第壱話 蜘蛛の糸
―――蜘蛛の糸を掴んだ。
何処か高い所から垂れてきた、細い糸。
縄とは呼べず、紐と称するにも値しない。髪の毛筋一本にすら劣る、あんまりにも頼りない代物。そんな何の役にも立たない物を――気が付けば、俺はこの手にしっかりと握り締めていた。
なんでそんなことをしたのか――特に理由はない。
地獄の責め苦に飽きた訳じゃない。
俺は多くの人間から、多くの物を取り立ててきた。多くの命を奪った。だから最後に俺の番がきた。ただそれだけのことだ。
だから、俺が地獄で焼かれるのは当然の帰結だった。
納得している。この結果には不満もない。それは確かだ。
それでも俺は、蜘蛛の糸を掴んだ。
気が付けば掴んでいた。必死に、縋り付くように。ただただ、それが欲しくて仕方がなかった。
俺は殺し過ぎた。
殺した数こそが業。魂に刻まれた罪。それが地獄の業火によって清められるまで、俺はこの場所から出られない。
繰り返すが――それ自体に不満はない。
外道の金貸しがやるような、法外な利子を払わせられてる訳じゃないからなぁ。俺がやったことを考えれば、きっとこれくらいの責め苦は当然なんだろう。実際、辛い。酷く辛い。痛い。熱い。それでもこれは当然の結果だからなぁ、納得してるさ。今の状況に不満はない。鬼の取り立て屋・妓夫太郎も、流石に閻魔様には頭が上がらねぇからなぁ。
納得している。
納得してるさ。
殺めた命の数は、そのまま罪の重さに相当する。
流した血の量は、そのまま刑の長さに相当する。
だから当然のことなんだ――今、アイツが、俺の隣にいないのは。
魂は輪廻転生によって六道を巡る。仏教って奴を俺は信じてなかったが、どうやらある程度は本当のことだったらしい。……だからだろう。アイツは、俺よりも先に地獄から引き揚げられた。
考えてみれば当然のことだ。
アイツは俺より弱かった。頭も悪かった。殺しでは俺に格段に劣った。だが――それは。裏を返せば、アイツの罪は俺よりも軽いということだ。
その事実に、ただただ安堵した。
本当のアイツは、ちと泣き虫で頭も悪いが、その分とても素直な娘だ。俺の自慢の妹だ。それなのに俺みたいな馬鹿な兄を持っちまったせいで、悪い娘に育ってしまった。『奪われる前に奪え、取り立てろ』なんて馬鹿なことを俺が教えちまったせいで、在り得たかもしれない幸福を不意にしちまったんだ。
―――――全ては、俺のせいだった。
地獄での責め苦は俺一人で受けるべきだ。だから俺は、今のこの状況にそこそこ満足していた。何せ、俺は今一人だからだ。
独りで地獄の責め苦に耐え続ける。
アイツの分まで
終わらない苦痛に俺は何の不満もない。ただ、アイツとの約束を破ってしまったことが、ただただ申し訳なかった。
―――離れない! 絶対離れないから!
―――ずっと一緒にいるんだから!
―――何回生まれ変わっても、アタシはお兄ちゃんの妹になる! 絶対に!!
耳に焼き付いた声が、逆に俺の意志を頑なにさせた。
お前は俺の妹でいたいと言うけれど。
俺も、ずっとお前の兄でありたかったけれど。
そう願った結果お前が不幸になっちまうのなら、そんなのは認められない。俺は嫌だ。絶対に絶対に、嫌なんだよなぁ。
だから俺は、一人でいい。
此処でずっと独りでいい。
それが俺の本心だ。その筈――だったんだが、なぁ。
それでも俺は、手を伸ばしちまった。
天から延びる白い
何故ならこの糸の煌めきは――お前の綺麗な髪の色と、そっくりだったからなぁ。
……―――なん、だ?
糸を手にした瞬間、なんだか意識が遠くなった。身体がふわふわとして、地に足がつかない。まるで幽霊にでもなったみたいだ。……いや、もう死んでたっけなぁ。
俺は遠くなる意識を繋ぎ止めようとしたが、全く抵抗できなかった。糸から溢れ出る暖かな光に包まれながら、俺の意識は段々と薄れていく。痛みも悔いも、何もかもが曖昧に濁っていった。
そうして、何も分からなくなる直前に。
―――ずっと一緒にいようね、お兄ちゃん。
とても懐かしい、愛しい娘の声を聴いた気がした。