互いに木刀を持ち、全力で打ち合う。
炎の呼吸の剣技は以前に俺が俄知識の猿真似で行った“震脚”と“懸り打ち”の理念に近いものであるらしく、結果として斬撃の威力はどれも一撃が必殺に値するものだ。そのため、真剣でなくとも当たると死ぬほど痛い。凄く痛い。掠っただけでも内出血が半端ねぇからなぁあこれ……!
千寿郎に曰く、修行がこの段階に入って無事に完了したのは甘露寺蜜璃嬢だけであるという。
連日木刀で叩かれ、しかしこちらの攻撃は一度も当たらない。これは一体どういう苦行だ。それこそ煉獄にでも囚われているようだ。
俺は辛い。
耐えられない。
鬱憤を晴らさせてくれ杏寿郎師範。
怨念を込めた一刀で杏寿郎の木刀を打ち返し、押し返す。打たれる度に文字通り剣筋を体で覚え、少しずつ迎撃や返し技をするゆとりというか肉体の反射ができてくる。
この段になると、刀での間合いの計り合いにはそれほど苦心しなくなった。
杏寿郎師範に曰く、戦いにおける勝機とは四種ある。
先の先――敵が油断していたり、裏をかかれるなどして隙を見せている機。
先――敵が攻撃を仕掛けようとして、意識が攻撃に集中し、体も攻撃準備のために固まり、防御が疎かになる機。
先の後――敵が攻撃を繰り出している最中、防御のしようがない機。
後の先――敵の攻撃を己が防いだ直後、敵が態勢を立て直すまでの、無防備になる機。
これを意識して技を出すようにするといい、との助言を頂戴した。
……杏寿郎の指導はいつも理路整然としていて、非の打ち所がない。最初はもっと精神論的な、
激しく自省しつつ、鍛錬に励む。
現役の柱である杏寿郎と木刀を交える鍛錬は最も過酷だが、これまでに行った全ての鍛錬の中で最も楽しく、やり応えがあった。久しく忘れていた戦いの愉しさを思い出す。痛めつけられる感触に懐かしさすら覚える。そうだ、体を動かすってのは――こうでなくっちゃあなぁあ!
前世から今世まで持ってきた
杏寿郎の燃え盛る炎の如き打ち込みに、飛んで火に入る夏の虫の如く、自ら突撃して行く。
「―――――!」
己の身を顧みず攻勢に出続ける俺に対して、杏寿郎は僅かに目を細める。
足りない。まだ足りない。
漸く楽しくなってきた所なんだ、もっと血を燃やさせろ、命を燃やさせろよ、なぁあああ!
木剣がぶつかり合う甲高い音と、じんと手が痺れる感触が心地い。
ずっと負け続きだったが、修行の日々はかつてない程爽快だった。
次の杏寿郎の手は伍ノ型。更に連続で弐ノ型、肆ノ型―――
木刀で、あるいは己の肉で杏寿郎の一刀を受ける。その度に血が湧き、肉が踊るのを自覚する。全身が打撲まみれだ。手酷く腫れている。痛い。熱い。痛い。熱い。
網膜が煮え、視界が赤く染まる。
ああ――まるで、体が炎で灼けているみたいだ。
* * *
妓夫太郎の上達振りは異常だった。
最初は杏寿郎の打ち込みに対して為す術もなかった彼だが、今では対等ではないにしても、戦いと呼べる域の剣戟を繰り広げている。少なくとも――兄が鬼と戦っている姿を直に見たことのない千寿郎には、目の前の光景は、稽古ではなく剣士同士の戦いとして映った。
「うむ! この短期間で随分と腕を上げたな、謝花少年!」
心からの惜しみない賞賛を浴びせながら、その一方で杏寿郎は一切の手加減なく妓夫太郎に打ち込む。
防戦一方。
妓夫太郎は相手の上段からの剣撃を牽制する、平正眼の構えで防御の体勢を取る。
炎の呼吸――伍ノ型、“炎虎”。
強烈な踏み込みから発せられる、正面からの突進と同時の薙ぎ払い。杏寿郎の総身から立ち昇る燃え上がる闘気が、見る者に炎の猛虎を幻視させる。
怒り狂う大型の虎に喰い付かれ振り回されたかの如き暴力の嵐が、妓夫太郎の木刀――延いては全身に襲い掛かる。
衝撃で腕が痺れる。次の行動を遅らせる。
「炎の呼吸――弐ノ型“昇り炎天”、肆ノ型“盛炎のうねり”!」
返す刀で下方から逆袈裟に、日輪が空を昇る軌跡を描く斬り上げ。そして逆巻く炎のように、前方一帯を薙ぎ払う横薙ぎの一閃。
