半熟ケーキが美味しかった日曜日から既に五日が過ぎたが、本郷さんのストーカーらしき影は今のところ見当たらない。
とはいえそういうものは気を抜いた頃にやってくる……ということで、ある程度の緊張感を持って周囲に目を配っている。だがまあ家の中でくらい、お風呂の中でくらいゆっくり気楽に過ごしたい。
「急に泣き出した空に声をあげ」
先日新入社員との飲み会で歌ったら男の同期達から「うわー、なつい!」「今日からお前についていく!」と好評を得たアニソンだ。その中に同期の星と名高い雰囲気イケメン梅田が混ざっていたせいで梅田の彼女・松前さん(後輩、美人、メンヘラっぽい)に睨まれたが、私は何も悪くない。文句があるなら梅田に言いたまえ梅田に。私はKis◯に連載されているような大人のドロドロ愛憎劇場とは無縁に生きていきたいから放っておいてくれ。
「目覚ましに起こされ」
烈火で一番好きなのは土門だ。欲望に忠実で風子が真剣に好きで――そして何より顔が濃い。初めて読んだ漫画がSLA◯ DUNKだった私の初恋は牧さんで、彼の顔は濃い。と言うよりもSLAM DU◯Kの男キャラクターはだいたい顔が濃い。悲しいことにSLAM ◯UNK慣れしていた私には烈火や紅麗が女顔に感じられ、落ち着いた先が土門だった。コメディー担当だったのもSL◯M DUNKに慣れていた私には受け入れやすかったのだと思う。今はどうなのか、なんて聞くものじゃないさ私は一神教徒なの。
閑話休題、烈火は一度記憶を消去して始めから読み直したい作品の一つだ。
浴槽の縁に腕をかけて天井を見上げる。
「明日はやっと休み……あー、くそ、世の中のボーイズ&ガールズは夏休みなのにレディース&ジェントルメンは相変わらずお仕事か……。わーん一ヶ月くらいお休みがほしいよぅ! 職場が爆発したらお休みになるならボクちんテロリストになってやる! 葛西善二郎になっちゃうぜ火火火!!」
一人用の大きくない浴槽内でバチャバチャ暴れる。お湯が跳ね顔にかかって止めた。
「そうとも、うちの職場にはネズミに囓られていそうなガス線もあれば発火物になりそうなIoTのポットもあるんだ他人の私物だけど。ハックだ、ハックするしかない間違いない。Fuckな職場に.hackして私Bommerになる!」
そう、私は「長期休みが欲しい」という本能に忠実な犬なのだ。だがそこらの単なる働きマンでしかない私にはハックの方法など分かるわけがない。ヒステリアになるには無理がある。さようならヒステリア、こんにちはヒストリア。毎週水曜日の放送を楽しみにしています。
「休みを勝ち取るために必要なのは力。脅迫には腕力、はっきりわかんだね。力あってこそ目的を遂げられる。I need more power...俺の魂はこう言っている。もっと力を」
――世界を革命する力を!
「潔く格好良く生きていこう」
COLORSでも良かったかもしれない。
風呂の壁の向こう、難しそうな顔をする男がいただなんて知っていたら……迷わず通報していた。
※※※
すずから送られてきた、フルヤ=キリスト教徒である私ですら安コに滑り落ちそうなシコい同人誌。それを枕の下に敷いて寝たが、残念ながら安室とコナンがくんずほぐれつな夢を見ることもスマホに念写が保存されることもなかった。申し訳ないと電話したら「一度でどうにかなるとは元々思っていなかったから気にしないで!」という返事、今日と明日も試せという言外の圧力に私は膝を屈した。
ふぇぇスズ=サン怖いよぅ! でも気持ちは分かる私も同じことをする自信がある! ああ同類、類友、朱に交わる前に元から共に赤かった。
電話を終えたところに届いたラインの相手は本郷さんで、朝の挨拶とこれから訪問して良いかという質問。中には入らず玄関先で会いたいということだった。私も先週のトレーを返したかったところなので快諾。
「こんな朝早くに申し訳ありません」
「いえいえ! とっくに起きてましたからお気になさらず。それに、先日ケーキとサンドイッチを頂いた時からお皿とトレーをお借りしたままですし……」
私の手には皿が二枚とフォークが乗ったトレー。しかし本郷さんの手にもトレーがあり、上にはアムサンドにしか見えないハムサンドが盛り付けられた皿が乗っている。
「あの、そちらは……?」
「ああ! 先日感想を頂いたケーキを店で出したら早速人気のメニューになりましてね。試食してくださった鼎さんにお礼をと思いまして」
「いやいや、そんなお礼をされるようなことはしてませんよ!? むしろこちらこそ試食のお礼をすべきですから!」
本郷どうした、ついに頭がおかしくなったのか? こんな干物を餌付けしてどうするつもりだ。私がやつれて見えるのは体質であり、けして食生活の水準が低いせいではない。確かに毎月五万フルヤ=キリストに捧げているが、映画やグッズが出ない時などにはきちんとネットバンクのフルヤ=キリスト用口座に貯金し、生活が少し苦しい時にお恵み頂いたりしている。今も等身大フィギュア等が出た時のためにコツコツ貯めた金が三十数万入っている。
信仰に死ぬなどと言うのは時代遅れなのだよ、分かるかね。
「後でトレーとお皿、回収に来ますね!」
「ハイ……アリガトウゴザイマス……」
にこやかに去る本郷さんの背中を見送る。見送ると言っても数メートルの距離だ、すぐにドアを閉め部屋に戻り、視線を落として手元……渡されたハムサンドを見る。見るからに美味しそうだ。
――餌付けの末に何を要求されるか分からないため頑張って断っていたのだが、結局は力及ばず、フルヤ=キリストにしか見えない顔とフルヤ=キリストの中の人と勘違いしそうな声に押しきられた。「よりハムサンドを美味しくするためにご協力お願いします♡」だなんてフルヤ=キリストそっくりなフェイスとボイスで可愛くおねだりされてみろ、迷わず「うん、わかったー!」と答えてしまうのも仕方ないだろう。つまりはそういうことだ。キヤツは自分の魅力を分かっておる、忌々しいことに。私は……私は、無力だ……!
