体に触れていた熱が薄れ、高垣楓は意識を覚ました。
目を開けると、室内は夜の暗闇に支配されていた。今は何時だろう。気になって枕元にある目覚まし時計に目を向けようとしたとき、楓は男の背中を少し離れた正面に捉えた。その瞬間には、時間を確認することなど頭から抜けて落ちた。
背を向けている男、愛する彼に身を寄せる。大きな背中を抱きしめる形で体を密着させる。互いの接触を妨げる余計な布地は一切存在せず、薄れていた熱がじんわりと戻ってくる。どうやら先ほどまでは一緒に抱き合っていたが、彼が寝返りを打ったことで離れてしまったようだ。
今度は離さない。
楓は大切な宝物を抱き、艶やかに微笑んだ。それは、アイドルとしてステージに立ち、大勢のファンに向ける慈愛に満ちた笑顔とはまるで違う。彼の傍にいるときだけに見せる、恋に溺れた女としての顔。
「ふふっ……」
その顔ができるようになったのはここ最近だ。
愛する彼を泥酔させ、自分を抱いてもらったあの日。正常な思考などあるはずのない彼を楓は誘導し、魅了し、関係を築いた。彼が元恋人である彼女の名前を口にしたときには身を焦がすような嫉妬心に駆られたが、それすらも利用した。
彼と彼女は別れた。彼は振られたのだ。
意味がわからないと今でも思う。こんなに素敵な人を捨てるなど。
楓は確かに、昔から周囲の人間と価値観がどこか違っていた。恵まれた容姿のために異性から言い寄られることも多かったが、楓の心を惹く人はいなかった。中には彼よりも容姿の優れた人は大勢いて、それでも全てを振った自分のほうがおかしいのかもしれない。
でも、やはり楓は彼女の気持ちがわからなかった。一度付き合っていれば、彼の素晴らしさは十分に伝わるはず。こんなに素敵な人を手放すなどあり得ない。それなら最初から手を出さないでほしいと思った。
そうすれば、自分がずっと彼と付き合えていたというのに。
初めからずっと。
『高垣って、なんか無理してないか?』
楓はふと、初めて彼に声を掛けられたときのことを思い出した。
それは大学生時代の新入生歓迎会のときの記憶だった。
楓は人との会話があまり上手ではなく、これまでの人生でろくに友人を作ることができなかった。どうにも、周囲が楓に求めている内面と、楓の本当の内面というものが乖離しているらしく、友人関係も一時的なものが多かった。
いつまでもそれではいけない。自分の性格を多少着飾ってでも、周りに合わせていくべきだ。楓は大学では友達を一人でも作ろうと奮起し、歓迎会に参加した。
しかし、結果は芳しくなかった。
言葉を選び、態度を取り繕い、周りが求める理想の高垣楓を演じたつもりだが、どうにも上手くいかない。理想の自分とはなんだろう。それは本当に自分なのだろうか。好きな駄洒落も、好きな芸人についても語れない。自分を偽る言葉を紡いでも、それに熱は宿っていない。淡泊な女、とでも思われてしまったようで、歓迎会という場で孤立してしまった。
頼んだジュースをちびちびと飲み、ただ時間が過ぎるのを待つだけの居心地の悪い時間。どうして自分はここに来てしまったのだろう。頑張ろうという気力はいつの間にか萎んでしまい、後悔が胸中に広がっていた。
「高垣って、なんか無理してないか?」
「え……?」
横から突然掛けられた声に少し驚き、楓は肩を震わせ、慌てて視線を振り向けた。
そこにいたのは、歓迎会で隣の席になった男だった。見た目は平凡。体格も普通。世間的に見ればどこにでもいる普通の男だった。ただ、性格は明るく、先ほどは初対面の先輩相手とも仲良く談笑していたのを見て、楓は羨ましいと密かに思っていた。
少し前まで席を外していたはずだが、なぜ戻ってきたのだろう。周りには楓以外に誰もいない。まだ他の新入生や先輩たちは別の席で話し込んでいる。孤立している楓を哀れんだか、楓の外見に惹かれてやってきたかのいずれかだと楓は思ったが、そのいずれでもなかった。
