毎朝犬にほえられて困っている私に、一人の男の子が興味を持った。その子は動物が大好きで、私の悩みを解決してくれるというけれど――
小説家になろうにも投稿しています。
私、仁原日代子は動物が苦手だ。そして、動物は私が嫌いだ。
私が苦手だから嫌われるのか、嫌われたから苦手になったのか。とにかく、私は動物に嫌われている。
犬に会えばほえられるし、鳥がいれば飛び立っていくし、猫と目が合ったら一目散に逃げられる。ほかにも、かみつかれたり、飛びつかれたり、引っかかれたり。
小さなころから受けてきた数々の仕打ちのせいで、私は動物を見ると、怖くて逃げ出してしまうようになった。
そんな私の最近の悩み――ううん、最大の悩みは、朝の通学路での一幕にある。
今日も今日とて、私は電信柱の影から、そっと様子をうかがっていた。
(うう、こっち見てるよぉ)
私の視線の先には、鉄製の門。
そのすきまからは鼻が飛び出していて、その向こうには、こちらをジロリとにらむふたつの目があった。この家で飼われている番犬だ。
動物に嫌われる私は、もちろんこの家の犬にも嫌われている。
近くに来るたびに、こうやって私を近づけまいと門までやってくるし、家の前を通ろうとすると、ものすごい勢いでほえられる。
今だって、のどの奥のうなり声が、離れた私のところにまで聞こえていた。
犬の首輪は、鎖にはつながれていない。あの門の鍵が外れていたら、前を通ろうとした瞬間に、飛びかかられてしまうかもしれない。
そんな想像が出てくるから、毎日恐くてたまらない。
(いなくなってくれればいいんだけど……)
門から離れてくれれば、その間にかけ足で通り抜けられる。
だからほんの少しだけ期待して、電信柱の影で息をひそめているのだけど、犬は引き返さずに私をにらみ続けている。
私がいなくなるまでは、どうしたってどくつもりはないみたいだ。
こうしているあいだにも時間はどんどん過ぎていく。ずっとこうやっていたら、そのうち学校のチャイムが鳴って遅刻してしまう。
私は覚悟を決めて、息を吸い込んだ。
「また犬にほえられたの? あそこの犬、おっかないもんね」
朝のホームルームのあと、疲れ切った私のところに、友達が声をかけにやってきた。
犬の声が聞こえなくなるまで全力で走ったから、もう体力は残っていない。
もしこのあとの授業が体育だったら、私は体操着に着替えることすらできなかっただろう。
いつもいつもチャイムギリギリに教室に入ってくる理由を、友達はみんな知っている。私がどれだけ動物に嫌われているか、友達どころか、学年中が知っているのだ。
学校で飼っていた鳥たちが、私が来るなり一斉に羽を広げていかくした光景は、今でも目に焼き付いているし、五年生の伝説になっている。
「私ばっかり、いつもひどいの。お母さんはそんなにほえられないって言ってたのに」
「ヒヨちゃん、なにもしてないのに嫌われちゃうよね。ヒヨコだから、おいしそうに見えちゃうのかなあ」
「うーん」
仁原日代子。ニワトリの子供と、同じ名前。ちっちゃいときからピーちゃんとかヒヨコちゃんとか呼ばれてきたけれど、顔がヒヨコに似ているわけでもない。
ムムムと唸っていると、会話を聞きつけて、男の子たちがわらわらとやってきた。意地悪な子たちばかりだったので、私たちはすぐさま身構える。
「なんだ、またヒヨコがなんかやらかしたのか」
「今日もあの家の犬にほえられたんだってさ。しかもまたヒヨコだけ」
「犬にほえられるとかー! だっせー!」
一人が口の横に手を当てて大声で言うと、教室の何人かがクスクスと笑った。それが恥ずかしくなって、顔がうつむいてしまう。
私があんまりにも動物に嫌われるから、男の子たちが面白がって、ときどきこうやってからかいに来るのだ。
泣いてしまうとヒヨコが鳴いたとよけいからかってくるから、泣いちゃわないように、こらえなくちゃいけない。
なにも言えない私の代わりに、友達が思いっきり顔をしかめた。
「うるさいなあ。あんたたちには話してないでしょう、黙っててよ」
「だって、ヒヨコの鳴き声が聞こえたし。ピヨピヨってさ!」
一人がヒヨコのようにピコピコと手を動かしたので、男子たちが笑い声をあげる。
「あそこの犬、よくほえるけどさ。家の前通るだけでほえられんの、こいつだけだよ」
「俺、この前見たけどさ。こいつ、カラスにも騒がれてたんだぜ。
ヒヨコはカラスにも嫌われてんだな」
「動物に嫌われるのって、性格悪いかららしいし、じつはものすごく性格悪いんじゃね? 腹黒ヒヨコ!」
「腹黒ヒヨコー!」
「ちょっとやめなよ!」
「はっらぐろ! はっらぐろ!」
男の子たちが大声で私をはやす。友達が怒れば怒るほどうるさくなって、手拍子までつけられる。
体の内側が真っ赤に熱くなっていく。
私だって、なんで嫌われるのかわからないのに。
ジワリとにじむ涙が、こぼれ落ちそうになる。
「見ろよ、ヒヨコが泣いた!」
目ざとく涙を見つけられて、私は横に首を振った。
「すぐ泣くよな。やっぱり、犬にもわかるんだよ。お前が間抜けだって」
「だからほえられるんだよな」
「うっさいバカ犬でも、自分よりバカなやつだってわかるんだな!
