俺はフショウの高橋だ 作:後味のらーな
【谷垣の回想】
教練の疲れもそのままに、俺はある酒屋ののれんをくぐった。店主に先に人が来ていることを伝えると、二階の座敷へ案内され、狭い階段を体を縮ませながら進んだ。「兵隊さん方、お連れさん来ましたよ」と先に階段を上りきった店の男がいうと「おう」と威勢のいい返事が飛ぶ。この時点で俺は嫌な予感がしていた。外の凍てつく寒さと打って変わって、むせ返るような熱気と光が押し寄せる。
「遅いぞ谷垣ぃ!」
ゆでだこのごとく顔色をよくした男が、階段から顔をのぞかせた途端に、声を張り上げる。
「待たせて悪い、三島……と高橋」
ご機嫌にこちらを振り向く男と、長細い座卓を挟んで正面に腰を下ろす高橋に手をあげてみせる。
見れば机に転がる徳利の数は5本をゆうに超えており、数えるのも億劫になった。
他の客にかき消されそうな萎んだ俺の声は、あの酔っ払いに果たして届いているのだろうか。
「上官殿にはなんと言って来たんだ。睨まれると面倒だぞ」
三島が窓のそばへ腰をずらしたので、隣に座り、足を崩す。店主には追加の酒をつげる。
「街に飲みに行くと伝えた。別段、怪しまれることもなかったが……尾形上等兵殿に少し嫌味を言われたぐらいだ。問題ない」
「そうかそうかぁ、なら心配ないな。朝に帰ってもお咎めなしだ」
三島がくの字に折れた手を持ち上げて、それを卓の上をふわふわさまよわせた後、ぼとりと徳利に落とした。
ほとんど力の宿らないその様子に俺が来て正解だったと心底思った。
というのも、三島が数日前に俺に頭を下げた時にいっていたのだ。「共に飲みに行ってほしい」突然そう懇願するものだから俺は戸惑った。
「お前、確か下戸じゃなかったか…」
「そうだ」
即答する三島の顔はすでに青い。しかし最初の気迫は衰えておらず、
「なぜ、また?」と問う俺に、
意を決した様子で語り出した。
「高橋がなかなか腹を見せんのだ。それどころか簡単な受け答え以外雑談に興じる素振りもない、無口な男だ。内務班でも一切遊びに混ざらず、黙々と本にかじりつく。隙なんぞ作らなければ一生生まれん用だ。ここは酒でも飲ませ、この手でもって隙をつくり、あわよくばその本性を暴いてやろうと思ってな」
つまり酒の席に高橋を呼びたいが、自分が下戸であるので酒に耐性のあるものに付き添ってもらいたい、ということだ。
言っていることは納得できたが、ますますなぜ俺に頼んで来たのか疑問は強まった。
「お前は頼みごとは断れないたちだろう」
三島の笑みに影が差す。
「俺の弱みにつけ込もうというのか」
「まあ悪い話じゃないさ。酒でダメなら女。酒屋の後に花街にも繰り出そうと考えてる。金は半分もつから、お前にとっても損はない」
旭川の町の一角は兵をはじめとする男たちの欲のはき溜めが存在していた。おおっぴらに営業する店は少なくても、同じようなことをする店の数は多い。その店々が集まる一帯を兵の間では『花街』と呼んでいた。
俺はそれほど行きたいと思ったことはないが、行きたくないわけではない。俺は指定した日に少しばかり用事があったので、後から合流することを条件にその頼みを飲んだ。
「俺が合流するまでの間、大丈夫か?」
念のため三島に伺うと、意気揚々と答えた。
「なに、下戸といっても飲むことは飲む。久しぶりに飲むからといってそう簡単に潰れはせんよ」
あの時の威勢の良さは今は見る影もなかった。まんまと酒に煽られて、当初の目的を覚えているのかも怪しい。
「もう飲むな三島。花街に行くからと景気付けに飲むのはわかるが、それ以上飲めば芸妓に挨拶することもままならんぞ」
「そのことなんだが谷垣ぃ、今夜は色事はなしになりそうだ」
「どういうことだ」
「そんなに行きたかったのか」
「いや別にそういうわけじゃないが」
「じゃあ行かなくても問題ないだろう」
ろれつの回らない言葉でも、それなりに説得力はある。俺は、それもそうだが、と口ごもった。
「しかし…どうして急に」
「俺が言いました」
正面に目を移す。男は徳利にも猪口にも触れていた気配はなく、あぐらをかいた膝に拳を乗せていた。
「花街には行きたくないと、俺が言いました」
先ほどから一言も喋らず俺と三島のやりとりを眺めていたものだから、その存在もすっかり忘れかけていたところだった。一瞬どきりと体を強張(こわば)らせるが、悟られないよう自然体を装う。
「高橋は女が嫌だったか?」
「いいや好きです。男はみんな好きに決まってるでしょう、なに言ってるんですか谷垣殿」
「…お、おお」
半分茶化すつもりで聞いた自分も悪い。いざ真面目に反論されると何も言えなかった。
「しかし行く気にはなれないんです。わかってもらえませんか、今日は飲むだけで勘弁してください」
何を分かれというのか、こちらには見当もつかず黙り込むしかなかった。
代わりに三島が上目遣いのままで話をつなぐ。
「こんな具合で頑なに拒むんだ。だから谷垣の意見も聞こうと思ってな。お前は行きたかっただろう?」
「そうだったんですか、すみません谷垣殿」
男は本当にすまなそうに頭を下げた。丸めた背が後ろの壁に当たってこすれている。
「い、いや…俺は」
「もしどうしてもと言うなら、遠慮せず言ってください。なんなら近くまで送りますんで」
「どうしてそうなるんだ。俺はそれが目的でここにきたわけではない」
