何度生まれ変わっても   作:ミズアメ

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第弐話 虫のように生きて、それから

 気が付いた時、俺は薄汚い襤褸(ぼろ)小屋にいた。

 

 ここがどこなのかはすぐに分かった。俺の家――吉原にある遊郭の中でも最下層のごみ溜め、羅生門河岸にある貧乏遊女屋の一室だ。

 (しばら)くの間、床に寝転がったまま呆と天井を眺める。

 さっきまで、俺は地獄にいた。それは間違いない。鬼になって人を食らい、鬼狩りに頸を斬られ、その果てに妹共々地獄行きになったのだ。

 

 けれど、俺は生きていた。

 

 全身が不快と苦痛に苛まれている。これは生きているからこそ感じる痛みだ。殴られ、蹴られ、石を投げられた体が痛い。垢を落として貰えず、髪はふけで汚れ、(ノミ)に噛まれた箇所がひたすらに不快だった。

 

 どうやら俺は、再び人間としての生を得たらしい。

 

 これが輪廻転生という奴なのだろうか。地獄での贖罪の日々が終わり、俺は再び人として生きることを許されたのか。だとしたら……―――あんまりだ。

 

 どうして俺はまた、こんな所にいるんだ。

 

 羅生門河岸の母屋には当然の如く母がいて、これまた当然の如く俺を虐げた。

 

 ―――醜い。汚い。気持ち悪い。死んでしまえ。お前なんて生まれてこなければよかったのに。

 

 殴られ、蹴られ、罵倒される日々。俺が人間だった頃の、くそったれな人生の焼き回しだ。

 この吉原における商売道具は芸か体だ。その両方が致命的に下手糞だった母の生活は極貧で、子供に飯を食わせるゆとりなんてある筈もない。だから俺は産まれる前も、産まれた後も、何度も何度もコイツに殺されそうになった。

 

 暴力を振るうのは母だけではなかった。

 

 羅生門河岸に住む連中のほとんどが、俺に石と罵倒を投げた。俺の容貌が、相変わらず醜く汚かったからだ。

 だから俺は、虫のように生きることにした。

 やることそのものは以前と変わらない。腹が減ったら虫や鼠を捕まえて食べ、客が置き忘れた鎌を玩具にして弄び、気を紛らわせた。

 

 今の年号は明治であるという。

 

 前世で俺が生まれたのは江戸時代・文政の頃だったのだが、どうやら今はそれから九十年ほど経過した時代――つまりは、俺があの四人の鬼狩りに頸を斬られた時分とほとんど同じ頃に生まれ変わったらしい。その事実に気が付いた時、俺は愕然とした。

 

 俺の母は梅毒持ちの遊女だ。

 

 当然、父親が誰かなんてわからない。それは妹についても同様のことが言えるのだ。

 

 このことが表すのは、つまり――妹が、梅が産まれない可能性があるということだ。

 子供は女が一人で産むものではない。男と交わって初めて誕生するものだ。何故かは分からないが、俺は前世と同じように生まれることが出来た。だが、梅も同様に俺の知る梅として生まれてくるとは限らないのだ。

 

 生まれてくるのは別の子かもしれない。

 仮にもし運良く胎に宿ったとしても、流産する可能性もあった。

 

 だから俺は、何も期待せずに生きることにした。虫のように日陰に隠れて、人目につかぬように静かに暮らした。けれども母から離れる気は起きなかった。奇跡を期待する気持ちはどうしようもなく抑えられなかったからだ。それでも、後に来るであろう絶望に諦観交じりで備えてもいたが。

 

 しかし、それも杞憂に終わった。

 

 俺が二歳の時、母が子を産んだ。取り上げたのは俺だった。

 

 母の股から出てきたものが、産声を上げている。必死に己の存在を訴える小さな命をそっと両の腕で抱えたその瞬間に、俺は確信した。

 

 ああ――この娘は、梅だ。間違いなく俺の自慢の妹だ。

 

 この時、俺のやるべきことは定まった。

 俺はこの娘を護る。遊郭で我欲のまま他人を食い物にするような屑共に、奪わせはしない。

 

 * * *

 

 まずは仕事を探すことから始めた。

 

 幸いにも俺の頭には遊郭の仕事で必要とされる全てのことが知識として入っている。幼い餓鬼だろうがやれる仕事はそれなりにあった。どんな些細なものでも内容を問わず、しかし最低限度の賃金を得ることは確約させて、俺は昼夜を問わず働いた。

 

 そんな生活が三年程続いて、母が病で死んだ。

 

 正直に言ってどうでもよかった。

 