だからバカなカラスにも嫌われんだよ、おバカヒヨコ!」
「はっらぐろ! はっらぐ――」
ドスンと落ちた重たい音が、男の子の声と手拍子を遮った。全員の視線が、音の源に集まる。
その先にいた男の子は、振り返らずに声を出した。
「その犬は、バカじゃないよ」
穏やかな声はけして大きくはなかった。でも、静まり返った教室のなかでは、はっきりと通る。
その男の子は、黒板のすぐ前の席に座っていた。ゆっくりと立ち上がって、私たちを見る。
「あと、カラスもバカじゃない」
彼の机の上には、重たそうな本が乗っている。さっきの音は、その本を閉じた音だったのだろう。
文字ばかりの重たそうな本を持って、その子は私たちに近づいてくる。
「番犬はほえるのが仕事だし、カラスも頭がいいんだよ。人の顔も覚えられるし、計算だってできる。
それに、自分におとるものをおびやかす習性は、犬にもカラスにもないよ。だから、日代子をバカっていうのも、ちがうと思うよ」
淡々と言う彼だったが、ふと思い直したように、男の子の一人――犬とカラスをバカにした男の子に、首をかしげた。
「もしかして、テレビでそんなのやってた? 何チャンネル? 番組の名前、教えてくれる?」
どうやら、まじめに聞いているらしい。姿勢が前のめりになっている。
質問された男の子は答えに詰まって、それから、憎たらしそうに目をつり上げた。
「うっせえ、クズ!」
それだけ言って、勝手に自分の席に戻ってしまう。
シラケてしまったのか、ほかの男の子も次々と自分の席へと戻っていく。
「……?」
なぜ罵られたのかわからないという顔で、その子も席へと戻っていく。
それからすぐに授業が始まったので、私は助けてくれた男の子――葛城夕の背中を、授業中そっと見つめていた。
葛城夕。葛城と書いてカツラギと読むのだけど、クズシロとも読めてしまうので、クズと呼んで、からかう男の子がいる。頭がいいのを、やっかまれているのだ。
私のヒヨコをいじったあだ名よりも、ずっとひどいあだ名だ。なのに、夕はまったく相手にしていない。
どんな悪口を言われても、さらりと受け流して、好きな読書に熱中している。
授業が終わってから、私は背後から声をかけた。
「夕」
初めて名前を呼んだ。
振り返った夕は、眼鏡を掛けていた。授業中だけ、眼鏡を掛けているらしい。
「さっきは、ありがとう。言い返してくれて」
「ああ」
夕が眼鏡を外す。
「大変だったね。誤解でからかわれるなんて」
「誤解?」
「ヒヨコだから、って。名前なんて関係ないし、理論的じゃないのに。
日代子だって、カラスや犬に、いつも名前言ってるわけじゃないでしょ?」
「言ってないよ」
そもそも、恐くって声なんて出せるわけがない。
「みんな、勝手に言ってるの。私がヒヨコと同じだから。意味なんてないんだよ」
「だろうね。俺もよく言われてる。そもそも、そっちのクズじゃないのに」
私と違って、夕は平然とそう言った。本当に、悪口をまったく気にしていないらしい。
つい、まじまじと顔を見てしまう。
「夕は、いやにならない? 名前でからかわれるの」
「そんなに。だって、違うし。それに、同性の動物はいがみ合うものだから、仕方ないと思ってる」
「……え?」
言っている意味がよくわからなくて聞き返すけれど、夕は首を振るだけだ。
文字ばっかりの本を開いているせいで、なんだか学校の先生みたいに見えてくる。
「それで、犬によくほえられるの?」
興味があるのか、夕の目のなかで好奇心が光っていた。
からかう声じゃなかったから、私は正直に頷いた。
「いつも?」
もう一回頷く。
夕は少し考えて、それから、口を開いた。
「犬に、なにかしたことある?」
「しないよ」
むしろ、私が犬にいじめられているのに。
夕も、ほかの男の子たちみたいに、私が犬に嫌がらせをしたから嫌われていると、そう思っているのかもしれない。
「夕は、私がなにかしたって思うの?」
違うよと夕が首を振った。