妓夫太郎は片足を滑らせ半転、二撃目を辛うじて回避する。そこに容赦なく三撃目が叩き込まれた。辛うじて木刀で受けたものの、凄まじい斬撃の圧力に腕ではなく足が屈し、その場に踏ん張ることができず地面の上を滑るように転げる。
間合いが開いた。
彼我の距離を埋めるためには、七歩か八歩を必要とする。
受け身を取り、半ば跳び上がる形で素早く立ち上がる妓夫太郎。
「炎の呼吸、壱ノ型―――」
杏寿郎の肺胞から吐き出される呼気が、炎が空気を喰らい燃え盛る様に似た音を轟かせる。
右肩に担ぐ上段の構え。その体勢から足を爆裂させて踏み込み、杏寿郎はたった一歩で彼我の距離を零にした。
先の先の勝機。
疲労によってか妓夫太郎の腕は上がらず、下方に垂れたまま。杏寿郎の斬り下ろしは、間違いなく妓夫太郎の頭頂を捉えるだろう。その直前―――
「―――炎の呼吸、弐ノ型、“昇り炎天”」
下方から円を描くようにして斬り上げる一刀が、杏寿郎の一撃を強烈に弾いた。
鋭く速い、出鼻を挫く一閃。
杏寿郎よりも非力である妓夫太郎の反撃が、杏寿郎の攻撃を防ぐどころか、あろうことか両腕を握る木刀ごと跳ね上げさせてみせたのだ。
―――柳生新陰流に“
相手の斬撃に対して全く対称の斬撃を当てることで、相手の剣筋を逸らし、且つそのまま相手の肉と骨を断つ術理。自身と対手の筋力は同じ――あるいは相手の方が優れていたとしても、この技は相手の一刀に対し必ず打ち勝つ。
力は同じでも、その性質には明確な優劣が存在するからだ。
ただ単に肉を断つつもりで放たれた相手の刃に対して、最初から相手の剣を迎え撃ち、それごと斬るつもりで放つ己の斬撃。前者と後者では、圧倒的に後者が優れるのは明らかだ。そして相手の意表を突くという特性も合わさって、江戸柳生を筆頭に、この剣理は多くの流派にその形が見られる。
得物は刀、行使するのは人体。目的は殺生。
道具、運体、理念の三つが一致する以上、有効となる動作の構造は必然的に限られたものとなる。各流派ごとに名前こそ異なれど、実質同じ性質のものであるという技は日本に留まらず世界中に存在しているのがその証左だ。
妓夫太郎が取ったのは先の後。
敵が攻撃を繰り出している最中、それに集中している隙を突く戦機。しかし相手は現役の柱である強者、この程度の迎撃技では隙すら作れない。
両足の踏み込みを強く、仰け反りそうになる上体を強靭な腹筋の圧力で屈服させる。
反撃で受けた衝撃を完全に押し殺し、杏寿郎はそのまま壱ノ型“不知火”の絶技で以って素晴らしき弟子に報いようとして――背筋の骨が軋む音を聞いた。
炎の呼吸・■ノ型―――
目の前の少年から、強烈な負の感情が溢れている。
赤い眼が、紅く燃えている。
悪意。害意。そして――殺意。地獄で亡者を苦しめる獄卒の鬼が纏っているような。歪んだ邪気に満ちた喜悦の炎が、妓夫太郎の内側から皮膚を食い破り這い出る様を幻視した。
「―――ひ」
妓夫太郎が面を上げる。
濃い隈に縁取られた目尻の垂れた双眸は酷く充血し、鬼の眼の如く赫く煮え滾っていた。
「ひひっ、ひはははははははははははッ!」
喉から哄笑を走らせながら、妓夫太郎は前進し腕を振るう。
間合いの内――しかし刀で斬るには近過ぎる距離。その状況で、振り被った腕を戻すように内側へ引き込む動作。
まるで抱き着くような動き。しかし、その全てが悪意に満ちている。
杏寿郎は、今まさに背後から死神が忍び寄り、己の頸を刈り取らんとしている幻を錯覚した。
「兄上―――!」
離れた位置から見ていた千寿郎が悲鳴を上げる。
杏寿郎は咄嗟に技を中断、地を這うように腰を低く落として後方へ跳ぶ。彼らしからぬ軽業師の如き体捌きで、杏寿郎は妓夫太郎の間合いから急速に離脱した。
すかさず木刀を構え、
妓夫太郎の姿を再び視界に捉えた時、杏寿郎は感心の頷きをした。あのまま回避をしていなければ、
