その日、休みにもかかわらず早めに起床しリビングへと降りてきた八幡は、一人テレビを占領しゲームをしている父親の背中を眺めながら小さく溜息を吐いた。別にその姿が原因なのではない。ただ単にこれからの予定が面倒だっただけだ。
「おう、おはよう八幡。……え、早くない?」
「事情があるんだよ。ほっとけ」
ちらりと彼の方向に振り向いた父親は、時計を見てもう一度息子を見て。掛けていたメガネを拭いてから再度時間を確認、無精髭を撫で付けながら本気で困惑した声色で呟いた。対する息子、うるせえ死ねと言わんばかりの塩対応である。そもそもこのタイミングでしかリビングでゲームが出来ないからと母親が起きてくる前にこっそりと抜け出している男のセリフではない。
「まあいいや。朝飯はないぞ」
「元から期待してない」
視線をテレビに戻した父親から八幡も視線を外し、適当に食パンをトースターで焼いて食べる。正直言ってしまえばこのまま何もなかったことにして寝てしまいたい。が、そういうわけにもいかない。何がどうなって自身にこんなことが起きるのか。そう思わないでもなかったが、今回は何故か自分から死地に飛び込んでしまったので恨み言は大半がブーメランである。
パンを食べ、眠気覚ましも兼ねたブラックコーヒーを喉に流し込み。そのまま出かける支度を渋々ながら済ませた八幡は、出来るだけ比企谷家残りの二人に見付からないように家を出ようと玄関へと向かった。が、その途中、一応ダメ元でとリビングでゲーム中の父親の背中に声を掛ける。
「なあ、父さん」
「お前俺の貴重な財布の中身を奪おうとか鬼か?」
「息子に少しは優しくしてくれてもバチは当たらんだろ」
「理由を述べよ。それ次第ではノーマネーでフィニッシュしてやる」
「出す気ゼロじゃねぇか」
期待はしてなかった、と八幡は踵を返す。そんな彼に、ちょっと待てと父親は呼び止めた。ゲームを一時中断し、置いてあった自身の財布から最小の札を三枚取り出す。
「ほれ、後で返せよ」
「借金かよ」
「当たり前だ。小町なら余裕で万札渡すが。勿論譲渡」
ぶれないな、と目の前のうさん臭げな自身の父親を見る。まあそれでも一応こうしていざという時の保険を渡してくれるだけマシだろう。そう結論付け、じゃあ行ってきますと八幡は改めて玄関へと向かった。
「あ、そうだ八幡」
「何だよ」
「浮気は程々にな」
「いっぺん死んどけクソ親父」
朝から疲れた。そんな感想を持った八幡であったが、今日はこれからさらなる疲弊が待っている。ブーメランであることを分かっていて尚何でこんな目にとぼやきながら、彼は駅前の待ち合わせ場所でやってくる面々を待っていた。
「悪い。待ったか?」
「いや、俺も今来たところだ」
「……」
「……」
『気持ち悪っ』
ハモった。何が悲しくて土曜の午前中から男同士がラブコメカップルみたいなやり取りしなくてはいけないのか。少なくとも八幡はそう思ったので口に出したが、隼人もそういう反応するとは意外だ。
などということもない。既に八幡は彼の正体を知っている。爽やかイケメンスポーツマンは所詮表の顔で、中身はこんなものだと分かっている。何の因果か、理解してしまっている。
「比企谷だけか?」
「え? 何お前俺が向こうの面々引っ張ってくると思ってるの?」
「いや。……ああ、折本さんはそうかもしれないと若干思った」
「休日の朝っぱらからあいつと関わってられるか」
まあ今から関わるんだけどな。自虐の続きは口にせず、そしてそんなことを言う割にはそこそこそういう状況に陥っている八幡は、もう知らんとばかりに口を噤む。隼人もなんとなく察したのか、苦笑するだけでそれ以上何も言わなかった。
そのまま暫し無言で待ち合わせを続けていた彼らは、改札口からこちらにやってくる女子二人を視界に入れると思い思いの表情を浮かべた。隼人は苦笑、八幡はうげぇという顔である。
そうしてやってきた二人は、片方は遅れたことを申し訳無さそうに謝罪し、もう片方は。
「あれ比企谷、早くない?」
「時間通りだよ。お前が遅いんだ」
「細かいこと気にしちゃダメだって、ウケる」
「ウケねぇよ死ね」
いつも通りのやり取りである。知らない者からすればなんだこれと思ってしまう八幡とかおりの会話は、しかし知っている隼人にとっては普段の光景だとしか思わない。
そこでふと視線をかおりの横に向けた。彼女の友人はこれを見てどう思うのか。見慣れていないこれを見た時、どんな。
「ほんと気安いんだなぁ、二人」
「あれ?」
ほほー、と感心するかのように眺めている彼女を見て、隼人は思わず目を瞬かせた。これを知っているのならば、ある程度親しい位置にいる可能性もあるが、しかしそうなると自分が心当たりのない顔というのが疑問になる。