「えっとね、犬ってとても頭がいいんだ。されたことはずっと覚えてる。
だから、もしなにかしてたら、それが原因になってるんじゃないかって思って」
夕は、私が犬に嫌われている理由を、ちゃんと考えてくれているらしい。
でも、本当に、犬をいじめたり、恐がらせたりなんかしていない。
「じゃあ、家で犬を飼ってるとかは? 違う犬の匂いに反応してるのかもしれない」
「ううん、飼ってないよ」
「違うか」
それにしても、夕が動物に詳しいなんてしらなかった。
夕の口からすらすらと出てくる知識は、男の子たちのからかい文句とも、友達のなぐさめの言葉とも違って、理論的だ。
「夕って、物知りだね。動物が好きなの?」
夕が勢いよく頷いた。
「うん。生き物、好き。この本も動物の本だよ」
「そうなの?」
嬉しそうに本を見せられるけれど、小さな文字がいっぱい並んでいるだけで、私にはわかりそうにない。
「難しいの読んでるんだね」
それしか言えなかった。
目につく単語は意味も読み方もわからないものばかりで、イルカについての本なのだろうとだけ、なんとか見当がついた。
「そんなに難しくないよ」
「だって、習ってない字ばっかり」
「そうだけど。でも、フリガナあるし、意味を順番に調べてれば、そのうちなんとなくわかるようになるから。面白いよ」
「うーん。私は、もっとわかりやすいのじゃないと読めないな。
写真とか絵がいっぱいあるの」
「図鑑のこと? 図鑑はおっきくて持ってこれないから」
私だったら、この本だって持ってこられない。
やっぱり夕と私じゃ、考え方が違いすぎるみたいだ。
「あのね、私ね、いつも動物に嫌われてるの。それってなんでだと思う?」
「んー」
夕が首をひねる。
「実際に見てみないと、なんとも言えないな。
ちっちゃい子とかは、いきなり突撃したりするから逃げられるけど、日代子はそんなことしないだろうし。
日代子がどうしてるか、どんなふうに嫌われてるか、教えてもらわないと」
「なにもしてないよ。目が合ったらすぐにうなられちゃうもん」
「……うーん」
もしかして、私がわかっていないだけで、なにか動物が嫌がることを、いつのまにかやってしまっているのだろうか。
でも、触ろうとはしていないし、大声で驚かしたりもしていない。むしろ、襲いかかられないように身を守るだけで精いっぱいだ。
「気になるなら、調べるの手伝おうか?」
同じように首をひねる私に、夕がそう言った。
「手伝うって?」
「俺も一緒に行ってあげるよ。その犬のとこ。
ほえられる理由がわかったら、ほえられなくなるかもしれないし」
思ってもみなかった提案に、私はぱちぱちと瞬きをする。
動物に詳しい夕が来てくれたら、もしかしたら私の動物嫌われの原因がわかるかもしれない。
「来てくれるの? 本当にいいの?」
「うん。それに、どんな犬か見てみたいし。番犬飼ってる家、行ったことないから」
どちらかというと、夕の目当てはそっちらしい。声が弾んでいる。
でも、手伝ってくれるのなら、どんな理由がおまけについていても大歓迎だ。
「今日の帰りにする? それとも明日の朝?」
「あ、帰りはダメ。昼寝してたりするから」
だから、帰りはこっそり通れば見つからずに帰れる日もある。
「それなら明日の朝だね。
ヒヨコの家って、どっち方面? 表門から出て、右?」
「ううん、表門じゃなくて、もうひとつのほうから出てまっすぐ。二十分くらい歩くかな」
「そんなに? じゃあ、俺の家から三十分くらいかかるんだ。大変だな」
夕の家は表門から出て、十分のところにあるらしい。
学校帰りならともかく、学校に行く前だと、夕だけ早く家を出なければならない。
「やっぱり、やめる?」
「ううん、やる。日代子がその犬にほえられくなるように」
「……ずっとほえられちゃったら、どうするの?」
「……その時、考える」
現実的に考えてしまったのだろう。夕は歯切れ悪く返事をした。
__
待ち合わせ場所は、日代子の家の近くにある公園だった。
