夜。居間のソファーに一人腰掛けた俺は、正面にあるテレビを観ていた。
俺には一人でテレビを観る習慣はあまりなくて、ほとんど無用の長物といってもいい。一人のときはインターネットの動画配信サイトで映画を見てばかりいて、誰かが家に遊びにくるときくらいしかテレビの本領が発揮されることはない。
そんな俺がなぜ、こうして真剣にテレビと向き合っているのか。
『ええ。ビールもそうですけど、焼酎もしょっちゅう飲むんですよ』
全国放送のバラエティ番組で、駄洒落を言い放つ出演者のアイドル。楓だ。にっこりとした微笑みを浮かべる顔は非常に美麗で、二十五歳という年齢でありながら少女のような幼さも感じさせる。いるだけで視聴者を釘付けにする美貌。
しかし、楓が放った言葉でスタジオ内が水を打ったようになる。
これは生放送ではなく収録だが、それでも凍った空気を完全に編集で誤魔化すのは難しいようだ。
普通に放送事故だが、そこへ思わぬ助け舟が現れた。
『しょ、焼酎を、ぅ、しゅっちゅう、って、そんな……くくっ……』
二十五歳のアイドルの駄洒落で笑い苦しむのは、隣の席に座る高校生アイドル。
どうやら、歌だけでなく感性も楓と似ているようだ。
『いや、笑い過ぎやろ!』
という司会を務めるベテラン芸人の笑い混じりの声が響き、観客の笑い声が上がる。
『ふふ……』
それには楓もご満悦のようで、綺麗な笑顔をカメラに見せていた。
活き活きとしている。本人曰く、少し前まではテレビの前でも猫を被っていることも多かったようだが、段々と自分らしい自分を見せられるようになったらしい。そんな楓を周りも拒絶することもなく、受け入れてくれているとのことだ。
戸惑っている人はまだ多いが、いずれは周りも楓のキャラに慣れるのだろう。素直に嬉しいと感じた。
一方で、ほんの少しだけ悔しいと感じる自分もいて、俺は驚いた。
この感情はたぶん、本当の楓を独り占めしたかった、という想いなのだろう。それを冷静に分析すると、俺は強い羞恥を覚えた。赤く火照った頬を隠すように、手で口元を掴むように覆った。
「やばい、恥ずかしい……」
「何がですか?」
声が聞こえた。今、テレビから聞こえてくる声と同じ声が、右横から。
驚きで、心臓が跳ねた。今の今まで気がつかなかった。さすがに声は出さなかったが、反射的に視線を振り向けてしまう。
「ただいま帰りました」
仕事から帰宅したばかりの楓が、手をひらひらと振ってみせた。
「おかえり……」
と声を搾り出すのが精いっぱいで、俺はすぐに視線を前に向けた。俺の視線に釣られるようにして楓もテレビを観たらしく、「この前収録した番組ですね」と当時の楽しさを思い出すように言った。
「千早ちゃん、可愛かったですね」
「そ、そうか……」
「他にも歌番組で一緒になることもあって」
「へえ……」
とりあえず落ち着くまで時間が掛かりそうだ。今は楓本人を直視できない。
俺はテレビを観ている振りをしながら、適当に相槌を打った。楓の言葉は耳に入っているが、頭が理解できていない。自分の中にあった思わぬ心境を知ってしまった動揺が俺の心を揺さぶっている。
そんな状態だから、俺は楓の強襲にも対応できなかった。
テレビに向く俺の視線を遮るように、正面に立った楓。ソファーに座る俺に正対して、膝に跨ってきた。楓はこの体勢が好きなようだ。もう何回もこうして甘えられることがあるのだが、今はちょっとまずい。
「ただいまのキスを、していませんでしたね」
蠱惑的に笑う楓。俺の心情を知っているわけではないから、純粋な興奮からだろう。
楓のキスは、長い。基本的に楓が満足するまで終わらない。
「今日はいい……」
「駄目ですよ。毎日しないと。行ってきますのキスもしたんですから。片道では困ります」
そう言って、口元を抑える俺の手を引き剥がそうとする。
「手、離してください」
「よせ……」