妓夫太郎の右手は、左脇の下に納まっていた。
木刀を掴む手は順手ではなく逆手。それも相手側ではなく、己自身の側に刃を向けた異形の握り。相手の背面――完全なる死角から頸を断つ、
炎の呼吸――壱ノ型、“不知火”が
「炎の呼吸・
読んで字の如く。
得物と前腕を、鎌の刃と柄に見立てての一手。それは正しく、油断した獲物を死角から捕らえ喰らう、蟷螂の狩りを模した斬撃だった。
「まだだ……まだ、足りない。足りねぇなぁああああああああ!」
喜悦に口を歪めた悪鬼の形相で、妓夫太郎は踏み込む。
杏寿郎と同じ、たったの一歩で彼我の距離を零とする爆裂の縮地。
―――ゴォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオ
その口から漏れ出す呼吸音は、まるで燃え盛る炎の燃焼音のようだった。
飛んで火に入る夏の虫。その文字通りに、
「―――――フンッ!」
「アアァァアアアア!」
炎の呼吸・参ノ型“気炎万象”が崩し――蟲ノ型参ノ段“
頭上に太刀を構えた大上段の体勢で完全に静止している状態から、予備動作を皆無とした、人間ではありえない蜘蛛の如き歩法と跳躍から繰り出される奇襲の技。
炎の呼吸・陸ノ型“
一度の踏み込みから、同じ個所に同時に二度の突きを叩き込み、勢いに任せて横へ薙ぎ払う獰猛な蜂の如き突き技。
炎の呼吸・肆ノ型“盛炎のうねり”が崩し――蟲ノ型肆ノ段“
暴力的にうねり、のた打ち回るような、不可解な太刀筋が縦横無尽に前方を薙ぎ払う。土の竜の異名を取る虫――
(この動き――呼吸法は俺と同じ炎の呼吸でありながら、剣技と体捌きは胡蝶に酷似している! いや、胡蝶の蟲の呼吸と同じく、蟲が狩猟や回避の際に見せる動きを模した技か! 剣術を習い始めてそう日が経っていないにも関わらず、こうも早く炎の呼吸法の剣技の真髄を把握し、自身の身体にあった形に崩すとは! 甘露寺とは別の方向で独創性が強いようだな、謝花少年は!)
人でありながら虫の技を行使する異形。それこそが謝花妓夫太郎が、戦闘時に自らが持ち得る最大の攻撃力を発揮する
妓夫太郎の勝負手は、武器として鎌を使用していた際に染み付いた剣筋の癖――それを悪用した異形の技と、持ち前の素早さとを頼みとした猛攻だ。杏寿郎の手数を一とするなら、妓夫太郎のそれは十に届く。
しかし虫がいくら炎に飛び込んだ所で無意味だ。火は消えず、それどころか燃料を得て余計に火力を増す。
(すごい――二人の動きが、ぜんぜん視えない……!)
驚愕に目を見張り、息をすることすら忘れて杏寿郎と妓夫太郎の剣戟を見守る千寿郎。
妓夫太郎の動きは確かに凄まじい。しかし、未だに杏寿郎には一撃すら入れることが叶わない。攻撃は全て木刀で防がれ、あるいは紙一重で回避されている。
「ハア、ハア、ハ……ッ! ハ、ハア、ハア、ハア、ハ―――――ッ!」
熱に浮かされた獣の如く。妓夫太郎は、ただひたすらに己の限界を超えていく。
血を燃やしている。
命を燃やしている。
貪欲に燃料を喰らい速度を上げ続ける暴走列車。その行き着く先は相場が決まっている。派手な自爆による破滅。自らの命を代償とした停止によってのみ、この狂騒は終わりを告げる。
けれども――それではあまりに忍びないと。
煉獄杏寿郎は、妓夫太郎が終焉を迎える前に、自らの手で終幕の帳を斬って落とす。
「―――ハァァアアアアアアッ!」
妓夫太郎が技を繰り出そうと攻撃に集中し、防御を疎かにした時を見計らう。
先の勝機。
渾身の力で木刀を振り上げる。下方からの一撃が、正確に妓夫太郎の
「妓夫太郎さん!?」
「良い動きだったぞ、謝花少年! 千寿郎、謝花少年の手当てを頼む! ―――さて! これは、新しい鍛錬法を考えねばならんようだな!」
慌てて気絶した妓夫太郎の下へ駆け寄る千寿郎。
杏寿郎は額に浮いた汗を手拭いで拭き取ると、相も変わらぬ溌溂とした声で宣言し、今後用意すべきものについて頭を巡らせ始めた。