遅刻してしまわないように、いつもよりずっと早い時間の待ち合わせだ。
私も早めに家を出たはずなのに、夕は公園のベンチに座って、また重たそうな本を読んでいた。
「おはよう」
声をかけると、夕が文字から目を離す。
「今日は、なんの本読んでるの?」
「番犬の歴史」
「番犬の歴史?」
またもや難しそうな本である。
「番犬の歴史を知れば、番犬の考えることもわかるかなと思ったんだけど」
「どうだった?」
「人の繁栄に関する本だった」
「うん……?」
二つがどう結びついてるかはわからないけれど、お目当ての情報はなかったらしい。
ランドセルに本を戻すのを待って、一緒に歩き始める。
男の子と二人で学校に行くなんて、初めてだ。だれかに見られたら、からかわれたら、どうしよう。
夕はなんでもないように歩いているけれど、私はドギマギしていた。
「今日って、給食なにかな」
「見てない。いつもと変わらないんじゃないかな」
「昨日のおうどん、おいしかったよね。私、給食のおうどん、うちのと違ってるの好き。細くておいしいよね」
「うん。細いから、食べやすくなってる。野菜も小さく刻まれてて、便利」
「便利? あ、うん。油揚げとかも入ってておいしいよね。お母さんに頼んでみようかな。
夕のおうちだと入ってる?」
「入ってる。ちょっと大きいから、かむと汁が垂れてきて大変」
「そうなんだ。でも、そんなおっきいのも食べてみたいな」
しゃべってないと、恥ずかしさでそわそわしてしまう。だから私は、なんとかしゃべり続けていた。
夕も、昨日ほどではないけれど、ちゃんと返事をしてくれる。
男の子にはいつもからかわれてばっかりだったから、こうやって、女の子とみたいにたくさん話すのは初めてだ。私がしゃべってばかりだけど、思ってたよりも楽しい。
でも、楽しい時間はあっという間だ。
あの犬がいる家に近づいていくにつれて、私はどんどんしゃべれなくなっていった。
最後には何もしゃべらなくなった私を見て、夕が口を開く。
「犬、どこなの?」
「もうすぐ」
「そうなんだ。俺が来るときには見かけなかったから」
「うん、みんなそう言う」
いつもは、玄関そばにある犬小屋から、じっと外を監視しているそうだ。
門の外からのぞきこむと反応してほえるけれど、通り過ぎるだけなら、顔も出さない。――私以外の人だったら。
「ほら、あそこの家」
金属製の門を指さして、私は立ち止まった。
犬はもう私の存在をかぎつけているようで、門のすき間からつやつやとした黒い鼻がのぞいている。
見つかってないからうなられていないけれど、もう少し進んだら、地鳴りみたいな声でいかくされてしまう。
「ほんとだ、いるね」
「いるでしょ」
夕が興味津々に近づいていくから、私も少しずつ足を進めていく。うなり声が聞こえてくる。
もしかしたら、初めて見る夕が気になって、犬がほえずにいてくれるかもしれないと期待したけれど、それは叶わなかった。
積年の恨みとでも言いたげな声で、犬がほえ始める。何回も聞いているけれど、何回聞いたってやっぱり慣れない。
この声を初めて聞く夕は、背伸びをして犬のほうをうかがっている。こんなにおっかない鳴き声なのに、夕は恐さを感じないらしい。
「行こう」
夕の言葉に、私は強く首を振った。
こんなに離れているのに、こんなに怖いのだ。近くであの犬を、狂暴な目を、鋭い歯を、見なければならないなんて無理だ。
「近づかなきゃ犬の様子がわからないよ。それに、そんなにおびえてたら、よけいあの犬が反応しちゃう」
また首を振る。
お母さんにも、犬には門を開けられないし、いつもちゃんと学校に行けてるんだから大丈夫でしょと言われるけれど、恐いものは恐い。
毎日、勇気を振りしぼって、やっとかけ抜けているのに。
私がかたくなに嫌がるから、夕は困った顔で私と犬を見比べた。そして、私に手を差し伸べた。
「じゃあ、俺の後ろに隠れる? 見えなければ、恐くないでしょ」
「……いいの?」
