気が急くままに勢い良くドアを閉めればガァンと鉄板を殴ったような音が響いたが、振り返らずアパートに飛び込んだ。階段を二段飛ばしで登り302号室のドアに手を掛ければ、良く通る歌声が中から漏れ聞こえてきた。
「抜け出してって抜け出してって」
ずっと、這いつくばって泥に身を潜めていた。そうでなければ組織に潜入していられなかったから――だが、その泥は漱げるのだと、だから太陽の下に出ろと、そう言うのか。
「奈落を抜け出した先に……もうあいつらはいないのに。君は、それを歌うのか」
力任せに引いたドアは蝶番が弱かったのか、簡単に外れた。301号室の方にそれを放り捨てる。
「なんでいるんですか」
鼎さんは呆然と口を半開きにして、そんな馬鹿みたいなことを言う。
「ラインを送ってきたでしょう」
「送ってからまだ三十分くらいじゃないですか」
「あなたが大好きなRX-7を飛ばしてきましたからね」
RX-7を守るために自分が守られたのではないかと、あの八月一日を思い返すことがある。メインはRX-7の命で、自分はついでだったのではないだろうかと。
「なんでいるんですか」
「会いたいと思うのに理由が必要ですか」
この人は、記憶と電子記録の中にしか痕跡を残さなかった。会いたいと思っても手元に残ったのは録音とプレゼントのスマホだけで。
「ただの隣人でしょう」
「そうでないことをあなた自身が一番ご存じのはずだ」
どうせすぐに取り壊しだ。靴のまま部屋に上がり、鼎さんの腕を引く。見た目通りの細身は簡単に立ち上がった。少し力を込めるだけで折れそうな腕、簡単に死にそうな痩躯だ。
「俺が大切に思っていた人はみんな奪われていって……もうこの世に一人もいない」
誰も彼もいなくなって、やっと見つけた「大切に思って良い相手」。それが知らぬ間に消えていた時の気持ちが分かるだろうか。
「……本郷さんがその人達を忘れない限り、思い出だけは誰にも奪われないと思います」
真面目な顔で吐き出された綺麗事を鼻で嗤う。
「は、綺麗事ですね。その思い出の一人になろうとしておいてよく言えたものだ」
「――そうだよ綺麗事だよ、それの何が悪いの? 私は異邦人なんだよ! 元々出会うはずがなかった、出会ってしまっても思い出にならないといけない存在! だからさ!」
キレた鼎さんに俺もキレた。異邦人であることなどとっくに知っている。あの歌が、スマホが、突如アパートに現れた瞬間を映した映像が、彼女がこの世の人ではないことを示している。
それでも鼎さんはいまここにいる。触れあえる。生きている!
「君が天女なら羽衣を燃やすし天使なら翼を捥いでやる。穢れが必要ならこの場で犯す! 俺は手放したくないんだ、もう!」
「はぁ!? 犯すぅ!? 梓さんと乳繰りあってれば良いじゃないですか公式! あむあずなら許容範囲内だから彼女とやってろ!」
訳が分からないことを言い出した。梓さんに対する感情は部活の親切なマネージャーに対する感謝と親愛に似たものであって、それ以上ではない。もしくは妹とかそういった優しい感情だ。
「なぜここで彼女が出る!? 公式!? 彼女は妹みたいな存在であって、俺が失いたくないのは、大切なのは、誰よりも君なんだ!……どうして通じない」
彼女からも大切に思われていることは分かっている。感じられる。だというのに何故こんなにもすれ違うんだ。
「私も本郷さんが大切だよ。でも離れる。二度と会えなくても幸せを祈り続けるよ」
「大切だから側にいてほしい。二度と会えないなんて死別とどう違うんだ」
大切だから側を離れたのに、三人は俺の手が届かない場所で次々に消えてしまった。幼馴染みはあと少しという場所で失った。ああなるなら手離さなければ良かった。側にいれば良かった。離れなければ良かった。だから、次こそは側にいてほしい。
鼎さんは力強い目で囁いた。
「希望がある」
「心配しかない」
希望は砕かれた。
「未来もある」
「知らない間に死ぬかもしれない」
四人の未来は失われた。
「想いがある」
「伝わらなければ意味がない」
もう伝える手段も、伝えてもらう手段もない。
理想に満ちた言葉を否定し続ければ、彼女は「仕方ないな」と苦笑した。
「……それじゃあ、少しだけ、貴方に大切な人が出来るまで付き合うよ」
彼女の頭があまり良くないことを利用してアパートの取り壊しを誤魔化し、この世界に引きずり込む。
五月、アパートが壊されていくのに慌てる彼女を見て吹き出した。そうとも、君が帰るための扉はもうない。
