ポアロでのアルバイトしか予定を組んでいない土曜日――昨晩の独唱会のお陰もあって楽しく部屋を出た俺の背後で、ガチャリと鍵の回る音がした。
世間に胸を張って言えない理由で彼女を気に入っている俺は振り返ろうと体を捻りかけ、しかし寸でのところで堪えた。
「いざ参らん!」
向かう先は戦場と言わんばかりの掛け声はいぶし銀な老将軍を思わせる。そして外廊下に踏み出す足音、「えっ」という小さな声と後ずさりして室内に戻る音、ドアが閉まる音。
ここが外でなければ天を仰いでいただろう。もしくは両手で顔を覆っていただろう。彼女は俺の腹筋を狙っているのか? そんな訳はないと分かっているが、こうして頻繁に腹筋をつつかれてはそうも言いたくなるものだ。
再びドアの開く音が聞こえ、エレベーターを待つ俺の後ろに彼女――鼎さんが並ぶ。三階に着いたエレベーターに乗り込みパネルの前に立てば横目に見える彼女の姿。
まるでデートに向かうような格好だ。髪は丁寧にすかれて艶々輝き、血色が良くナチュラルな化粧は柔和な雰囲気を漂わせる。花柄のワンピースに薄い藤色のカーディガンが素朴さを親しみやすさに昇華させ、多少自分に自信のない男でも「手が届きそう」と思えるような印象を与える。
間違いない、彼女が向かおうとしているのは婚活パーティーか見合いだ。あの封筒の送り主、クリタ・マッチング・サポートなるあっせん会社の企画に違いない。
特に華やかさがあるわけでなく十人並べば埋没しそうな顔に柔らかさの足りない骨張った体つき、女子の平均を五センチは上回ろう長身。本人はそれを欠点と思っているようだが、 それは欠点でもなんでもない。単に相手の好みと合致するか否かという問題だ。
それに、彼女と時間を共にするのは絶対に楽しい。こんなに愉快な性格なのだ、笑いの絶えない毎日を過ごせることは間違いない。少しでも彼女を深く知れば必ず分かる――彼女はとても魅力的で素敵だと。
共にガラス戸を潜りアパートを出たが、彼女は歩きらしくすぐに別れた。オーナーのこだわりでガレージになっている駐車場は防犯という面でもセーフハウスという面でも利点があり、また直射日光や風雨から車を守れるという面でもこのアパートは最良の選択だった。
ガレージのシャッターを開け、余暇と金を注ぎ込む愛車と対面する。瞳を閉じ起動を待つRX-7のボディーは純白、何にも染まらない輝きを放っている。
ゆっくりとアクセルを踏み公道へ出れば、機嫌良く鞄を振り回しながら歩く鼎さんの姿があった。ポアロのシフトへはまだ時間の余裕がある……最寄り駅まで彼女を連れて行ったとしても、だ。これを期に親しくなれば「作りすぎたのでお裾分けでも」で「一緒にカラオケいかがですか」からのタンバリン激打ができるはずだ。
徐行で横に並び声を掛ければ迷わずどころか「是非」という返事で、鼎さんの危険意識の低さに少しばかり頭痛を覚える。俺が悪い男だったらどうするつもりなのだろう。
助手席に座った彼女の目はメーターやハンドル、サイドレバー等をくるくると動く。――これでも顔が良い自覚はある。組織の任務で女性を横に乗せたことは何度もあるが、たいていは車よりも俺を見てきたものだ。だが、鼎さんの関心はRX-7に対してのみ。運転してみたそうに足元やシートをチラ見されるなんて初めての経験だ。
「美男過ぎる……RX-7たん……」
車をそんな愛称で呼ばれるとは思いもしなかった。人外萌えなのだろうか? 人の趣味をとやかく言うつもりはないが、先ずは隣にいる人類の美男を褒めてくれても良いはずだ。乗せているのは車だが乗せた車を運転しているのは俺だろう。
駅前では純和式お辞儀合戦がしばらく続き、手を振って見送る鼎さんに少しほっこりと心暖かくなりながら別れ、今日の交流はそれで終わった。
そう思っていたのだが。
「いらっしゃいませ」
何故ここにいる。客として来たことは分かっているが何故ここにいる。君のことだから見合い会場で「アラン・リックマンをください」とか言っているものだとばかり思っていたのに!