「俺は恐くないし」
落ち着いた声が、とても頼もしい。
私は両耳をふさいだまま、夕の背中に張りついた。家で動物を飼っているのか、夕の服からは、動物の匂いがした。
昨日夕が言っていたことを思い出して、犬じゃなければいいんだけどと願う。
「あ、あんまり早く歩かないでね」
「うん」
なおもほえ続ける犬に、二人くっついて近づいていく。
恐いけれど、夕が壁になってくれているから、いつもよりずっと恐くない。
それでも近づくほどに鳴き声が大きくなって、私は犬から見えなくなるように夕の隣に移動した。そうして距離を取って、ぎゅっと夕の腕をつかむ。
目をつむって通り過ぎるのを待っていたけれど、夕が突然足を止めた。私も一緒に立ち止まる。
「夕?」
呼びかけても、クイクイ腕を引いても、夕は動かない。
門の目の前で、完全に止まってしまった。
近くで見たら、夕も恐くなったのかもしれない。
だって、本当に怖い顔でほえてくるのだ。あのむき出しの歯、思い出すだけで震えてしまう。
早く通り抜けたほうがいいと袖を引っ張るも、夕は動かない。薄目を開けて顔を見ようとするけれど、夕が犬を見ているせいで、耳しか見えていない。
「ね、大丈夫?」
夕の顔を見ようと、なるべく犬のほうは見ないようにして回り込む。
夕は食い入るように犬を見ていたけれど、その顔は私が想像していた顔と全く違っていた。
笑っていたのだ。キラキラした目は子犬を見ているみたいだけど、犬はすさまじい形相でほえている。それなのに、夕は笑っていた。
恐怖のあまり、おかしくなっちゃったんだろうか。
「ゆ、夕?」
恐る恐る声をかけると、やっと夕はこちらを向いた。キラキラした目が、私を見る。
「犬にほえられるなんて、初めてだ!」
声は熱を帯びていた。
「初めてで……びっくりしてる!」
興奮のあまり、頬に赤みがさしている。
夕の反応に驚きすぎてなにも言えずにいたら、門の向こうで窓が開いた。この家に住んでいるおじいさんが、私たちをキッとにらみつけてくる。
「お前ら、なにやってる!」
このままだと、おじいさんに怒られてしまう。
あわてて夕の手を引いたけれど、夕は逃げようとはしなかった。
一人だけ行っちゃうわけにもいかないから、私はただただあわてるしかない。
犬はずっとほえていた。
「ふせ!」
サンダルをはいてやってきたおじいさんは、まず犬に声を浴びせた。
すると、あんなにうるさくほえていた犬が、ピタッとほえるのをやめておなかを地面につけた。――のどの奥でうなってはいたけれど。
「すごい……」
あんなに狂暴な犬を、一声で黙らせるなんて。
「うん、すっごくいい番犬だね」
思っていることが微妙に違うけれど、夕がうなずいた。
私たちが言葉を交わせたのはそこまでで、すぐにお爺さんが門を開けて私たちの前に立った。腰が曲がっているけれど、小学生の私たちよりはずっと背が高い。
近くまで来れば一目散に逃げると思っていたのか、おじいさんは不思議そうな顔をしている。でも、キッとまゆ毛をつり上げた。
「お前たち、人の犬になにしてた」
おどかすような声に、私は夕の腕をぎゅっとつかんだ。
「うちの犬がやけに騒がしいと思ったらお前たちがいたずらしてたのか? どこの家の子だ! 名前は!」
「葛城夕です」
夕があっさりと答えてしまい、私はますます慌てる。
おじいさんは次に私を見た。
「お前は」
「ふ、仁原ひ、ひよ、日代子」
「ヒヨコォ? ふざけてんじゃねえぞ」
「ひぃ! 名前、本当に日代子……!」
夕はピンと背筋を伸ばしたまま、おじいさんの命令を聞いてじっとしている犬に目をやっていた。
「大きくて、かっこいい犬ですね。ドーベルマンのミックスですか?」
「ああ?」
「夕、今はだめだよ」
小声で忠告するも、夕の耳には全く届いていない。ぶつぶつと犬の名前を唱えている。
「この顔、見たことある。ロットワイラーとのミックスかなあ。でも、ロットワイラーだったらもっと――」
失礼だと、おじいさんに怒られないだろうか。
