霧雨が明けた土曜日。安コ派であるという点以外は話の合う友人との約束のため、休日にも関わらず早く起きて出掛ける準備に追われた。
――安室目覚ましなんてものは存在しなかった。だから私の手元に安室目覚ましがないのは元々存在しないためであって、当然のことなのだ。目から出てるけどこれは涎だから泣いていない。
顔面を普段の三倍念入りに製作してから顎まである髪を丁寧にとかし、友人と並んでいて恥ずかしくない格好――私にしては気を使ったよそ行きを着る。
元々友人とはついったで交流があり、イベントで対面を果たしリアルでも会う仲になった。親しくなるうちに知ったのは友人の家庭環境で、彼女はなんと今をときめくIT企業のご令嬢。服がどれもハイブランドでセンスも洗練されている、そう感じたのは勘違いではなかったのだ。
背伸びしてでも彼女と釣り合いたいなどと思っているわけではないし、彼女もそういうことを求めてきてはいない。だけど、こんな私みたいな女の横に、一目見れば誰でも分かるまばゆい輝きに包まれた女がいてみろ。元々みすぼらしいのが更にみすぼらしく見えるだろう。
生まれや育ちが全く違うのだ、彼女と釣り合いたいとは思わない。ただ、他人に「みっともない」とは思われたくない。
――鏡に写る私は合板の盾と紙の鎧を身につけて、戦場に向かう戦士の顔をしている。誰が見ても張りぼてだがないよりましだ。
「いざ参らん!」
気合いを入れてドアを開けたら本郷さんがエレベーターのある方からこっちを振り返っていた。
ドアを閉めて深呼吸をしもう一度ドアを開ければ、本郷さんがエレベーターを待っている背中が見えた。もう駄目だ……今日はもう駄目だ……。ふぇぇママのお腹に帰りたい。
のろのろと本郷さんの後ろに並んでエレベーターに乗り込む。この世は地獄です……カッコ良くて強いんじゃなくてタイミング悪くて辛い。本郷さんには恥ずかしい姿ばかり見られている気がする。絶対に残念な女だと思われているに違いない。ただの隣人ならどう思われようと構わないけれど、本郷さんはフルヤ=キリストに似ている。フルヤ=キリストに似ているから凹む。おお、神よ、お見捨てにならないでください……!
そして一緒にアパートのガラス扉を潜り、本郷さんは駐車場へ消え私は歩きで駅に向かう。原付を持っているため乗って行った方がもちろん速いが、ヘルメットを被ると髪型が乱れる。化粧も擦れる。直すのが面倒くさいから歩きで良い。
財布とスマホしか入ってない鞄を振り回しながら歩く――その私の横に白い車がゆっくりと並び、停まる。
車種はマツダのRX-7の白、するすると開いた窓に肘をのせてこっちを見上げるのは本郷さんだ。後光が射している。
「狙ってんのか貴様……」
膝から崩れそうになった私なんて知らず、本郷さんはにこりと安室スマイルを浮かべ口を開いた。
「駅まで行かれるのでしたら同乗して頂けませんか?」
「後学のために是非、じゃなくて本郷さんがよろしければ是非」
頭の中は「なんとアールエックスセブン! ウルトラセ◯ンではなく!」「狙いやがって貴様良くやった誉めて使わす」「お前自分がフルヤ=キリストにそっくりだって知ってて買っただろ私には分かる」と大騒ぎだけれど、空気の読める私は控えめに微笑んで本郷さんの親切を両手に握りしめた。
だが、できるなら助手席などではなく運転席の乗り心地こそを知りたい。ええい本郷め邪魔だそこをのけ、私をその運転席に座らせるが良い。神の子はこういうシートに座ってるのかと座席を撫で回してエンジン回す感触楽しんでハンドルに頬擦りしてエロティックにレバー握りしめてアクセルの踏み心地を確かめるから今すぐそこをのいて明け渡せ。
世の中間違ってる……なんでこんなそっくりさんがいるんだコナンカフェで働いてろ毎日通うわ。
「では、お邪魔します」
「はは、どうぞ」
高いだけあって背中を優しく包まれるようなシート、滑らかで揺れを感じさせない運転は車のスペックの高さもあるだろうが、本郷さんの運転スキルも大きいに違いない。
――悔しいほどリアル降谷零。何故こんなにも降谷零。こんなにも降谷零スキルを身につけたお前はもうすでに降谷零。フルヤ! 崇めずにはいられない!