 俺は五歳の時点で取り立て屋の仕事を始めた。

 俺には前世で人として、そして鬼として戦った記憶があったから、たとえ体が幼く、身体能力が劣悪であろうとも、戦うこと自体に問題はなかった。大人が相手でも十二分に立ち回れた。そんな訳で、下っ端の下っ端、見習いの見習いだった俺は、直ぐに一端の妓夫として働けるようになった。

 

 妓夫太郎の名は、吉原に刻まれた。

 

 金を稼げるようになったが、俺の生活は大して変わらなかった。正確には、変えなかった。

 賃金はそのほとんどを梅の生活費と貯金に回し、俺自身のためにはびた一文として使わなかった。だから俺は痩せたままの醜い姿で、虫を食って長い月日を乗り越えた。

 

 ただ目標のために生きていた。そして、全てが順調だった。

 

「―――お兄ちゃんといっしょにいたいぃぃぃぃいいいいいいいいいいい!」

 

 梅のぐずりには、ほとほと手を焼かされたが。

 

「いっしょにいたい! いっしょにいたい! いかないでよぉ、やだ、やだやだやだぁ!」

 

 銀色の髪を振り乱し、手足をじたばた振って床の上で泣き叫びながらのたうち回る梅。

 一緒にいたい――梅の口からこの言葉を聞くと、途方に暮れてしまう。もう二度と決して破らないと誓った約束を反故にしてしまうのかと、そんな風に考えてしまう。

 この娘はまだ三歳なのだ。一人では寂しくて当然だ。だが梅のためを思えばこそ、ここで頷く訳にはいかなかった。

 

「俺だってお前と離れたくなんてないさ、本当はなぁ。でも仕事だから仕方ないんだ」

「じゃあアタシもいっしょにいく!」

「それは駄目なんだよなぁ、危ないからなぁ」

 

 涙目でしゃくりを上げる梅を起こし、指先で涙を拭う。そして頭を撫でてあやしながら、俺は懸命に言い聞かせた。

 

「いいか、梅。俺達は二人なら最強だ。分かるか、なぁ?」

「……うん。さむいのも、おなかがすいても、へっちゃらだよ」

「そうだ。約束する、ずっと一緒だ。絶対に離れない」

「じゃあ―――!」

 

 梅は期待に顔を輝かせる。しかし、俺は頭を振った。

 

「そういうことじゃあないんだよなぁ。俺は今この世に生きてて、お前もこの世に生きてる。そのことが重要なんだ。俺とお前は二人っきりの兄妹だ。だからこそ、俺とお前の心はいつだって繋がってる。絆がしっかりと結ばれてるんだよなぁ」

「きずな……?」

「ああ、そうだ。―――俺はいつだってお前のことを想ってる。だから、お前も俺のことを想っててくれ。そうすれば、体は離れていても心は離れない。ずっと一緒にいられるんだ」

 

 自分でも驚くほどに穏やかな声で、優しく言い聞かせる。

 梅は俺の言葉を必死に呑み込もうとしているのだろう。視線を忙しなく動かして、幾度も吟味するように頷いている。それから暫くして、梅は上目遣いに俺を見上げた。

 

「お兄ちゃんとアタシは、ずっといっしょ?」

「ああ、そうだ。そうに決まってるよなぁ」

「……うん。わかった。おしごと、いってらっしゃい。でも、はやくかえってきてね」

「ああ、今日は夕方までには戻れるからなぁ。飯は用意してあるからちゃんと食えよ。―――それじゃあ、行ってくるからなぁ」

 

 踵を返して、俺は家を出ていく。

 梅は力一杯手を振って、俺を送り出してくれた。

 

 * * *

 

 五歳になった梅はいよいよ俺の手に負えなくなってきた。

 

 事の発端は些細なことだ。

 

 羅生門河岸の連中が、俺の悪口を言っていたらしい。内容は聞かなくても想像がつく。醜く汚い虫けらが上手く稼いでいるもんだから、そのことに関してあることないこと言っているのだろう。

 

 それを聞いた梅は激怒した。

 

「お兄ちゃんの悪口を言うやつは許さないから! 絶対に殺してやるんだからッ!」

 

 そう叫んで、石を投げたらしい。

 

 大人でも抱えるのが困難なほど重い漬物石を投げたらしい。

 

 しかし命中はしなかった。命中しなかったので、梅は漬物石を持ち上げたまま振り回して、俺の悪口を言った奴を日が暮れるまで一日中追い掛け回したらしい。

 

 らしい、らしいと曖昧なのは、これが人からの又聞きだからだ。

 幸いにも俺は妹が怪力乱神と化した様を直接目撃した訳ではないので、辛うじて現実から逃避することで精神的な致命傷を避けていた。

 

