隣室の歌声を聞くようになって半年以上が過ぎ――降谷が湯張り機を無言でお湯を張ってくれるものに変え水音を立てず入浴する技術を完璧に我が物にした頃だ。
『子供のハラワタ食べちゃった!』
浴室に響くデスボイスはとある絵描き歌……の替え歌だ。子供のトラウマになったのではとネットで大評判になった、「おかあさんと◯っしょ」の放送事故だ。いや、絵を描いた本人に放送事故のつもりはなかったのだろうが、彼女が描いたのは――どう贔屓目に見ても可愛いマスコットキャラクターの面影がない地獄のモンスターだった。
それを懐かしいと感じるのと同時に、思う。
なぜそのチョイスなのか、と。
『シャナナナナナナ! シャナナナナナナ!』
日本二大ホラー映画のコラボレーション、ホラーコメディ()の主題歌を選ぶのも何故なのか。俊雄の呻き声の真似はいらなかった。心霊現象かと肝が冷えた。
『あいつが来るよ! え、誰レスカ? じゃなくて!』
デスボイス替え歌、ホラーの主題歌と来て少年向けアニメのOP。それもわざわざ台詞部分まで再現して真似するこだわりぶりに、降谷の腹筋は小刻みに痙攣している。
『よっし風呂を上がるぜ! 俺は上がるぜ! 俺はやるぜ!』
気合いのこもった掛け声と共に湯船を上がる水音がし、同時に降谷のバスタイムも終わった。俺もやるか、と小さく呟いて。
その次もまた替え歌から始まった。
『お魚咥えたどら猫おっかけて』
包丁を投げてタラちゃんが死に、自転車がないから三輪車で突撃し、財布を忘れてスーパーで万引きする。替え歌を作る子供は残酷だ。
『ぼうやー良い子だ金出せや金がないなら靴脱げや~』
そして、熊の子は核戦争を目の当たりにする。腐ったご飯に冷たいスープ、明日の希望は潰え立ち尽くす人々の姿、帰る家もなく路頭に迷う『ボク』。なんとも酷い替え歌だ。
『むかーしむかし、あるところに桃がどんぶらこっこ、どんぶらこっこー……川は流れてどこどこ行くの』
そんな導入があってたまるか。こんなに感動できない花の導入があるか。これで泣けると思っているのか。
彼女は人に聴かせるつもりなどないのだから、降谷が 感動するか否かなど関係ない。だが、分かっていても突っ込まないではいられないのだ。風呂を出るときの掛け声が『よし、デュエルだ!』やら『ぷいきゅあ!』やら『退かぬ! 媚びぬ! 省みぬ!』やら、おおよそ女らしさや大人っぽさとかけ離れたものであることも。歌の合間の独り言が『養われてぇ』その他、聞く者の涙を誘う身体的コンプレックスに関する言葉であったりすることも。突っ込みを入れたいし、優しく肩を叩いてやりたくなるのだ。
そんなことをしたら降谷にはストーカーとして訴えられる未来が待っているわけだが。
――そして昨晩また、風呂場での独奏会ならぬ独唱会が開催された。
『コーチの、コーチの、コーチの想いが籠ってるんだからぁーッ!!』
いつも思うのだが、無駄に上手い。降谷の涙腺も少しホロリと来てしまった。
『山崎いちばーん』
なのに何故コロコロの下ネタアニメに飛ぶのか。ポリゴ◯が可哀想だと思わないのか? あんなにポ◯モンを熱唱していたのに。ポケ◯ンへの愛はその程度のものだったのか。
ミュ◯ツーが再び逆襲を計画してもおかしくない裏切りだ。
何度も山崎を一番だと歌い上げ一息吐いた彼女の次の曲に予想はついている。一番繋がりで、懐かしいアニメソング。ならばあれしかない。
『今日から一番たくましいのだ』
降谷は湯船で拳を振り上げた。こんなに正解して嬉しいなんてしばらくぶりのことだ。そうだろうそうだろう、君の思考パターンなどお見通しなんだよ。全く世話のやける子だ。