「無理、というのはどういう意味ですか?」
図星を突かれ、意図せずに声にわずかな苛立ちが込もってしまった。楓は急いで口を閉ざす。
やってしまった。初対面の人に怒りをぶつけるような真似をしてしまい、気分が落ち込む。これでは友達などできるわけもない。まともに会話すらできないような人間ならば、やはり歓迎会などに来るべきではなかった。
ちらりと、楓は横目で彼の反応を窺う。
彼は特に気にした様子もなく、唐揚げを美味しそうに食べつつ、ウーロン茶で流し込んでいた。その表情は緩んでいて、とても美味しそうに見えた。そういえば、ここに来てまだあまり食べていなかったことに気がつき、楓は思い出したかのような空腹に襲われた。
箸で唐揚げを取り皿に運び、かぶりつく。パリッと衣は適度に分厚く、硬い。中身は歯切れのいい肉質で、肉汁が溢れ出る。確かに美味しい。楓は目を見張り、口元を隠すことなく唐揚げを頬張った。
それを今度は彼が見ていたようで、柔らかく笑った。
「美味しいよな、それ」
言われてすぐに、楓はすぐに男から視線を逸らした。ゆっくり味わいたいと思ったが、飲み物で早々に喉に流し込み、口元についた衣の破片をハンカチで拭う。今さら遅いが表情を取り繕い、こほんと空咳を打った。
「その、食べているところをあまり見ないでほしいのですけど……」
「ああ、悪い。でも、そっちだって見てただろ。お互い様ってことで」
咎められたと思ったのか、男は弁明するように言って、頬を緩めた。
毒気を抜かれる笑顔だ。これが人付き合いを円滑に進められる秘訣なのだろうか。独りでいた楓に平気で話しかけてくるくらいだから、度胸もあるのだろう。改めて、彼の性格が羨ましいと思えてしまう。
「それで、無理というのはどういうことでしょうか」
その感情を誤魔化すように、楓は話題を元に戻した。気になったのだ。楓が自分の容姿に合った振る舞いを見せようとして、加減がわからずに素っ気ないと陰で言われることはあっても、無理をしているという評価を得たことはない。
男はどうしてそう思ったのかが、知りたかった。
「言葉通りだけど。高垣ってたぶん、周りに合わせようとして自分の本来の性格を隠してるだろ? 素の自分のまま、いろいろな人と喋ったり、笑い合ったりしたいと思っているように見えるんだよな」
「なんで、そこまで……」
「どうして隠しているのかって思ってさ。あ、すみませーん。それ、貰ってもいいですか? ずっと話していたからお腹減っちゃって」
楓の口からこぼれ出た疑問の声は聞こえなかったようで、彼は人が多くて賑やかな隣のテーブルから、余っていた料理を受け取っていた。会話が途切れてしまい、続けて問いを投げかけにくい。だが、彼はすぐに楓のほうを向くと、口元を綻ばせた。
「何か事情があったらごめん。そのときは聞き流してくれていいんだけど、人生なんて誰かに頼まれて生きているわけじゃないだからさ、他人と比較しすぎないで自分らしく生きるべきだと思うんだよな。勿論、誰かに迷惑を掛けないこと前提でな」
ニッと歯を覗かせて彼は笑った。見る者を安心させるような、穏やかな笑顔。両親以外では、楓にその笑顔を向けたのは彼が初めてだった。突然のことに息が詰まる。視線が彼の顔に固定され、心臓の鼓動が乱れた。
落ち着いて。ただ驚いただけ。楓はそう言い聞かせ、震えそうになる唇を開いた。
「それで、自分らしく生きる自分を、周りの人から否定されたら。どうするんですか?」
「まあ、その場を離れて、自分に合う人を探すかな」
「探しても、探しても、見つからなかったら?」
「え? あー。まあ、そういうこともあるか……」
問いを投げかけ続けると、彼はうんうんと唸った。
しばらく待っても、彼は悩んだまま答えを出してはくれなかった。もしかして、と思ったけど、彼にもわからないらしい。そうなると、自分はどうすればいいのか。もしもこの先、自分を認めてくれる人に出会えなかったら、ずっと孤独が続くのだろうか。
