷ、はぁっ……」

 

 今、何回目だ。数え切れない接吻を繰り返してなお、息継ぎをした高垣の顔が接近してきた。

 

「か、楓……」

 

 頭がどうにかなってしまいそうだった俺は、高垣の名前を口にした。

 

「はい、あなたの、あなただけの楓ですよ?」

 

 高垣、楓は今日一番の笑顔を見せると、俺の唇に吸いついた。

 

 やめてくれるんじゃなかったのか。不意を突かれた俺の頭が、興奮と幸福に溢れる。こんなに満たされたことはあっただろうか。なぜか走馬灯のように過去の記憶が流れる中、俺の脳裏に前の彼女のことが過った。

 

『私たち、別れましょう?』

 

 短く、簡潔な言葉。それを最後に、彼女は俺との関係を打ち切った。

 

 何が悪かったのかわからない。好きだったから、彼女が求めることは何でもしたつもりだ。彼女もそれを喜んでいたと思っていた。だから、突然の別れは衝撃的で、今も俺の心に傷跡を残している。

 

 それ以来、彼女とは会っていない。電話も掛けていない。

 

 人伝いの噂によると、彼女は既に恋人を作っているらしい。

 

 そして、これも噂だが、まだ俺と交際中に彼女は現在の恋人と夜のホテルに。

 

「駄目ですよ」

 

 耳に注がれた声に俺は我に返り、目線を振り向けた。

 

「他の女性のことを、考えないで」

 

 楓の顔が俺の肩に埋められ、表情は隠れていた。

 

「あんな酷い人のことを、思い出さないで」

 

 何かを知っているような口振りだった。

 

「あなたはもう、私の恋人です」

 

 楓の手が俺の手に回る。強められた抱擁は少し痛かった。

 

 胸が押しつけられ、足が絡んでくる。その密着を俺は全て受け入れた。

 

 長い抱擁の後、顔を上げた楓は、俺を求めてきた。

 

「好き」

 

 耳元で囁かれ、体に触れられる、顔を覗き込まれる。

 

 ほんの少しだけ、楓の表情が怖いと思えた。何かに対する怒りを内に秘め、それを俺に対する愛情で無理矢理蓋をしているようだった。「あなたは傷つけさせない」と感情を強く波打たせた後、再び俺と一つになった。

 

「好き、大好き、愛しています。傍に置いてください。あなたの隣で、あなたの声を、温もりを、愛を感じていたい。私では駄目ですか? 私は絶対に浮気はしませんよ? あなたの幸せしか考えていません。私ではなくても、他の女性があなたを幸せにしてくれるだけでも私は十分幸せだった。それなのに、あの人は」

 

 珍しく、声を荒らげる楓。光を失ったように盲目的な眼差しが俺を射抜く。

 

 いや、俺を通して別の誰かを責めているようだった。

 

 その様子を、らしくない楓を見たくなくて、俺は咄嗟に手を伸ばした。

 

 楓の頭を両手で抱き締める。すると、楓はビクリと肩を震わせた。

 

「ごめん、なさい……」

 

 正気を取り戻し、大人しくなる楓。息も整えられ、心臓の鼓動も緩やかになっていく。

 

「ごめん」

 

「謝らないでください。あなたは何も悪くない」

 

「それでも、ごめん」

 

 俺のことを考えて、ここまで怒ってくれる人は親以外に会ったことがない。

 

「あと、ありがとう」

 

 お礼の言葉と、俺は自分からは初めての口づけを楓に贈った。

 

 今日で数え切れない口づけを、交わりを経験した。でも、そのキスは特別な感じがした。俺は気持ちの整理をつけ、楓を本当に心から受け入れられたからなのかもしれない。前の彼女のことを完全に忘れることはできていないけど、これから少しずつ忘れていくことはできる。

 

 俺は自分の想いを伝えようと、楓をベッドに押し倒した。

 

「好きっ、好きっ、好き好き好きっ」

 

「俺も、愛してるよ」

 

 愛の深い楓を組み伏せ、覆い被さる。体が熱い。エアコンは点いているのだが、汗が止まらない。二人で汗だくになって、俺たちは互いの存在を確かめ合った。

 

 二人だけの時間を過ごしていると、時刻は正午を過ぎていた。

 

「楓」

 

「はぁい」

 

「そろそろ放してくれないか?」

 

 二人で片づけをしてシャワーを浴びた後、俺たちは服を着てソファーに座っていた。ただ普通に座る分には問題ないのだが、なぜか楓は俺の膝に跨って正面から抱き着いてくる。首筋に鼻先を当てて、キスをしたり匂いを嗅いできたりしている。

 

「もうちょっとだけ」

 

「五分前にも同じこと言ってたけどな」

 

「本当にあと少しですから、五分、いえ、十分だけ」

 

「伸びてるんだが……」

 

 嘆息しつつ、俺も楓の背に両手を回す。

 

 容易に手が回る華奢な体。抱き締めると、その細さがわかる。

 

 俺が愛し、俺を愛してくれるこの人を守ってあげたい。

 

「あ、言い忘れていました」

 

「なに?」

 

「今度から私、あなたの家で暮らしますね? 私の愛しい恋人に、悪い虫がつくと困りますから」

 

 少し冷たさを帯びた声。冗談ではなく、本気の発言だということがわかった。

 

 楓は俺には勿体ないほどに魅力的な女性だが、やっぱり少しだけ怖い。俺は苦笑いをしつつ、心からそう思った。

 

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