私はハラハラしていたけれど、おじいさんは眉間のしわをやや伸ばして、ぶっきらぼうに答えた。
「シェパードだよ。シェパードの血が入ってんだ」
「シェパード? そっか、シェパード。すごいな、番犬にぴったりだ。
名前はなんていうんですか?」
「ハナだよ」
「ハナ!?」
思わず私がさけんでしまう。あまりにおっかなかいから、絶対にオスだと思っていた。
それに、名前がかわいらしかったのも意外だった。
「……お前たち、うちの前でなにしてたんだ?」
私たちの態度に、おじいさんが声のトーンを下げる。
犬にいたずらしていたわけではないとわかってくれたみたいだ。
「あの、わた、私がいつもほえられてるから、友達が見に来てくれて」
「初めまして。今日初めてこの子に会いました。立派な番犬ですね」
夕が頭を下げる。
「俺、犬にほえられたの初めてで。
こっちに来たときは犬がいるってわからなかったくらいなのに、日代子と来たらこんなに――どうなってるのかな」
「ああ、いつもの子供か。
ハナがようほえる子供がいたからどんな子供かと思ったら、ただのちっちゃい嬢ちゃんじゃないか」
「ごめんなさい……」
「いや、うちのは気性が荒いからな。あんたがなにかしたわけじゃあるまいて。
のう、ハナ」
おじいさんに声をかけられて、ハナがワンと一声鳴いた。
「返事した!」
「するよ、犬だもの」
夕は面白そうに私を見る。
「ハナ」
夕が名前を呼んでみる。返事はしないものの、ハナは夕に向けてしっぽを振った。
「おお、ハナが興味を持ってるな。めずらしい」
「俺、動物にはよく好かれるんです」
「ほお、そうかい。ほら、ハナ、おいで」
ハナの飼い主のおじいさんは、夕が気に入ったようだ。
ハナも夕は嫌いではないらしく、門の向こうから、夕に熱い視線を送っていた。
私は当然、まったく近づけなかったけれど。
またおいでと見送ってもらいながら、学校に向かう。
番犬に会えた夕は、なにやら上機嫌だ。
「貴重な体験だった。
犬は自分より大きな犬をいかくしたりするけど、俺たちみたいな子供にもほえるんだね。しかもあんなに!」
ほえられたのが、うれしかったらしい。
ほえられたのを思い出して、どうしてこんなに楽しそうなんだろう。私はもう疲れ切ってしまっているのに。
「私、絶対に家の人に怒られると思ってたよ。どうして逃げなかったの?」
私が尋ねると、夕は小さく笑った。
「逃げちゃだめだよ。悪いことしてるって思われちゃうもの」
「でも、逃げちゃえばわからなかったよ」
「わかるよ。犬はちゃんと人を匂いで覚えるんだから」
「犬?」
また話が食い違っている。夕もそう思ったみたいで、どう話そうかと目を動かした。
「犬は物覚えがいいんだけどさ。主人に忠実だから、主人が嫌ってる人も嫌いになるんだ。
それで反対に、主人の大切な人とかだったらちゃんと見分ける。
だから、主人から逃げたりしたら、ますます警戒されちゃうんだ」
夕の言葉をゆっくりとかみ砕く。
「えっと……じゃあ、逃げてたら、もっとほえられてたの?」
「たぶんね。日代子だって、いきなり逃げ出す人がいたら、怪しいって思うでしょ?」
「うーん」
今まで、動物を自分に置き換えて考えたことがなかった。
私が同じ状況になったら―――家に尋ねてきた人が、お母さんを見て逃げ出したら。
私もその人を怪しい人だと思うに違いない。いや、絶対にその人は怪しい。
「ほんとだ! すっごく怪しい!」
「だよね。犬だって一緒だよ」
「へー……!」
同じように、庭で遊んでいるところをいつも同じ人に見られていたら――とても怪しい人だと思う。
変な人がいたとお母さんに話すだろうし、私が犬で、お母さんに言葉で伝えられなかったら、その変な人を追い出そうとほえるかもしれない。
つまり、いつも立ち止まって見つめる私を、ハナはなんとかして追い出そうとしていたのだろう。
「そんなの、全然考えてなかった。そっか、私、怪しかったんだ」