それこそ意味不明な状況だった。そもそも花街まで仲間に送ってもらう男がどこにいるか。末代まで恥だ。
高橋は悪気のない様子だったが、一方で三島は愉快そうに俺のことを眺めている。
「今日は酒で充分足りる。わかった、花街は諦めよう」
「恩にきります」
俺が承諾すると、高橋はようやく大げさに落とした頭を持ち上げた。
この時、初めて俺はしっかり面と面をつきあわせたが、やはり高橋に最初に抱いた印象は変わらなかった。
髭もなく青白い肌は女のようだが、若干窪んだ目元と垂れ気味の目尻で、どちらかというとその顔は無力な死者を連想させる。
暗くて無口とは思っていたが、いよいよ得体のしれない物の怪に思えてきた。
「……た、高橋はどこかで剣の習いを受けていたのか?」
しばらくの沈黙の中、苦肉の策で話題を降る。ふと思い出した兵営での噂をもとに、男が食いつくのを願う。
しかし尋ねられた高橋の顔は一寸の変化も見せない。
「どうしてそう?」
「お前の剣の腕は他の中隊にも聞き及ぶほどだ。心得があると誰もが考える。一体どれほど鍛錬を積めばそうなるのか知りたい」
興味があるというのは半分は本音であるが、もう半分は話を広げるための枕文句だった。
当初の目論見通りこの男の素性を明らかにできればいい。最悪手がかりのひとつでもひっぱりだしたいところだが。
誰しも自分のことを話題にされていい気にならない訳がない。
しかしその読みは甘く、大きく外れた。
「俺の腕なんて大したことない……です。買いかぶりすぎですよ谷垣殿」
謙遜するのが意外であったので、純粋にその態度が疑問に思えた。てっきり本人にとっては当然のこと、といった態度でくるのかと思っていた。
「買いかぶるも何も、この前の教練では瞬く間に何人もの兵を倒していただろう。あの中には手練の者もいた。誇っていい」
「あれは相手が手加減していたから、運よく勝てただけです。真面目にやればどうなっていたかわからない」
嘘を言っているような顔ではない。それどころか、褒められること自体嫌がっているような、恥じているような、そんな様子だった。
けれどもその時の俺は気のせいだと、なおもその褒め言葉を止めなかった。
「では日露での戦いぶりはどうなんだ。お前はあの特別部隊の白襷隊に選抜され、戦い、生きて帰ったきた。ひとえに剣の腕がたっていたからだろう」
「違う!」
ガシャン!と机に打ち付けた拳が、食器や徳利などの一切を震わせた。
その瞬間俺たちどころか他の客までもが水を打ったように静まりかえる。誰もが巨体の高橋を見つめていた。
「それこそ、運が良かっただけなんだ。実際は剣技が優れてようが関係ない。銃の扱いならともかく、剣で露兵に敵うわけがない。体格も動きも人殺しにおいてあちらが優れている。生まれ持ったものが違うのに張り合えるわけがないんだ、いくら剣を振って徳を積もうが意味などないんだ」
誰も高橋に言葉を返さなかった、だが思うところは同じだろう。俺たちは戦勝国だぞ高橋、勝ったのにその狼狽のぶりはなんだ。まるで負けたような喪失感が漂っている。
「………すみません」
「ああ…」
また男は猫背を丸めて頭を下げた。その背中はいっそう小さく見える。
チラリと三島に視線を送り、目だけで「さっきからこうなのか?」と尋ねる。だめだ、ほとんど目が開いていない。そもそもお前がやると言い出したことなのに、とその寝顔を睨むが起きるはずがない。
「なにかあったのか?」
「いや……別に、たいしたことはありません」
探られるのを避けるように、その話題は濁された。よほどのことがあったに違いないが、話してくれるほどの信用はない。それは百も承知だった。
三島がつぶれてしまった今、それを吐かせるのが俺の役目かと悟る。
「たかは…」
なんお前触れもなく高橋の長い腕がこちらに伸びたので、話を始めようとするのをやめて固まった。
なにをしようというのだ…と緊張して見守っているとその腕は俺の猪口をずずと卓の真ん中へ寄せ、ひょいと持った徳利をそちらに傾け、静かに酒を注いだ。
すすすと注ぎ終わった猪口をこちらに移す。
「あ、ありがとう」
黙って差し出すその姿は相変わらず不気味だ。もし中央と繋がっていようものなら、俺たちを見下しているに違いなかった、そういう予想へ行き着いたので緊張はましていた。
「皆さんはいつもここで?」
高橋の声は体と反して高く小さい。体格以外は女を思わせる節がある。
「いや、戦の前はもうひとつ向こうの通りにある酒屋に通っていた。ニシンの塩焼きがうまい、なかなか良い店だった」
大柄な高橋が慎重に酒瓶を傾けるのは、なんとも奇妙な図だった。大きさの比率が違うぶん、手にするすべてが人形用の飾りに見える。
「そうか…俺も行ってみたいものですね。ここの刺身も充分うまいが、皆さんの馴染みの店にも興味があります」
小ぶりの瓶に手を添えて、高橋がしおらしく笑った。生気のないとはこのことだった。
明らかに寂しさを滲ませているので、ひとつ断りをいれようととっさに口を開く。
「いや、俺はよく行くが三島は…」
下戸であるこの男が、飲みに行くことは少ない。
「三島殿?」
「…………なんでもない」
だが、すべてを言ってしまう直前に、「う〜ん…」と寝ぼける三島が目に入った。机へ突っ伏してはいるがまだ意識があるようだったので言葉を飲み込む。野暮なことは言わない。