孤独の寒さに震える自分。耐え凌ぐためには、偽りの自分という名の分厚く着心地の悪い衣服に身を包むしかないのか。楓はその場で俯き、誰もいなくなった向かいの席へと視線を走らせた。
「でも、高垣の場合は大丈夫だろ。他に誰もいなかったら、俺でよければ話し相手になるし」
不意打ちのように掛けられた言葉。楓は再び彼を見た。
残っていたポテトサラダを皿に運び、またしても美味しそうに味わっている。
特に深い意図があって紡がれた言葉ではないらしい。人の機微に敏感な自分だからわかる。この人に明確な裏表は存在しない。本当に、周りに迷惑を掛けない範囲で自分の生きたいように生きているのだとわかった。
「友達に、なってくれるということですか?」
「もう友達だけど? あ、ポテトサラダ食べるか? これもめっちゃ美味い」
「あ、ありがとう、ございます……」
お礼を言うと、彼は楓の皿にポテトサラダを盛り付けていく。こうやって、人の世話をすることに慣れているのだろうか。あれもこれもと、楓の前にいろいろな料理が並べられていく。他の人たちが話に夢中で手をつけずに冷めてしまった料理。それでも、楓は美味しいと思った。料理自体の味もそうだが、飾らない自分を見せられる人を見つけて、肩から余計な力が抜けたおかげかもしれない。
素の自分を見せ、二人だけで会話をした。楓は今でも、そのときに何を話したのか詳細に覚えている。彼の趣味や特技、好きなものや嫌いなものも。それと、現在気になっている人のことも。
彼と知り合うきっかけができただけで、そのときの楓は彼に明確な恋心は抱いてはいなかった。しかし、唯一の友人として彼と話し、いろいろな場所へと遊びに行き、ただの友達として一緒にいる時間が増えたことで、特別な感情が徐々に芽生えていった。
この人の傍は居心地がいい。この人の傍に、もっといたい。
鋭いようで、妙なところで抜けている部分もある彼は、楓の中で膨らむ感情を見抜けてはいないようだった。もしも察することができていれば、恋人ができたなどという報告を楓にすることもない。突如降り注いだ喪失感で言葉を失った楓に向けて、楽しそうに話を続けることなどなかったはずだ。
私が先に好きだったはずなのに。
電話口での報告で幸いだった。顔を見られていれば、楓の恋心は彼に気づかれていたかもしれない。楓ですら、この場でようやく気がついた自身の感情を、その相手である彼にバレたとなれば、冷静ではいられなくなるだろう。
下唇を噛み、痛みでもって自身を制御し、楓は取り繕った表情で言葉を紡いだ。
「おめでとうございます」
100%の嘘で塗り固めた言葉。それでも、彼は気がついてくれなかった。恋は盲目というところか。楓の本心を察することができるほど鋭かった彼は、その言葉を真に受けた。
何もかもが遅かった。どうして、こうも悠長にしていたのだろう。自分のことを一番わかっていないのは自分だった。叶うのならば、昔の自分に戻って、彼を奪った相手よりも前に彼に想いを伝えたい。
もう何もかもが遅い。彼に恋人ができ、長い時間を、この後失うことになった。
彼の背中を抱く手に力を込める。今は、この体を抱けるのは自分だけ。達成感が湧き上がる。抑えきれなくなって、表情に笑顔がこぼれる。室内の暗闇よりも濃い、どろどろとした黒い愛情を瞳に湛え、彼の肩に顎を乗せる。
そして、眠っている彼に向かって囁く。
「体の隅々まで、物理的に、精神的に、じっくりと愛してあげます。手料理であなたの胃袋も綺麗にして、脳にも網膜にも私の姿を焼きつけて、いずれはあの人のことを思い出せないようにしてあげます。ふふっ……。私の、私の友達。私の恋人。私の、私の私の私の私の。あなたは私のものになって、家庭を築いて、これから一生幸せになるんですよ?」
言葉にすると気持ちが昂る。このまま眠るのは無理だと思い、楓は彼の体に指を這わせた。
次話は気が向いたら投稿します。気が向けば。