『僕の子犬がいなくなった』
拍手を送りたい良選曲だ。だが今拍手をすれば間違いなく壁の秘密が白日の下に晒され、本郷昇はともかく降谷零の明るい人生は終わる。
今を我慢すればこの楽しみは続くのだ、耐えねばならない。
『Rock you!!』
完璧な発音で風呂を上がった彼女の物音が消えたあと、降谷は浴室の天井を見上げ、ぼんやりとした声で呟く。
「ああ、君の言う通りだ」
ハートを揺さぶられている。
※※※
今日もまた歌声のみコンサートが始まろうとしている。降谷は用意していたスポーツドリンクを一口飲んで腰湯に浸かり、今日のコンサートを楽しむ準備を終えた。さあ、いつでも来い。
『やりたいことより好きなのはやめられないこと』
今日彼女が歌うこれがなんという曲なのかは知らないけれど、その歌詞はまるで今の自分の背中を叩いてくれたように感じられた。職業病と言われればそうなのだろう、降谷の行動はどのような場面においても『それで日本を守れるか』が基準だ。全ては日本に暮らす人々の安寧のため、己や己の仲間でさえ踏み台にし、犠牲にし、殺しさえする。
止められないのは――辞められないのは好きだから。
『はー……この年で処女守ってんのか……』
とっさに口許にタオルを当て音を殺す。このバカ娘は何を言い出すんだ、と声のした方を見るが、当然ながら壁しかない。
『別居婚許してくれる結婚歴なしで認知すべき子供もいない、低くても良いから年収が確実な警察官、どこかに転がってないかなぁ』
まさか結婚相手に求める要素――それも異性の赤裸々なそれを聞かされるとは思わず、降谷は顔に困惑を滲ませる。入浴中の歌しか聴いていない降谷ですら、彼女と一緒にいられれば楽しいだろうと思える。親しくなればきっと気の置けない素晴らしい仲になれるに違いない。
だというのに彼女が求めるのは別居婚。何故なのか。同居ができない理由でもあるのだろうか?
彼女の求める要素を満たす同僚や部下などなかなかおるまい、結婚したならば妻と同居したいと思うものだ。別居せねばならない理由がある者なら別にして。
『あー辛気臭いこと考えるのはやめ、やめ! 辛気臭さが一度体に染み付いたらタワシでも取れないんですよそこのところ分かってるんですか課長! セクハラで上に訴えるぞ被害者に代わってお仕置きよ!』
お湯の表面を叩く様な音と独り言。
『はー。……ババンババンバンバン!』
半ば叫ぶような声で始まったいい湯だなを聴きながら、降谷は口許に人差し指を当てた。彼女の抱えるものを知りたいが、これは個人的な興味に過ぎない。故に仕事ではない。
これ以上彼女のプライバシーを侵害する行為を重ねて良いのか――常識的に考えて、現状ですら土下座だけでは済まないというのに。降谷はストーカーと言われても仕方のないことをしている。
悩んでいても日は昇り、また沈む。
『リスナーの皆様こんばんは、先輩へのセクハラがヤバい課長への殺意の波動が収まらない一日を過ごしてきました鼎彩子です。今晩まずお送りするのは皆様も大好きな、パラパラが猛烈な印象を残してくれたあの曲……恋はスリルショックサスペ◯ス。ではお聴きください――』
ラジオ司会風の始まり方はこれまでにも三、四度ほどあった。今晩はそういう気分のようだ。しかし『猛烈な印象を残してくれたパラパラ』とは一体何のことを言っているのか分からず、降谷は首を傾げる。手近に置いていたスマホで調べてみれば……ミュートのため曲がどのようなものなのかは分からないが、公式MVが真顔の少年のパラパラだったようだ。なかなか、いやかなりのインパクトがある。