女らしさがあの乙男に完敗している気がする。きっと気のせいではないだろうが私は泣いてないこれは鼻水だから。
「ふぇぇアムサンドだよぉ美味しいよぉ」
こんな屈辱は初めてだ。くっ……殺せからのダブルピース、今なら即堕ち2コマも目じゃないぜ本郷サンドイッチ美味しい。でも本郷のより我が神の子の手作りアムサンドが食べたいです安西先生! 諦めたらそこで試合終了なら諦めなければいつか食べられるんですか!? 次元の壁は越えられるんですかあかりって主人公なんですかー!?
まあ、そんな簡単に次元の壁を越えられるならデク君はワンチャンダイブなどしないし、リアルな異世界に行けるならVRなど必要ない。私もこうしてリアルアムサンドを恋しがって枕を濡らすこともないのだ。本郷のハムサンドが美味しいだけに悔しい。
どうしてこいつは降谷さんじゃないんだ。チェンジだ。チェンジを要求する。おお本郷よ、貴方はどうして本郷なの? 降谷に代われ! 降谷に代わったなら301号室に接した壁に祭壇作るから!
考えてみろ、十字架に磔になったフルヤ=キリストなんて尊すぎるだろう。神聖of神聖で胸が震えて呼吸困難になり倒れる未来が待っている。血を流すフルヤ=キリストが青ざめた顔で項垂れている姿など見せられた日には美しすぎて失神間違いなしだ。貴い! 尊い! 両目から激情が溢れて池になり私はそこに入水して殉死する。愛ゆえに死すワンダホー! フルヤ=キリストはまさに気高く咲く薔薇、散る様も美しいから薔薇なのだ。でも薔薇を口に咥えて耽美な白いシャツを着たフルヤ=キリストはギャグでしかないのでお断りいたします。
フルヤ=キリストは存在そのものが薔薇なのだ! 薔薇で周囲を飾れとは一言も言ってない! 彼こそ気高く咲く一輪の薔薇、具体的に例えるならデズニーな美女と野獣のタイムリミットなあの薔薇だ。儚くも美しくそして力強い。
なれるものなら私はトキメキで変身したい。トキメキッシュ! 変身する度にそのトキメキを忘れるなんて最高じゃないか、何度でも初めての気持ちでフルヤ=キリストにときめけるのだから。いつでもフレッシュ、蜜柑の甘酸っぱさが胸に弾ける! あー変身したい。トキメキ変身したい。
何故私の知り合いにデカパン博士がいないのだろう。
――中途半端にリアル降谷な本郷めが近くにいるせいで余計に想いが溢れてしまい、ここ最近は以前に増して現実を直視するのが辛い。身近にこいつがいなければ諦めもつくのに。神よ、これは神の与えたもうた試練なのですか? かなり辛いのでそろそろ終わらせてください本郷を刺したくなるから!
私を殺人犯にする前に早く!
――その日の昼、来年の三月末でこのアパートを引き払って欲しいという回覧板と手紙が来た。だいぶ老朽化が進んだため壊してしまうらしい。次に建つのはファミリー向けの五階建てマンションで、私には縁がなさそうな建物だ。
今は七月末だから、来年の三月末に立ち退き完了ということは八ヶ月後にはこことサヨナラだ。残念だったな本郷くん、こうして君が頑張ってストーカーからの盾にしようとしていた隣人とはあと半年と少しでお別れだよ。可哀想だけど仕方ないね。
強く生きろよ!
この世には知らない方が幸せなこともある。