一夜の過ち   作:早見 彼方

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番外


鷺沢文香

 アイドルである鷺沢(さぎさわ)文香(ふみか)は、担当のプロデューサーを心の底から愛している。

 

 十九年間生きてきて、初めての恋だ。彼の者の顔を思い浮かべるだけで気分は高揚し、体の内側に強い熱を孕む。まるでプロデューサーに抱き締められているかのようだ。以前、文香が事務所内にある階段から足を滑らせそうになったとき、身を呈して守ってもらったときの感覚を思い出す。

 

 不謹慎ではあるが、あのときのプロデューサーは格好良かった。いつも格好良いのは言うまでもないが、あの瞬間は特に。常に冷静沈着で、驚いた顔など見たこともない。「我々プロデューサーは舞台装置だ。アイドルを輝かせる一要素に過ぎない。装置に余計な感情は必要ない。常に冷静であるべきだ」と普段から豪語していた彼が、慌てて飛び掛かり、文香を腕の中に抱きしめて階段から転げ落ちたときの必死な様子は忘れない。

 

 あの瞬間を切り取って保存できるものならばそうしたい。だが、あの場には他に誰もおらず、二人を映すカメラも存在しない。

 

 故に記憶の中だけに存在し、胸の内側に大切にしている。

 

 勿論、文香にとって大切な思い出はそれだけではない。外で偶然出会ったプロデューサーに勧誘され、アイドルの道を踏み出し始めてから体験した日々が、どれも色鮮やかに輝いている。プロデューサーに対する愛情を強めるたびに、その輝きは日々増しているようだ。

 

「ふふ……」

 

 文香は小さな笑みを淑やかに整った顔に滲ませ、ベッドの端に座ったまま体を捻って背後を見た。そこには、黒髪をオールバックにした二十代後半の男が眠っていた。

 

 彼こそが文香のプロデューサーであり、意中の殿方だ。普段はジャケットまでカッチリと身につけている彼だが、文香の手によって丁寧に衣服を剥ぎ取られ、今では下着一枚になっていた。

 

 初めてまともに見る男の体。女とは違い、はっきりと備わった筋肉からは逞しさを感じた。文香は自身の大きな胸に手を当て、呼吸を整えようとする。しかし、鼓動は速いままだ。全く制御できない。鼓動に急かされるように、いつもならば考えられないような行動にも出てしまう。

 

「温かい……」

 

 彼の胸板に頬を当て、じんわりと伝わる温もりに安堵の息を漏らす。文香の長い黒髪が腹に乗って少しくすぐったさを感じたのか、彼がわずかに身動ぎした。だが、目を覚ますには至らない。

 

 酔い潰して正解だった。

 

 文香は頭を持ち上げ、彼の眼前に顔を近づけた。容易に接吻ができてしまう距離感でじっと彼を観察する。今は眼鏡も外していて、だいぶ印象が違って見える。理知的で精悍な顔立ちであっても、寝顔はこんなにも無邪気だ。

 

 この顔をいつも見ていたい。文香はそんな想いに駆られて携帯電話を取り出すと、慣れない手付きで彼を撮影した。顔、全身、上半身、下半身、足の指先に至るまで激写し、自分の行為に興奮を覚えたのからしくもなく息を荒らげる。

 

 寝ている男の人の体を撮影するなど、破廉恥極まりない。だが、ここに来て罪悪感を募らせ、何もしないというのはあまりにも勿体なさすぎる。せっかく、同僚の年長アイドルたちの力を借りて彼を居酒屋に強制連行し、酔わせてから彼の自宅まで運び入れたのだ。

 

 ちなみに、未成年である文香は当然酒を飲んでいないが、空気に酔ったことは否めない。

 

「このまま、求めてもいいのでしょうか……?」

 

 自分に問うが、答えは決まっていた。

 

 文香は決心すると、服を脱いだ。ゆったりとした衣服からでもわかる母性的な女体と染みや傷一つない白い柔肌を曝け出し、無防備に眠ったままの彼の上に腰掛けた。男性の上に乗るなど初めての経験だ。でも、慣れていかなければならない。今日は一晩中、彼の上で彼を求める予定なのだから。

 

 彼の特定の部位に熱が集まるのを感じつつ、文香は彼に跨ったまま上体を倒した。重なるように肌を接触させ、彼の顔を至近距離で眺めると、欲望が急激に膨らんだ。

 

「プロデューサーさん……?」

 

 声を掛けても、返ってくるのは安らかな寝息。

 

「起きてください……」

 

 思ってもいない言葉を掛ける。心に決めたとはいえ、文香はこれから行うことに罪の意識を感じていた。同意なく他人の寝込みを襲うことはしてはいけない。それは常識的な考え方であり、文香にも十分わかっている。

 

 それでも、この選択を取らざるを得なかった。

 

「起きないと、襲ってしまいますよ……」

 

 彼は真面目だ。彼がプロデューサーである以上、アイドルである文香の想いに応えることはない。導くべき存在を自分の手で汚すわけにはいかないと彼は思っているのだろう。その考えは何も間違っていないし、そんな誠実な彼だからこそここまで文香はついてきた。

 

 文香は思い返す。彼と積み重ねてきた日々を。

 