『素晴らしい歌声でしたね~』
自分で言うな。
『では続いて次も迷宮なしの名探偵から……謎』
そしてMystery of my he◯rtで締める。今日は三曲で終えるようだ。
『へっへっへっ……明後日の土曜日は皆様もお楽しみにされているであろう、ましゃの歌声に惚れずにいられない零をお送り致します。わくわくしますね! では皆様も残り一日、張り切って仕事を抹消しましょう!』
『カッコ良くてつよーい!』と言いながら風呂を上がって行った彼女と顔を会わせたのは、その土曜日。ポアロでの仕事を終えてアパートに顔を出した降谷に追い付く形で帰って来た。
「あっ、こんばんは!」
厚いガラス扉を押し開いて現れた彼女、鼎彩子は表情が良く動く女性だ。声は風呂場でなくても良く通るメゾに近いアルト――そして人に騙されやすそうな顔。そこらへんにいる善人を十人並べて平均を取ったような『まとも』さ。印象に残りづらく埋没しやすいのは確かにスパイ向きと言えるが、顔以外に適正はない。
安心して表面上の付き合いが出来る相手だ。
「こんばんは」
挨拶を交わしてからポストを確認する。入っていたのは住人らしさを演出するためのダイレクトメールとコーヒーショップからの葉書。その二つを取って場所を譲れば、鼎は軽く頭を下げて隣のポストを開いた。
入っていたのは「クリタ・マッチング・サポート」からの大判の封筒で、会社名の下には一目で婚活会社からの郵便物と分かるあからさまな一文が踊っている。
鼎の目が死んだ。心の柔らかいところに関する話題だ、流石の降谷にも彼女に掛けるべき言葉がない。脳内で涙目の鼎が「私の目が死んだ! この人でなし!」と叫ぶ姿が想像でき、降谷の心も少し傷つく。見えなかったふりをするのがお互いのためだろう。
沈黙の痛い数十秒を共にし、降谷は鼎が部屋に飛び込んでいく背中を見送る。
隣の湯沸かしの案内音声が聞こえ、降谷も自動湯張りボタンを押し浴槽に腰かけた。罵るような歌声が止まったと思えば足音がバタバタと去り、また戻ってくる。
『残り、およそ五分でお風呂が沸きます』
『はいはい了解しました、ありがとう』
自動の音声にわざわざ礼を言う、そんな彼女の育てられ方が素敵だと思う。
今日はゼロを歌うと言っていたが、降谷はそれがどのような曲なのか知らない。冷蔵庫からスポーツドリンクを持ってきて再び浴槽に腰掛け、浴槽に溜まっていく熱気を背中に感じる。
『完全なる正しさなどゼロなんだよ』
手の中のスマホで歌詞から歌を検索する。ゼロというのは今週三話目が放送される刑事ドラマの主題歌だそうだ。
――今日ばかりは、歌声を純粋に楽しめそうにない。降谷は立ち上がり浴室をでて、引き戸をゆっくり閉める。
そして脱衣所の壁に背中を押し付けずるずると座り込んだ。腕の中に顔を伏せ呻くように呟く。
「正義は明かりの当て方次第で変わる不確かなもの、知っていたさ。……知っているとも」
誰かの正義が別の誰かの悪で、誰かの悪が別の誰かの正義で。稀にある珍しいことというわけではない。良くある一般的なことだ。双方ともが被害者である、なんてこともありふれた話。
刑事ドラマらしい主題歌だ。誰もが知っているのだ、正義の逆は別の正義であることを。正義は悪にもなり、悪は正義にもなり……理想や正義は時に自らを傷付ける刃にもなることを。
顔をあげ、右手を開き――握る。
「だから俺は、俺の信じる正義を貫く」
けしてぶれることのない自らの正義を掲げて、走りきってみせる。降谷の肩には日本の未来が、日本の平和が、日本の人々の命がかかっているのだから。
でもそれストーキング行為ですよ。