まあいい。考えるのをやめた隼人は、直接彼女に尋ねることにした。
「え? あ、ごめんなさい」
「いや、こっちこそいきなり不躾な質問してごめん。っと、はじめましてだよね。葉山隼人です」
「どうも、仲町千佳です。……えーっと、実はこれ見るの二度目なんで」
「二度目?」
「そうそう。クリスマス会の時に海浜の手伝いでわたし、かおりと一緒に参加してて」
「あー……」
成程、と隼人は納得する。自分は逃げたのでその場にいたのは当日のプレゼントになった一日だけ。知らないのも無理はない。疑問が氷解したことで、それならよかったと彼は笑みを見せた。唐突なイケメンスマイルで、千佳がうお、と思わずのけぞる。
「そういうことなら、向こうについては特に何も思わないってことで、いいのかな?」
「元々かおりから話は聞いていたし。実際にも見て、ああ成程ってなったんで。……あ、でも」
「ん?」
「……正直、今回の作戦? とかいうのは上手くやれるか自信がないよ……」
「作戦、か」
何をしでかすのか。それを実は隼人もしっかり聞いていない。とりあえずここでダブルデートをして、その後何か仕掛けが用意されているのは分かっているのだが。肝心要の仕掛けの内容が分からないときた。どうやら目の前の彼女は知っているようだが、それを尋ねても口止めされてるからと話してくれない。
「まあ、いいか。とりあえずは予定通りに行動しよう」
「うん。かおりー、行くよー」
視線を向こうに向けると、とてもいい笑顔のかおりと非常に嫌そうな顔をした八幡がいた。つまりは平常運転だ、そう判断した隼人は、そのまま笑顔で二人と合流する。
なんだか仲良くなってない? というかおりの言葉に、隼人も千佳も曖昧に笑った。
「んで、どこ行くんだ?」
「何比企谷知らないの?」
「俺は今回巻き込まれ側で主催じゃねぇんだよ。何なら今すぐにでも帰宅したいまである」
「ならあたしも比企谷んち行っていい?」
「いいわけねぇだろ死ね」
「えー。せっかくだし、由比ヶ浜ちゃんとどうなってるか知りたいじゃん」
「どうもなってねぇよ。いつも通りだ」
「そんなこと言ってますけど。葉山くん、どうなの?」
唐突な葉山へ会話のパス。が、それに彼は驚くことなく、そうだな、と軽い調子で返答をした。半年程度ではあるが、これまでの付き合いの中で培った慣れともいう。それを見ていた千佳も、何となく察したのか成程と頷いていた。
「まあ、いつも通りではあるかな。……愛の人が不動になっただけで」
「ぶふぅっ! ふひゃ! はははははっははぁっ!」
「かおり、笑い過ぎ……」
路上で大爆笑しながらうずくまる友人を、千佳は呆れ半分で介抱する。比企谷が悪いと謎の責任転嫁をしながら、かおりは肩で息をしながらゆっくりと立ち上がった。勿論八幡はうるせぇ死ねと返した。
そうしながら辿り着いた場所は映画館。丁度いい上映時間のものを選ぶと、四つ揃った席を選んでそこに座る。当たり前のように隼人の横に女子二人が。
「……何でお前が隣なの?」
「俺が知りたい」
などということもなく、千佳、隼人、八幡、かおりの順であった。千佳は別段かおりがその位置でも気にしていないようであるし、かおりも同様だ。つまり気にしているのは野郎共ということになる。
「そもそもこれお前が女侍らせてるっていう噂作るためのやつだろ。俺が隣じゃ駄目だろうが」
「いや、そこは別にどっちでも変わらないだろう」
「そこは嘘でもそうだなって言っとけよ……」
はぁ、と溜息を吐いた八幡は、もういいと隼人から視線を外した。とりあえず女子と仲良くしてろと吐き捨てると、そのまま視線をスクリーンに移す。
そんな彼の頬を、ぶに、と指で突く存在がいた。
「なにしやがる」
「そういやさ、あたし来月誕生日じゃん」
「知るかよ」
「でも彼女持ちの比企谷にプレゼント頼むのも――それはそれでウケるんだけど」
「ウケねぇよ。そもそも毎回大して何も渡してないだろ」
「だよねっ。だから来月楽しみにしてる」
「ジュースくらいしか奢らんぞ」
「あ、何なら今日なんか奢ってくれてもいいよ」
キシシ、と笑うかおりに視線を向けた八幡は、ジト目のまま考えとくとだけ述べた。父親から貰った借金という名のお小遣いがある今なら、ワンチャン懐が傷まないのではないかと考えたのだ。打算百パーセントである。
「というか。そもそもお前は俺の誕生日になんかしたのかって話でな」
「一応おめでとうは言ってんじゃん」
「物をよこせ」
「直球! ウケる」
「お前もさっき同じこと言ったからな」
はぁ、と再度溜息を吐く八幡を、かおりは面白そうに眺めている。
そんな二人を、隼人も千佳も同じように面白そうな顔で眺めていた。
「これで何も作戦がなければなぁ……」