「強情ですね。今日はどうしたんですか? あなたの下に帰ってきたという、証をください」
「後で、するから。必ず」
「むぅ……。あとで、絶対ですよ?」
俺が言うと、楓は少し不満を見せつつも、手の力を緩めた。
俺はほっと安堵の息をついた。
そろそろ大丈夫そうか? ようやく動揺が鎮まり始めたときだった。
「えいっ」
と、手を引いたかに見せかけた楓によって、俺の手は口元から引き剥がされた。
楓は、俺が何を意固地になっているかわからなかったはずだ。
しかし、俺の顔に浮かぶ羞恥の残滓、それを感じ取ったとでもいうのか、目元に弧を描いた。
「なんだか、いい顔をしていますね」
俺に顔を近づけ、間近で見つめる。頬に楓の熱が、吐息が当たる。甘い匂いが鼻を通り、脳を刺激する。隙を突かれた心は簡単に蕩け、「頂きます」と一言断りを入れた楓の唇が俺に押し当てられた。
文章にしようとすれば、きっと、年齢制限に引っかかりそうな深い口づけ。
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。五感全てが、美の化身によって支配される。
ソファーに座っているのに、腰砕けになってしまいそうな、そんな時間が訪れた。
時間がどれほど経ったのかは、わからない。数秒のようにも、数分のようにも感じられた。
俺から顔を離した楓は歓喜に震え、獣のような高揚を露わにしていた。
「夕食の前に、あなたを頂いてしまいましょうか……?」
首筋にキスの痕をつけられた後、耳の中に密閉されたような声が深く響く。
吐息が鼓膜を襲い、思考能力は極限まで削り落とされていた。抵抗する力も弱々しく、楓には逆らえない。ソファーの背もたれが倒され、ベッドに変わったその場所に押し倒され、俺の上に楓が陣取る。
「とても、美味しそう……。隅々まで、味わってあげますね……?」
舌なめずりした楓。濃い色香を全身から発する女帝に、俺は食われた。
「あーん」
もはや恒例と認識できるくらいには、俺は楓によって餌付けされていた。差し出された箸を咥えて、そこに掴まれたオカズを口にする。今俺が食べさせられたのは、大根とぶりの煮物だ。味の染みた大根が口の中で解れ、噛むたびに熱く味わい深い汁が口中に広がる。
俺も作ったことはあるが、ここまで芯の通った味は作れない。
「今度、作り方教えてくれ」
「いいですよ」
なんて平和な会話だろうか。さっきまでの状況は夢のようだ。
だが、まあ、俺は捕食されたのは事実だ。
あんなことがあっても、楓はまだ満足してはいないようだ。それは俺も同じ。
楓との同棲生活は、底が見えないほど甘く、どこまでも堕ちていけそうだった。
このままでいいのか。もう少し、健全なお付き合いをするべきではなかろうか。
チラリ、と俺は俯けていた視線を上げた。
楓が当たり前のように、俺の視線を正面から受け止め、口元を緩める。
「今日は疲れたので、長湯したいですね」
「一番風呂どうぞ」
俺が言うと、楓は頬を膨らませた。
「もう、一緒に入るんですよ?」
「またか……」
「はい。互いの体を洗って、今日あったことを話し合いましょう?」
そのまま繋がっても、構いませんよ?
そう言って、向けられたのは誘うような流し目。
視線を受けて、俺はゾクリとした。また食われることへの本能的な恐怖と好奇心が滲み出る。
楓と過ごしていたら、俺はどれほど幸せになれるのだろう。過去に抱いた恋愛へのトラウマも、大質量の偽りない愛情で埋没しつつあった。いずれ過去は過去として割り切って、ただの笑い話として思い返せる日が来そうだ。
「わかったよ。今週はあと今日だけだからな。さすがに毎日は一緒に入らないぞ?」
一人でゆっくりと湯船に浸かりたい派だが、一緒に誰かと入るのもいい。
そんなことを思い、夕食後の食休みを挟み、俺は特に身構えもせずに楓と湯を共にした。
夕食時は水面下で抑えていたらしい興奮を再燃させた楓によって、俺は再び捕食された。