セーフハウスでの名前を呼びそうになった彼女を遮り席に促せば、ドヤ顔で頷かれた。分かっているぜと言わんばかりの表情は頼り甲斐に溢れている。本当に頼れるのか疑問でしかないが頼る他ない。
「おう、あんちゃん、ハムサンド一丁」
「かなちゃんここは喫茶店よ」
こいつは俺をどうしたいんだ!? 恨みでもあるのか、いや、知られれば嫌悪だけで済まない行為はこっそりやっているがまだバレていないはずだ。こんなことをされて笑わずにいられるはずがないだろう。冗談ではない、ふざけるのは風呂場だけにしておけ。
こっちは安室透の顔を保とうと必死だというのに。止めろ、親指を立ててウィンクするんじゃない。
カウンターの中に逃げ込みコーヒーをドリップする。
「くそ、こんな笑撃なんて求めてないぞ……」
湯を注ぐ度にふくらむコーヒーの粉を見下ろしながら暴れる心臓と震えたがる横隔膜を宥める。深呼吸を繰り返して「安室透」の仮面を被り直し、二人分のコーヒーを盆に並べて鼎さん達の会話に混ざる。
恐ろしいことにコナンくんが彼女達に話しかけている――彼の手にかかれば、セーフハウスの場所や別の偽名についても根掘り葉掘り穴だらけにされてしまう。
「あ、安室さん! 安室さんは鼎お姉さんとお友達だったりするの?」
俺が話しかけたことでコナンくんの標的は俺に変わった。流石に初対面の女性を質問攻めにするほどには常識を忘れていなかったらしい。
「おや、どうしてそう思ったんだい?」
「目と目で通じあってるように見えたからね」
そうだな。あからさまにウィンクしていたからな。
「君が気にするほどのことじゃないさ」
「えー? ボク聞きたいなぁ。気になるぅ」
子供っぽく駄々を捏ねるコナンくんにどう誤魔化すか苦笑を浮かべた、その時だ。彼女が動いた。
「えーっと、コナンくん?」
止めろ、俺のためを思うなら口を開かないでくれ。頼む。RX-7を運転しても良いから黙っていてくれ。
「あっ! 鼎お姉さんが教えてくれるの?」
コナンくんが顔を輝かせ鼎さんを見上げる。終わった……思えば、長い間彼女の歌声には助けられてきたものだ。だが今日であの生活にも幕引きか。味気なくなるな。
「うん。彼と私は前にも別の喫茶店で店員と常連客だったことがあってね……。さっきのは『ご注文は、いつもので?』『こうして顔を合わせるのは久しぶりだな、過去の客だとしても顔を忘れないとは良い心がけじゃないか。いつものを頼むぜ』っていう意味だったのよ。声に出して注文してないのにコーヒーが来たのはそういうことなの」
「へ、へー……」
なんという神対応。完璧だ。頼り甲斐に溢れた顔に嘘はなかった。だがそのハードボイルドな台詞は必要あったのか。
連れの女性が彼女と俺が親しい仲なのか訊ね、彼女はいいやと首を横に振る。
「ほとんど喋ったことはないけどね。こう言うのもなんだけど、単に店員と客でしかなかったからさ」
素晴らしい。しかしあまりにも完璧すぎるフォローだ……もしや彼女は俺の働きぶりを憐れに思った神様が日々の癒しにするが良いと遣わせてくれた、笑いの神か精霊なのではないか? 風呂場の壁に神棚を作らなければならないな。
「これからは親しくして頂けると僕としては嬉しいですね。前の店は少し堅苦しくて……こうして会話ができるような雰囲気ではありませんでしたから」
快諾を得て、俺はカウンター内に戻ってからガッツポーズした。
彼女にならハムサンドだろうがブーケトスだろうが元気で留守な亭主だろうが何でも用意しよう。元気で留守な旦那なら、風見あたりはどうだろうか。あいつは毎日残業で宿直室や仮眠室を自室にしているはずだし、「収入が安定した公務員で家に帰ってこない」という要素を満たすはずだ。
――待て。結婚したら彼女はあの単身用アパートを引っ越すことになるのではないだろうか。だからと言って風見に頼むのは駄目だ。嫁の入浴の様子を録音させろと命ずるなんて……それではパワハラではないか。
現時点で既にセクハラ沼に腰まで浸かっているというのに、パワハラまで重ねてしまってはもはや言い逃れができない。
「我々を真の意味で解放してくれる場所はカラオケボックス、あそこを置いて他にない」
はっきり言ってついていきたい。さっき目と目で通じ合えた奇跡を再び起こさんと目で訴え――無視された。
「今すぐ行きましょう、近くに良い店があるの」
「黄金のお饅頭の備蓄は大丈夫か?」
「大丈夫だ、問題ない。よ」
「そかそか。会計お願いしまーす」
去っていく彼女の背中を寂しく見送る俺に、まだ店内にいたコナンくんが話しかけてきた。
「本当にただの常連と店員の仲だったの?」
見下ろせば興味津々と目で訴えるコナンくんの姿がある。
「……そうだな。ただ普段は、僕の方が客なんだけどね」
既に見えない彼女の姿を探し外を見る。外は街行く人々が通りすぎるばかりだ。
いつも独唱会を聞かせてもらっておいて、カラオケまでもというのは虫の良すぎる話だったのだ。好感度を上げてタンバリンスキルをアピールし奉納を重ねたうえで、こちらから誘うべきだった。
――次は、間違えない。先ずはそう……ハムサンドの差し入れから始めよう。
セクハラを止める予定はないのか。