爽やかな朝の訪れとともに、俺は緩慢な動きで体をベッドから起こした。
枕元の時計を見ると、まだ時刻は午前五時だった。しかし、八月の五時台は薄っすらと外が明るい。窓のカーテンを開いてまだ穏やかな日差しでも取り入れようかと思ったところで、すぐに考えを改めた。
寝惚けていて、俺の右横で楓が眠っているのを失念していた。俺と同じく全裸でベッドに横になっていて、体を隠しているのはシーツだけ。うっかりといろいろな部分が見えかねず、見たいという欲求に駆られそうになって、頭を振って邪念を慌てて払った。
昨日も随分と盛り上がったおかげで睡眠不足だ。昨夜の九時には楓と一緒に床に入って、眠ったのは日付が変わってから。その間、何をしていたのかは言うまでもない。楓に誘われるがまま、長時間に亘って恋人としての熱い時間を過ごした。今日が土曜日で良かった。
「ふ、ぁ……」
欠伸が出てしまい、眠気が押し寄せる。さすがにこの時間に活動を始めるには休息が足りていない。起きるのはやめて二度寝をしようと思い、元の位置に体を横たえて、眠るまで隣の楓の顔を眺めていようと思った。
「おはようございます……」
視線を向けるより先に掛けられた声。軽く驚いて目を向けると、悪戯成功、とでも言うかのように楓はにっこりと微笑んでいる。「子供かよ……」と俺が呆れたように言うと、楓は俺の右腕を引き、抱き着いてきた。
肌に伝わる柔らかさ。抱かれている場所が胸元だから余計に鮮明だった。
「しますか?」
何をと聞かなくてもわかる。それくらい、俺たちの間では日常的な愛情表現となっていた。
俺と楓が同棲を始めて半月が経っていた。他所様が見れば、俺たちは非常に甘すぎる生活を送っていることだろう。楓がどうやら仕事の同僚に俺との生活を話してしまったらしく、それを聞かされた相手はひたすらブラックコーヒーを啜っていたようだ。
仕事といえば、俺は楓の現在の仕事を最近になって初めて知った。
元々モデルをやっていた楓は、アイドルに転向したらしい。ベッドの上で話してくれた。飲み会のときに仕事の話はやめておこうという俺の配慮のおかげで発覚が遅れた。それにしても、楓がアイドルか。今でも驚きだ。しかも俺が知らなかっただけで、人気急上昇中らしい。まだ俺は二十五歳なのに、世間の流行にだいぶ遅れていると知って密かに愕然としていた。
それと、俺は思った。
楓がアイドルならば、俺は楓とこんな関係になっていていいのか。恋人がいることがバレたら大変なことになると思うのだが、楓は当たり前のように俺の傍にいる。所属している芸能事務所内では恋愛は禁止になっていないというのが楓の言い分だ。
ただ明言していないだけで、暗黙の了解とされているだけだと思うのだが、楓を含むアイドルたちはそうは思っていないらしい。中には、平然と意中の男を射止めたアイドルがいるらしい。楓と『ミステリアスアイズ』というユニットを組んでいる女子高生アイドルもその一人で、積極的なアプローチによって大人の男を陥落させたらしい。
他にも、担当のプロデューサーを堕とす、または堕とそうとしているアイドルがいるようだ。両親の協力を得て外堀を埋めようとしている子もいると聞いて、何それ怖いと俺は戦慄した。いずれも男のほうから言い寄ったわけではなく、女のほうから攻略しに掛かっている。
世間の恋愛観は変わりつつあるようだ。いや、局所的な事象かもしれないが。
楓もまた、俺を手放すつもりはないらしい。
ぼうっと考えていると、楓が身を寄せた。
「寝惚けているんですか……?」
耳元に向かって、吐息をたっぷりと含んだ声で囁かれる。ゾクリと背筋が震え、意識が蕩ける。これはまずい。もう何度も体験しているはずだが、一向に慣れる気配はない。優しく澄んだ声音で何度も囁かれるだけで、脳が幸せ一色に染まってしまう。
目が蕩け、体から力が抜け落ちる。
それを見ていた楓の顔に、複数の感情が広がっていた。
嗜虐心、征服欲、盲目的な愛情。
綺麗なオッドアイから、理性の光が薄れたように感じた。暗く、深く、見つめているだけでどこまでも吸い込まれてしまいそうだ。いつの間にか距離はさらに近づき、楓の射程圏内に入っていた。身を限界まで接触させた状態で、何かを話しかけられる。
「同棲の夢は叶ったので、次は結婚ですね……」
「いずれは子供も……。何人欲しいですか……?」
「素敵なあなたを捨てた、見る目のないあの人は、破局してしまったようですよ……。また懲りずに二股して、それがバレてしまったようです……。いろいろと大変みたいですけど、私たちにはもう関係ないですよね……?」