「日代子が怪しいわけじゃないと思うけれど。
でも、番犬は忠誠心が強いから、顔を覚えてて追い払おうとしてたのかもね」
「そっかあ」
先にほえてきたのはハナのほうだけど、おびえた私を見て、ますます怪しいと思ったのだろう。
怪しく思われないために、私はなんでもないふりをしなければならなかったのだ。
「私も仲良くなれるかな。仲良くなれたら、ハナちゃんを好きになれるかも」
「なれるよ」
どちらも夕は肯定する。
「仲良くなりたいって思えたら、なれるよ。俺もいるし」
「うん、そうだね。夕が教えてくれれば大丈夫!」
夕と同じくらい自信を持って言い切ると、夕は少し照れた顔でうなずいてくれた。
__
次の日の朝も、夕は待ち合わせ時間よりも早く来て、本を読んでいた。
「今日はなにを読んでるの?」
「ブリーダーへの道」
「また文字いっぱいの本?」
「家にあるの、そういうのばかりだから。文字がいっぱいあるほうが、読むときにワクワクする」
「ワクワク……」
本の好みは人それぞれだ。
私が好きな少女漫画だって、読まない人は読まないし、夕が面白く読めているのなら、それでいい。
「今日はちょっと作戦を考えてきたんだ」
「作戦?」
「うん。でも、俺がハナと仲良くならないとできない作戦だから、どうだろう」
昨日の時点で、ハナは夕を敵だとは思っていなかった。
それに、動物に詳しい夕なら、時間をかければハナと親しくなれそうだ。
「俺はハナにほえられないでしょ? だから、まず俺が行ってハナを引き付ける。それで――」
「私が後ろを通り過ぎればいいの?」
「それだと俺がいないときにほえられちゃうよ。日代子がほえられないようにしなくちゃ意味がない」
「あっ、そっか」
夕だって、これからずっと私に付き合うわけにはいかない。
私がほえられなくなるまでの約束で、ここまで来てくれているんだから。
ちょっとさみしいけれど、夕を困らせてはいけない。
「だからさ、俺がハナのいかくをやめさせてる間に、日代子が来ればいいんだよ。
そしたらハナも、日代子にうなればいいのか、俺を見てればいいのかで迷って混乱するから」
「えっと――友達と怪しい人が一緒に来たみたいな感じ?」
「そんな感じ。でも、その場合は怪しい人を優先したほうがいいよ」
作戦を確認しあって、ハナのいる家へと向かう。
いつもなら、近づくたびに嫌な気分になってくるのに、今日は不思議と落ち着けていた。
作戦に夢中になっているからでもあるけれど、となりの夕が楽しそうだから、私もつい、楽しくなっている。
うれしそうに動物の生態を話す夕は、ちょっとかっこよかった。
「それじゃ、俺が手を振ったらこっちに来てね」
先にハナに警戒されては台無しなので、私はいつもの電信柱より、さらに手前にある街灯のところで身をひそめた。
夕が手を振ってくれれば、すぐにかけつけられるだろう。
「走っちゃだめだよ、目立つから」
「ああ、そっか。気をつけなきゃ」
「それと、できるだけ自然にね。緊張してたらハナも緊張しちゃう」
「難しいね」
「簡単だよ」
夕はちょっと恥ずかしそうにほほえんだ。
「俺に会いに行くって思えばいいんだ」
「……え?」
「じゃあ、行ってくるね」
夕はそう言って歩いて行ってしまった。
門の前に立った夕は、しゃがみこんでハナを呼ぶ。
鳴き声がしたけれど、昨日会ったことを思い出したのか、すぐに静かになった。
すぐに合図がくるかと身構えるけれど、夕は和やかにハナに話しかけるだけで、手は上げなかった。
ハナの警戒を完全にとくために、がんばって仲良くなろうとしているらしい。
私も、がんばらなきゃいけない。
ハナが落ち着いたのを見計らって、夕が手を上げる。
走りよったらハナを驚かせてしまうから、ゆっくり、あせらずに進まなければならない。
自然にはできてないけれど、言われたとおりに夕だけを見て歩けば、そんなに緊張しないですんだ。
夕は私のほうを見ないで、ずっとハナに語りかけている。
