俺はフショウの高橋だ 作:後味のらーな
戸を開ければ、目の前には一本の廊下が伸びており、廊下を挟んで左右に内務班が設置されている。部屋ごとに窓付の壁があるものの窓は腰の位置まであるし、各内務班の出入り口には扉もない。壁も腰までしかなく、残り半分は銃架だ。銃架には三八式歩兵銃が目隠し役として、ずらりと立てて並んでいるが、拳ひとつ分くらいの隙間ができる。よって内務班内の様子はほとんど丸見え状態だった。しかも俺たちの内務班は入ってすぐ左手にあるから、今は慣れたが、部屋に入ってきた兵とよく目があったりする。
俺たちが入った時も、自然と廊下から自分たちの内務班の兵と一瞬目があった。
内務班の各部屋には壁中央に作業机と呼ばれる大台があって、さらにその奥にはペチカという石炭ストーブよりひと回りかふた回り大きい暖房器具が置かれてある。大抵の兵が寒さから逃げるようにペチカの近くへ座るため、休み時間の場所取りは早い者勝ちだ。今日もすでに何名かがペチカの側を陣取って談笑しているので、俺は自然と一番廊下に近いところへ腰を下ろした。
「高橋」
自分の寝台へ向かう大きな猫背に呼びかける。金属製の寝台は両側の壁に六つずつ並んでいて、高橋の寝台は最奥に位置していた。呼んだにも関わらず背中は遠ざかっていく。
「なんですか谷垣殿」
返事はするものの、一度も振り返らずに高橋は自分の寝台まで行ってしまった。たいがいは人に話しかけられるとそちらに専念するものだが、高橋はあくまで自分を優先させているようだった。
なにやら探し物をしているようだ。
「……」
本を取り出し、俺の座る向かい側に腰を下ろしたかと思うと、すぐ読み始めたものだから驚いた。
その読み方も独特で、背を低く丸めて、顔の前に本を立てて読む。すると高橋の顔はちょうど鼻の上本で隠れ、眠そうな目元だけが高橋の心情を汲み取る唯一の手がかりとなった。
『西國立志編』の表紙がこちらを向く。高橋が二、三冊持っている本の中でも内務班で特によく読む古本だった。俺は本に向かって語りかけた。
「その本は面白いのか?」
俺も文字こそある程度読めるのが長い文章に目を走らせるのは得意ではなく、読書などもってのほかだった。しかし話しかけた手前、見つかる話題といえばそれしかなかったため何とは無しにそう口をついていた。
「そうですね…まあ、そこそこに」
目線を本へ伏せたまま、高橋は無愛想に言った。
確かにそのまま「そうですよ面白いですよ」と下手に乗せてしまって、「読んでみますか?」と誘われても正直困る。
かといって水を差すような話も振れない、これ以上下手な質問をしないよう慎重に言葉を選ぶ。
「その本は、自分で買ってきているのか?」
「……ババァが小さい頃にくれたんです。以前まで他の者が使っていたものだそうで」
「そうか」
「ババァは………常々…知識をつけよ、とうるさかったんですよ。将来は自分の意思で自分の生き方を決めていけるようにと」
高橋は懐かしむような目で窓に視線を移していた。本から口元がのぞき、その口端はほんの少しだが、横に広がっている。
『ババァ』の話題を自分から、しかも穏やかな思い出話として語る高橋は新鮮だった。飲み屋での剣幕を目の当たりにしてから、『ババァ』とは本人にとって憎むべき相手であり、こちらが触れてはいけない話題と心得ていた。
だから薄々、その『ババァ』が高橋の身元を明らかにできる鍵だとは勘付いていたものの、琴線に触れる恐れが拭えず聞くに聞けないでいたのだ。
俺は当たり障りない相槌で、高橋の話に乗った。
「勤勉だな、高橋は」
「いえ、身ついているかは別の話ですよ。たしかに時間があれば必ず本は読むのですが、実際理解は追いついてないんです」
「そうなのか」
「文字は読めるんです。文字は。ただ文の意味が分からない。言葉の意味は読み取れますが、文章になると、その意図がはっきりしないんです。挙句、文字がそういう図形に見えてくるので、本当に目でなぞるだけになる」
「文字が読めるだけいいだろ。今時、本すら与えられない者もいる」
「そうなんですが……それにしても難しくて」
「………文章を読むというのは言葉の裏を汲み取ることも必要になる。お前は時々言葉の意味をそのまま取ってしまうから、苦労するだろう」
「そう。三島も言いましたよ。お前は言葉の裏を知らない、相手の立場になって考えろ、さもないとこの先利用されて終いになるぞ、と」
「三島が?」
「はい」
「それは……」
驚きを隠せずに、声を上擦らせていた。
利用されると忠告した本人が、今まさに高橋を利用しせんとしている真っ最中なのだ。どういう考えがあってそんな言葉をかけたのか、三島の心中が分からない。一度本人に問いただす必要がありそうだが、ひとまずこの場は戸惑いを覆い隠して相槌に徹する。
「そ、そうだったのか」
「あと、そっくりなことを……昔、ババァにも言われました」
「ババァにも?」
「はい」
高橋は珍しく声を弾ませて応えた、ように聞こえた。実際はどうなのか自信はなかった、俺の見間違いであったかもしれない。しかしこちらに答えるその様子は穏やかで、俺の毒気をみるみるうちに抜いていくのだった。
「ババァはよく俺を叱りました。自分の道は自分で決めろ、と。思えば、俺は昔から周りの意思に流されていました。生まれた時は父上、母上の言いつけに従っていました。ババァが俺を両親から引き取った時も、陸軍に入れられら時も、なすがまま、されるがまま。異論なく従った。ただ首を縦に振るのみで、それが当たり前だったんです」
高橋はどこか疲れたように天井を仰ぐと大きく息をついた。その様子があまりに不憫にみえて、自分らしくない慰めが口をつく。
「従順なことはいいことだ。誰にでもできることじゃない。それに儒教の教えが身についている証拠だろう。読み物の成果はその忠義に表れているんじゃないか」
「…………俺は従順な訳じゃない、忠義なんてもったいない言葉だ。俺はそんな良いものじゃない、俺はただ……」
高橋は思い詰める表情で、そのあと口を閉ざす。そして数秒の沈黙のあと「すみません」と呟くとその場を立った。
「どこへ行く?」
「気分が良くないので、厠へ」
高橋の顔が青白いのはいつものことだった。だが口調は弱々しいものに変わっていた。これ以上引き留めるべきでないだろう。
「そうか」
俺は短く返事をした。すると、去り際に高橋の手が俺の肩にポンと乗る。そして一言、
「話、聞いてもらってありがとう。谷垣殿」
そう残して、部屋を去った。
こちらに向けたその顔には初対面の頃では到底想像できないほど、子供のように無邪気な笑みが浮かんでいた。