「ごめん、巻き込んでしまって」
「ううん。葉山くんと遊べるってだけでも割と得してるからそこは大丈夫」
多分。と小さく付け加えたのを隼人は聞き逃さなかった。
「あっははははははははっ!」
「笑い過ぎだろ……」
「いやだって、比企谷……うぉ、て……うぉ、って……」
「……お前さては俺のリアクション見るためだけにこれ選びやがったな……」
「あ、バレた?」
見たかったんだよね、とかおりは悪びれることなく笑う。そんな彼女の頭頂部に無言でチョップを叩き込んだ八幡は、それで次はどこに行くんだと二人に向き直った。
「そうだな、時間的に昼が先か」
「んー、でもこの時間だとどこも混んでない?」
隼人の言葉に千佳が返す。それはどこか決まりきったようなやり取りのようで、まるで打ち合わせ通りのようにも思えて。
考え過ぎかとそれを振って散らした八幡は、それなら昼は少し遅らせてもいいだろうと述べた。かおりはその答えにうんうんと満足そうに頷き、じゃあ買い物しようと先頭に立って歩き出す。流れるようなその動きは、先程散らしてしまった意見に信憑性を与えていた。
「……嵌められたか?」
「知っていて乗ったのなら、嵌められたとは言わないだろ」
怪訝な表情を浮かべる八幡に隼人が苦笑しながらそう返す。かくいう自分もそうなのだ。そう言わんばかりの彼は、とにかく今は気にしないでおこうと歩みを進める。
どうせこの後だ。そんな呟きは風に消えた。
そうして商業施設へ向かった一行は、そのまま店内をぶらつきながらあーだこーだと無駄話をしつつウィンドウショッピングを進めていく。制服に合うマフラーがないだろうか、などと言いながらその中の一角へと足を踏み入れた。
「あ、比企谷」
「絶対に嫌だ」
「まだ何も言ってないじゃん、ウケる」
「ガハマならともかく、お前にマフラーは奢らん」
「なんか比企谷のくせに彼女持ちみたいなこと言ってる」
「みたいじゃねぇ。彼女持ちだ」
「言い切りやがった……ぶふっ!」
持っていたマフラーを取り落しそうになるのを慌ててキャッチしながら、かおりはケラケラと笑い続けた。あの比企谷が成長したなぁ、と謎の親目線を発揮しつつ、マフラーを折り畳むと棚に戻す。
「そんな彼女をほっといてあたしと遊んでていいの?」
「さあな。本人に聞け」
「だから本人に聞いてんじゃん」
「相手がお前なら大丈夫って言ってたんだよ。何だよ大丈夫って」
吐き捨てるような八幡の言葉に、かおりはニヤニヤと楽しそうな笑みをうかべる。拗ねてるねぇ、と呟きながら、じゃあ聞くけれどと彼に指を突き付けた。
「彼女と別れてあたしと付き合ってって言ったら、比企谷は頷く?」
「お前と付き合うとか虫酸が走る」
「あー、酷いなー。中学の頃はそっちから告白してきたのに」
「あれは俺の黒歴史だ。汚点と言ってもいい」
「……そうだね。そうこなくちゃ」
からかうような笑みから、どこか優しい微笑みに。笑顔の質を切り替えたかおりは、なら仕方ないなと会話を打ち切った。じゃあ次はどこに行こうかと隼人達に声を掛け、その店を後にする。
今度は女子二人がきゃいきゃいと話しているため、手持ち無沙汰になった八幡に隼人が声を掛けた。よかったのか、と苦笑しながら言葉を紡いだ。
「何がだ」
「いや、さっきそっちの会話が聞こえたから」
「んあ? ああ、折本の話か」
中学の頃に、八幡はかおりに告白をして、そして振られた。簡単に言ってしまえばそんなもので、そしてそういう意味では隼人も同様だ。違いは、彼は進んで、彼は立ち止まっていた。ただ、それだけ。
「……それは、本当に好きだったのか?」
「失礼だな」
「ああ、悪い……」
思わず呟いたそれに、八幡は短くそう返す。が、別段そこに彼は憤りを感じてはいない。それはある意味事実だったかもしれない、そう本人も思っていたからだ。今こうして彼女と軽口を叩いているから、彼女を知っているからそんな感情を持ってもおかしくなかったと後付は出来る。
だが、当時は。そんな彼女の本当を知らずに、好きだと思っていた。思っていた、だ。好きだ、と断言はしない。それが正しいかは、別として。
「まあ、お前には敵わん」
「……余計なお世話だ」
それを感じ取ったのか。八幡の言葉に、隼人もどこか安堵したような声色でそう返した。そうしながら、彼は小さく溜息を吐く。
「結局のところ」
「ん?」
「本当に人を好きになるってのは、存外面倒なものなんだよな」
「それはお前だけだ」
「そうか?」
隼人は八幡を見る。口角を上げながら、本当に自分だけなのかと問い掛けるように彼を見る。
「俺も、比企谷も……そうだろう?」
「言ってろ」
シリアス「呼ばれた気がしないでもなかったけど気のせいだった」