――二月から三月にかけて怒濤の勢いでこなした組織の殲滅、その後始末と書類が片付いたのは三月半ばのことだった。
これで表通りで彼女に会える。そう期待に胸を膨らませ送ったラインはしかし、二日経っても三日経っても既読がつかない。以前なら長くとも半日で既読がつき返事が来たはずなのに何の反応もない。
もしや何か事件にでも巻き込まれたのかと思い彼女を調べ……その結果に頭を掻きむしった。
「何故いない? 何故戸籍がない――住民登録すら消えているんだ」
記録が頼りにならないならばと大家を訪ねれば「302号室はここ五年は空室だったはずだ」などという答え。嘘だ。セーフハウスとして利用できるか調べた時、確かにあのアパートの住民として登録されていたのだ。住んでいなかったはずがない。彼女を大家が覚えていないはずがない。
確かに彼女は302号室の住人だったはずなのだ。
そうだ。彼女はこの世界に存在した。誰よりも俺はそれを知っている。録音もスマホもラインのトークも残っているのだから。他にも……そう、彼女と関わりのあった相手だって。
「鈴木財閥の相談役、いや、あのコスプレの女は相談役をおじと呼んでいた。鈴木園子の姉の鈴木綾子だ。彼女に接触すれば……!」
だが、鈴木園子を経由して接触を得た鈴木綾子もまた、鼎さんとの繋がりを失っていた。
「返信が来ないんです、かなちゃんから。引っ越してから既読がつかないんです」
かなちゃんの戸籍も何もなかったでしょう、と鈴木綾子は微笑んだ。彼女も鼎さんの安否を知ろうと調べたようだ。そして、何も残っていないことを知った。
「これでも鈴木財閥の娘ですから、たとえ本人が特定できないSNSで知り合った相手でも、後ろ暗いところがないかまで調べるんです」
その時の調査結果はこれですと差し出された書類にあったのは鼎さんの実家の住所から信教まで詳しく書かれた個人情報の塊で、マップアプリでその住所を検索したが――そんな地名は存在しなかった。
ぽつりと零れる鈴木綾子の声。
「前は検索できたんですよ」
彼女から貰ったスマホはこの世に存在しないメーカーのもので、存在しないアプリが入っていて、他にないほど頑丈だった。組織の建物に侵入した際はサーモグラフィーのカメラが大活躍で、頑丈さには命を救われた。
彼女は今この世に存在せず、連絡がつかず、実家すら無いものになった。
彼女は電子記録と記憶のみ残して、消えた。
「納得なんてできるわけがないだろう……!」
大切なんだ。もう失いたくない人なのだ。本名で仲良くなって同じ皿の料理をつついて酒を飲んで笑って五年会わなくとも十年会わなくとも友人でいられる仲になりたかった人なんだ。
諦めたくない相手なんだ。手を握り一緒に歩いて、出来るわけがないけれど――許されることではないけれど、隣で共に歩き続けたい相手なんだ。
日に二三度メッセージを送り、日に十度以上トークを確認する。既読はいつまで経ってもつかない。
ある朝、出先に向かう途中で本郷として使っていたスマホの通知が鳴った。慌てて路肩に車を停めて確認し、手の中の端末が軋みをあげる。
はっきりと別れの言葉はないが、どう見ても別れの挨拶だ。お体を大事になさってくださいね、だと? 俺の心は君のせいで疲労困憊だというのに。
アパートに設置していた監視カメラの映像を確認する。十分前から現在に至るまでのそれを早送りで確認すれば、敷地内に入る人影は一つとしてなかったというのに玄関を開き現れた彼女の姿。
「はは……」
つい笑い声が漏れた。やはり鼎さんはこの世界の人間ではなかったのか、と。
そんな非現実的なことがありうるとは信じたくなかったが、これだけの物証が揃っては信じないわけにはいかない。
車道に出てアクセルを強く踏む。
羽衣など処分してしまえば良い。隠すだけではいつか逃げられる。いつか去ってしまう。逃したくないのなら燃やしてしまえば良かったのだ。
俺は昔話と同じ轍は踏まない。
アパートのガレージ前に車を飛び込ませる。気が急くままに勢い良くドアを閉めればガァンと鉄板を殴ったような音が響いたが、振り返らずアパートに飛び込んだ。そして。
「れーさんただいま。このドアからでも帰れるみたいだよ」
数ヵ月後、新しく建ったファミリー向けマンションのドアを出て消えドアから入って現れた妻の気楽な姿を見て、壁に頭を打ち付けた。
ああ、今すぐここを壊してしまいたい衝動で頭がどうにかなりそうだ……!