ちょっとずつ夕の声が届くようになって、もう少しでハナが見えそうなところで、夕の手が私を制した。
「大丈夫だよ」
立ち止まった私の耳に、ハナのうなり声が聞こえた。
ドキッとしたけれど、夕がハナに言っている言葉は、私にも聞こえている。
「恐くないよ。優しい子だから、大丈夫。
俺たちは、君と仲良くなりたいんだ」
うなり声はやんでいない。それでも、夕は私を手招く。
夕に応えて、私は夕のすぐとなりに立った。うなるハナと顔を合わせるけれど、この距離でもハナはほえたりはしなかった。
「ほら、全然恐くないからね。なにもしないよ。
日代子もなにか言ってみて」
それは、作戦には入っていなかった。だからなにを言えばいいのかわからない。
言葉に詰まる私を見て、夕がお手本を見せる。
「それじゃ、自己紹介しようか。昨日が初めましてだったからね。
俺は夕っていうんだ。動物が大好きで、もちろん、ハナのことも好きだよ。ほら、日代子も」
「う、うん」
門の中をそっとのぞく。ハナと目が合って緊張してしまうけれど、これはちょっと違う緊張だった。
「えっと、私、日代子。い、いつもびっくりさせてごめんね。でも――」
大丈夫。私は息を吸い込んだ。
「これからは、仲良くなりたいの。私と友達になってくれないかな、ハナちゃん」
犬はしゃべらない。人の言葉が全部わかるわけでもないだろうし、わかったとしても、答えてくれるとは限らない。でも――
「ほら、笑ってる」
私には、ハナの表情の見分けはつかない。でも、夕が言うのなら、きっと笑ってくれたのだろう。だから、私も笑いかけてみた。
きっと、これから仲良くなれるはずだ。
「ありがとね、夕」
いつもよりずっと早い時間だから、ゆっくりゆっくり二人で歩く。こんなに晴れやかな気持ちで学校に行けるのは、初めてだ。
「俺はなにもしてないよ。日代子ががんばったんだ」
「夕がいなかったら、がんばれなかったもん。だから夕のおかげだよ」
そう、夕のおかげだ。
私のために夕がいろいろ調べてくれたのは知っているし、こうやって夕が付き添ってくれなかったら、恐いところにばかり目がいって、ハナと心から仲良くなろうとは思えなかった。だから、夕には感謝している。
「それでさ」
言いづらそうに夕がこちらを見る。
「明日は、どうしよっか」
「うん……」
本当のことを言えば、もっと夕と一緒にいたい。
でも、ハナのことはもうそんなに恐くないし、きっと一人でもハナに話しかけられるだろう。夕が、手伝ってくれたから。
夕もそれがわかっているのか、浮かない顔をしている。
まだ二回しか一緒に学校に行っていないけれど、私たちは、きっと友達になれる。
でも、学校だと女の子と男の子が二人でいるのは、難しい。
からかわれたらいやな気持ちになるし、夕に迷惑に思われるのは、もっといやだ。
「夕は、どう思う? 私、一人でも大丈夫だと思う?」
聞いてみると、夕は答えに困って下を向いた。うそをつきたくないのだろう。
「私は、夕がいてくれたほうが安心する。
夕のお話聞くの、楽しいし」
今日までは犬の話しかしなかったけれど、もっともっと、夕の口から、いろいろな動物の話を聞きたい。夕と友達になりたい。
「俺といて、楽しい?」
「うん! だって、物知りだし、詳しいし」
「俺も――俺は、日代子と話すの好き」
言い切って、夕は顔を上げた。
夕の緊張した顔を初めて見て、私にも緊張が移る。きっと、私の顔も真っ赤だ。
「だから、明日も来ていい?」
夕の言葉に、私は答えられなかった。かわりに、ブンブンと頭を縦に振った。
こうして、動物に嫌われる私と、動物が好きな夕は、友達になった。
だからといって、私が動物に嫌われるのは変わらない。それでも、もう大丈夫だった。
動物に嫌われやすくても大丈夫だって、夕が証明してくれた。恐がらなくてもいいって、夕が教えてくれた。
そんな夕がそばにいてくれるなら、きっと、どんな動物とだって仲良くなれる。
私は、そう信じることにした。