『レッスンは順調のようだな。さすがは私が見つけた逸材だ。ふふ、自分の観察眼が恐ろしい。天才か? 私は。そうだ、天才だ。なにせ、この業界に転職して早々にトップアイドルの原石を見つけてしまったのだからな』

 

『レッスンを継続しつつ、これからは本格的にアイドルとしての仕事もしてもらう。いろいろと新しいことだらけで混乱するかと思うが、困ったことがあればすぐに相談してほしい。何、私というサポートがいれば大丈夫だ。大船に乗った気分でいるといい』

 

『小さな商業施設で開かれるミニライブ。しかも、当たり前ではあるが単独ライブでもない。とはいえ、ライブには違いない。大丈夫だ。今の君の実力を発揮できれば問題ない。……緊張して失敗しても構わない。肩の力を抜くといい。ふむ、まだ表情が強張っているぞ。では、私が長年温めていた渾身のギャグを披露してやろう』

 

『失敗は誰にでもある。私も失敗を重ねてきた。大事なのは、次に活かすことだ。いつまでも後ろを見ていても成長はしない。……あー、つまり、だ。そ、そんなに泣くな。どうしていいのかわからないではないか』

 

『安心しろ。私はいつでも君の傍にいる。私は君のプロデューサーなのだからな。ただ、ステージの上まではついていくことはできない。スポットライトを浴びるのは私ではなく、君だ。楽しいことばかりではなく、これから先も辛いことはあるだろう。だが、一人で抱え込まずに、困ったことがあればすぐに相談してくれ。賢くて優秀なこの私が、全力で君の明るい未来を描いてみせよう』

 

 落ち着いているかと思えば、たまに妙にテンションがおかしく、自信家で、意外に繊細な彼。しかし、彼ほど一緒にいて心が安らぐ者もいない。トレードマークの眼鏡を指で押し上げ、不敵に笑う彼を傍で見ていると、ここが自分の居場所なのだと思えた。

 

 ここが自分の居場所。誰にも渡さない。誰にも取られたくはない。でも、ずっと一緒にはいられない。いずれは彼も新しいアイドルに担当を移されるだろう。そうなったとき、他のアイドルが彼のことを好きになったらどうすればいいのか。自分の全てに自信を持てない文香にとって、彼との間を引き裂く第三者の登場は考えるだけで恐ろしい。

 

 恐ろしくて、胸が引き裂かれそうで、眠れない日もあった。大好きな読書の手が進まないときもあった。こんなに苦しい思いをするくらいなら、恋をしなければいいと考えるときもあった。

 

 それでも、文香はこの恋心を捨てられなかった。また、正々堂々と彼に想いを伝え、断られる未来も見たくはない。彼の傍にいられない自分を想像したくもない。

 

 だから、文香は卑怯な手を使うことにした。

 

 彼が泥酔している間に、既成事実を作る。よくある手法で、文香も前に考案したが、あまりに一方的な行いであるために諦めたはずだった。しかし、つい最近になって同僚のアイドルである高垣楓が同じ手法を取り、意中の男を無事に射止めたという話を本人から聞いた。

 

『自分勝手で悪いことだとは自覚しているけど、それが効果的な手だったから。彼を手に入れたい。自分だけのものにしたい。彼をこれ以上傷つかせないために、私という檻に閉じ込めて、幸せという鍵を掛けることにしたの』

 

 そう語る楓の目は、一縷の光も湛えていなかった。覗き込むだけで引きずり込まれるような暗い瞳。ゾクリと背筋が震える恐怖を覚えるとともに、文香は強い共感も抱いた。

 

 告白をしても絶対に断られる。自分の想いを捨てることも文香にはできない。それなら、それならば、もう取るべき行動は決まっている。

 

 文香はそうして、実行に移した。

 

 ここまでは順調。本番はここからだ。

 

「私の、私だけのプロデューサー……」

 

 彼の顔を至近距離で直視する。

 

「心も、体も、全部、私のものに……」

 

 見れば見るほど、彼に惹き込まれる。これほど愛おしいと感じる存在がいるなんて。この人を手に入れるためならば、何でもできる気がした。狂気にも等しい楓の深すぎる愛情も、今ならばわかる。それに近い感情が心の中に宿っていた。

 

「はぁ……」

 

 熱い吐息をこぼし、頬を紅潮させた文香。その口元は綺麗に吊り上がっていて、彼だけを見つめる瞳には窓の外の夜空よりも濃い闇が広がっていた。

 

「月が、綺麗ですね……」

 

 窓の外にちょうどよく見える欠けた月を見て、文香は彼に話しかける。相変わらず、彼は心地よさそうに眠っている。月の輝きは勿論、裸になって覆い被さっている自慢のアイドルの姿にも気がつくことはない。

 

 彼が目を覚ましたときには、全てが終わっているはずだ。

 

 その頃には、彼は責任を取ってくれるだろう。彼が抱く罪悪感を思うと心が痛むが、許してほしい。これからずっと、一生傍で愛し続けるから。不幸だとは感じさせないから、どうか不器用で卑怯な自分を受け止めてほしい。

 

「いただきます……」

 

 そっと耳元で囁くと、文香は愛する男と契りを交わした。

 




今年もお疲れ様でした。

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