車で五分は歩いたら三十分、飛んでも八分なら歩いたら十五分。予定より二十分も早く駅についた。
何度もお礼を言って、駅前のロータリーから見送ったマツダRX-7のナンバープレートは新宿330と73-10。
「わざわざプレートナンバーまで買った……だと!? どんだけ拘るつもりだ凄いぞ本郷さん。良い仕事してますね!」
この爆上げなテンションを叩きつけるべく電車に乗り、職場とは真逆の待ち合わせ駅に着くのを待って――耳を疑った。
『次はー、杯戸ー。杯戸ー』
そんな駅名は今まで聞いた覚えがない。おいおいクールになろうじゃないか。東京にそんな駅名があったらコナンファンがこぞって聖地巡礼しだす、間違いない。鬼畜◯鏡を思い出そう、御堂さん萌えの皆様が大喜びで御堂筋線の写真撮ってはブログにアップしていたじゃないか。
聞き間違いか言い間違いに違いない。この乗務員はコナンオタクなのだろう。
「杯戸……だと……?」
つい電車を下りてしまった。駅名は確かに「杯戸」、下に矢印で電車の進行方向と次の駅名「米花」の文字が踊る。目薬を差してしばらく目を閉じ、ハンカチで拭ってまた目を開けても、文字化けは変わらない。まさか東京都に実在する地名で、存在が当たり前すぎて誰も何も言わないだけだった……? いや、まさかそんな記念写真ぱしゃっとな。
かなえ は はいどのしゃしん を てにいれた!
こうなると駅全体の写真も欲しくなってくるもので、迷わず改札を出て杯戸駅を撮る。下から見上げるように撮ったり斜めに撮ったりと私は無心でボタンを押し続け、肩に手を置かれるまで時間を忘れて熱中していた。
「かなちゃんってば」
「ひょ!?」
手の主を振り返れば、緩く波打った薄い色の髪をポニーテールにした女性の姿。今日会う予定だった河崎すずかちゃん二十四歳だ……と思うのだが、どことなく雰囲気が違う。こんな糸目ではなかったし、肌はもう少し日に焼けて黒かったはずだ。そしてもう少し胸が寂しかった。
「すず……? ブラのパット増やした?」
「やだ、かなちゃんったら! 久しぶりに会ったと思えば一言目がそれなんて、もー。増やしたりなんてしてないわよ。でも幸せ太りならぬ幸せ増量はあるかもしれないわね……。婚約したのよ。今日はそれについて話したくて」
「まじで? え、その顔ってことは好き合ってだよね。おめでとう詳しい話は喫茶店で問い詰めるから精々首筋を良く洗っておくことだ覚悟しておけ」
キャッ★ とか頬に手を当てて恥じらうすずに肘鉄をお見舞いして、喫茶店を探そうと声を掛ける。
始めの違和感はきっと、彼に似合う自分になりたくて美白と豊胸に気を付けだした……というところだろう。健気だ。私にそんな健気さはない。
「喫茶店なら一ヶ所、行ってみたいところがあるの。妹がそこの常連でね……店員さんが格好良いんですって」
「じゃあそこにしよう」
この辺りに来るのは初めてだし、変にリクエストして困らせるより詳しい人に任せてしまう方が良い。店員の顔面なんて塵ほども興味はないし、コーヒーがあってメニューがあってソファーがあるならどこでも良い。
すずの車に乗り十分弱、着いた先は喫茶ポアロ。
「え?」
「ここよ。美人の店員さんとイケメンの店員さんがいるんだって何度も聞かされたんだけど、一人で行くのもなんじゃない?」
「え?」
「入りましょ」
視線の角度を変えれば二階に毛利探偵事務所の文字。
……なんだ夢か、夢だったのなら仕方ない。すずの肌が白くなっているのも胸の増量が成功しているのも婚約したというのも夢だったのだ。謎は全て解けた! 真実はいつも一つ!
「いらっしゃいませ」
「なんでほんg」
「二名様ですね、お席にご案内いたします」
何故本郷さんがここにいるのか。あまりにも本郷さんがリアル降谷過ぎて夢のフルヤ=キリストが本郷さんで現れてしまったことに憤まんやる方なし。私は神の子を見たいのであり、本郷さんのイケてるツラを眺めたいわけではない。
せっかくの夢だというのに全く期待外れだ。夢の中でくらい降谷零を見せてくれ今宵の私は零に餓えている。
「本当にイケメンね……安室さんって仰るそうよ」
「ワーソウナンダー」
「ハムサンドが絶品なんですってよ」
にこにこと微笑むすず、何かを訴える瞳の本郷さん、カウンターに座る興味津々のサスペンダーボーイ。私は本郷さんを安心させるように微笑んだ。大丈夫だ、夢の中だからと言って人道に反したことはしないとも。
もしこの夢に本郷さんじゃなくて降谷零が登場していたのなら足元に平伏して見下してくださいと叫んでいただろうけれど。
「おう、あんちゃん、ハムサンド一丁」
「かなちゃんここは喫茶店よ」
何かを堪えようとして酷い顔になっている本郷さんに、親指を立ててウィンクしておいた。夢の中でも自制の利く私、なんと凄いんだろうか。
容疑者は「会ったのは偶然なんだ本当だ嘘じゃない」等と供述している。