「でも、よかった……。あなたを捨ててくれて……。おかげであなたを手に入れられた……」
話の内容は聞き取れなかった。その頃には、既に意識が沈みかけていたから。
目蓋が重たい。楓の暗い瞳を見つめていたが、俺はゆっくりと視界を閉ざした。
「あなたは、私だけのもの……。ふふっ……。今日もたっぷり、愛してあげますね……?」
何を言っているのかはわからなかったが、何かをされるということだけはわかった。
再び目覚めたとき、眠気はなくなっていた。カーテンを開くと、先ほどよりも日は高く昇っていた。時計の針は午前七時を指している。隣には楓はいない。ベッドの様子を確認すると、二度寝をする前に比べて新しい湿り気を帯びていた。
ベッドから起き上がって服を着て、シーツを持って部屋を出た。
汚れたシーツを洗濯機の前の籠にひとまず入れておき、足を台所へと向けた。
「おはようございます」
「おはよう……」
改めて俺に挨拶をした楓は、料理をしていた。俺のワイシャツを着ていて、その上にエプロンを着用している。ワイシャツの下には何も着ていないらしい。体の線が鮮明に見て取れてしまうため、そこから視線を逸らす。
「手伝おうか?」
「もうすぐできるので大丈夫です。待っていてください」
楓の柔らかい微笑みを向けられ、油断して顔が赤らみ、心臓が高鳴った。最近の俺はおかしい。急に接近され、触られて、優しい笑顔を向けられるだけでドキドキしてしまう。こんなに俺は緊張しいだったか? そんなはずはなかったと思うのだが。前の彼女と付き合っていたときだって、ここまでの反応をしたことはなかった。
「わかった」
言われるまま居間に向かい、食卓の席に着く。
俺の部屋はマンションの1LDKの一室だ。一人で暮らす分には問題ないが、楓と一緒に暮らすのならばもう少し広い方がいいだろう。いつかは家を建てて、そこに楓と住みたいとも思っているし、いつかは子供だって作りたいと思って――。
「ん……?」
あまりに自然に考えてしまって、俺は遅れて首を傾げた。俺はこんなに子供を作りたいと思っていたか? いや、楓と愛し合っている自覚はあるし、いずれはと思っていたが、自分の中でここまで欲求が強くなっていることが不思議だった。
「できましたよ。朝食にしましょう」
楓が料理を運んできて、俺は思考を中断した。
「いただきます」
席に着き、揃って声に出す。さて、食べようかと思って箸を手に取るよりも先に楓は行動に出た。
「あーん」
笑顔を浮かべた楓が玉子焼きを掴んだ箸を、俺へと差し向けてきた。
「だから、それは……」
さすがに恥ずかしい。毎回断っているのだが、今日の楓は妙に粘り強かった。
「あーん」
「なあ……」
「私のこと、嫌いですか……?」
笑顔のままのはずだが、何か妙な気迫を感じた。恐れの感情で肝が冷える。ただの笑顔がなぜここまで。これが尻に敷かれた旦那の気分なのか。などと考えつつ、根負けした俺は「わかったよ……」と言って口を開いた。
玉子焼きが口に入り、俺はそれを咀嚼した。甘く深い味わいと、ふっくらとした触感が広がる。噛むたびに唾液がわき出てくる。俺が作る硬くて平べったい玉子焼きとはまるで違う。この玉子焼きを、毎日食べたいと思えてくる。
どうやら俺は胃袋まで掴まれてしまったらしい。
「美味しいですか?」
「ん……」
玉子焼きを堪能しながら、俺は首を縦に振る。それだけで楓の機嫌は良くなっていき、今度はかぼちゃの煮物を箸で掴んだ。自分で食べるわけではないようで、まだ玉子焼きを食べている俺の口が開くのを今か今かと待っている。
「もういいから。自分で食べられるから」
「もう一回、あと一回だけでいいですから」
妙な要求に拘る楓に呆れつつ、俺はまた口を開いた。
そのときに見せた、楓の笑顔は本物で、俺は本当に愛されているのだと思う。
俺は今、幸せだった。彼女に振られ、傷心だった頃が懐かしい。俺の心の傷も埋め尽くすほどの愛情を楓に注がれ、俺もそれに応えた。毎日ベッドで寝不足になるまで愛し合うのは勿論、時にはそのまま朝を迎えることもあった。
俺ばかりがこんなに幸せでいいのだろうか。
もっと、俺から楓にできることはないのだろうか。
考えてみるが、大それたことは想像できない。今の俺にできることをするべきだろう。
「今日、デートに行かないか?」
思えば、楓と二人でデートらしいデートをしたことはなかった。大抵は飲みに行くか、自宅で飲むか、ベッドで愛し合うかの三択。恋人として、もっと楓の新しい一面も見てみたいとも思っていた。
「はい、喜んで」
何気ない提案に、楓は予想以上に喜んでくれた。それが嬉しくて、俺は頬を緩めた。