 ……前々から疑問に思っていたことではあった。

 

 梅は間違いなく俺の妹だ。前世では十二鬼月の一角、上弦の陸・堕姫であった鬼だ。本人は前世のことを覚えていないようだが、その点だけは間違いない。

 しかし前世の影響なのか、それとも鬼狩りの中にも何人かいた特異体質の人間という奴と同じなのか。今の梅はとにかく力が強かった。単純な腕力では俺よりも上だと思う。その上相変わらずきかん坊で泣き虫なものだから、俺はといえばどう教育したものかと途方に暮れるしかなかった。

 

 正直に言えば、怒る気にはなれなかった。

 

 そもそも相手は俺を殊更に虐げてきた奴の一人だ。普段外に出ない梅が俺の悪口を聞いたというのなら、それはアイツが態々(わざわざ)家にまで言い聞かせに来たということだろう。至極個人的な感情を述べるなら、未遂で終わらずそのまま撲殺してくれてもよかった。というかむしろ今から俺が殺しに行ってやろうか。

 

 いや、いかん。駄目だ。それじゃ駄目なんだよなぁ。また繰り返しになっちまう。

 

「いいか、梅」

「ふん、アタシ悪くないよ。お兄ちゃんの悪口を言うあの不細工が悪いんだもん」

「ああそうだな、それはいい。もういい。もういいからなぁ。別に俺はお前がアイツにしたことを怒ってる訳じゃないからなぁ」

「じゃあ、どうしてお兄ちゃんはそんなこわい顔をしてるの?」

 

 目尻に涙を貯め、泣きそうに顔を歪めて梅が見上げてくる。

 俺は懸命に頭を回転させた。ここで間違えれば、きっとまた取り返しのつかないことになる。

『奪われる前に奪え、取り立てろ』。それは間違いだ。間違った教えだった。そんなんじゃあ、誰も幸せにはなれない。だから別の生き方を教えなければならなかった。

 

 だが……―――だが、それでも。

 俺は、今までの俺の生き方が、考え方が。全部が全部間違っていたとは思えないんだよなぁ。

 

「いいか、梅。人の金も、体も、誇りだって、奪われちゃいけねぇ。誰かのものを不当に奪う行為は、全て許されないことなんだよなぁ。そして物事には必ず人に与えられる分量があって、人に与えた貸しの分は貸した分だけ取り立てなきゃならねぇ。でなければ奪われ続けることになる」

「じゃあ、やっぱりアタシのしたことは間違ってないんだよね!?」

「ああ、間違ってねぇ。決して間違っちゃいねぇんだよなぁ。でもな、貸した分だけ取り立てるってことはだ。逆を言えば、それ以上のものを取り立てちゃいけねぇんだよ」

 

 それが、俺が出した答えだった。

 

 貸した借りは必ず取り立てる。だが、それ以上のものを取り立てることは駄目だ。

 弱者は奪われ続ける。不当な利子を、いつまでも取り立てられ続ける。悪とはそれをやる者だ。許されない行為とは、それをやることだ。そんなことをするのは、悪鬼だ。鬼だ。人間のすることじゃあ、ねぇんだよなぁ。

 

「悪口を言われたんなら言い返せ。殴られたなら遠慮せず殴り返せ。だが、殺すな。命までは取り立てるな。もしも殺してもいい奴がいるとすれば、それは誰かの命を奪った奴だけだ。そのことをよく覚えておいてくれ、梅」

「…………うん、わかった」

 

 泣きそうな顔のまま、梅は頷いた。

 俺の言ったことは難しくて、まだ五歳の梅には分からなかったかもしれない。きちんと伝わらなかったかもしれない。それでも、今は良しとした。きっといつか分かる日が来ると、そう信じることにしたのだ。

 

「よし、それじゃあ今日はもう寝ようなぁ」

「うん!」

 

 涙目のまま元気よく頷く梅の頭を撫でてから、俺は立ちあがった。

 押入れを開け、中から折り畳まれた薄い布団を引きずり出す。それを床に敷いて、俺は掛布団の中に潜り込んだ。間髪を容れずに梅が隣に這い進んでくる。彼女は俺の胸の上に頭を置いて、名の如く梅の花のような愛らしい笑みを咲かせた。

 

「おやすみ、お兄ちゃん!」

「ああ。おやすみなぁ、梅」

 

 囁くように告げて、瞼を閉じる。

 視界が閉ざされた暗闇の中。意識がゆっくりと薄れていく最中に――俺は、自分の内側で何かが激しく燃えている音を聞いた。


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